借りてきた猫のように

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終わらないグラウンドホッグ・デイ(2017年8月20日)



 ブロードウェイ・ミュージカル『グラウンドホッグ・デイ/恋はデジャ・ブ』がオーガスト・ウィルソン・シアターにて公演中。

 もともとはビル・マーレー主演による1993年の映画作品を原作とするもので、知る人ぞ知る人気作。ビル・マーレー演じる天気予報士の主人公フィルがテレビ番組収録のためにペンシルバニア州に実在する人口6000人ほどの小さな町パンクサトーニーにいやいやながら出張するのだが、収録を終えるや帰ろうとするも大雪のために道路が封鎖されてしまい町から抜け出せなくなってしまう。そればかりか、同じ一日を永遠にくりかえす羽目に陥る。 
 「グラウンドホッグ・デイ(聖燭節)」とはグラウンドホッグ(ウッドチャック、リス科)に春の訪れを占ってもらうというアメリカ東海岸の一部地域で実際に行われている行事で、節分に相当する2月2日に開催されている。その起源は19世紀後半に遡る長い歴史を有するも、もともとは小規模な地方行事であった。ところが映画の公開以後、すっかり有名になり、現在では4万人近い訪問客で賑わうほどまでに。

 主人公フィルは、なぜ自分のようなスター・キャスターがこんな田舎町まではるばるやって来なければならないのかと尊大な態度でふるまい続け、周囲から顰蹙を買っている「嫌な奴」。一方、取材に同行するヒロインのリタは、番組プロデューサーとしてフィルのこともうまく扱いながら、お祭りを楽しむ町の人々の様子を魅力的にリポートできるように尽力しており、明るくて気づかいのできる「良い人」。
 日本のポピュラー・カルチャーを視野に入れれば、押井守監督のアニメ映画『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』(1984)や、『涼宮ハルヒの憂鬱』の「エンドレス・エイト」(2009)、ハリウッド映画化された『オール・ユー・ニード・イズ・キル』(2014)など、同じ時間をくりかえすモチーフ(ループもの)は何度も描かれてきた。
 その中で『グラウンドホッグ・デイ/恋はデジャ・ブ』が際立って映るのは、中年男性の恋愛(ロマンティック・)コメディを基調としている点。物語開始の時点ではフィルとリタの間に恋愛感情が芽生える兆しはまったく見られない。「自分にふさわしい相手にようやく出会えた」というエンディングはハリウッドのロマンティック・コメディでお決まりの筋書きだが、男性の「中年の危機(ミドル・エイジ・クライシス)」をめぐる物語でもあって、人生を折り返す年齢を超えて、これからどう生きるかを問い直すことも主題の一つ。
 「もし同じ一日をくりかえし続けるとしたら?」の仮想のもとにくりひろげられるフィルの試行錯誤は哲学的な意味をも帯びるもので、ティーンネイジャーの物語とも異なり、「もううんざり。死にたい」と思っても死ぬという選択すらできない苦悩が切実に映る。

 「なぜ今ブロードウェイ・ミュージカルに?」という疑問を抱きつつも、時代をこえて普遍的に響く物語であることはまちがいなく、中年男性の恋愛コメディというジャンルからも日本では「知る人ぞ知る」作品に留まりすっかり忘れ去られつつあるが、現代版としてリメイクできるなら絶好の機会。
 時間をくりかえす展開は映画であればこそ編集によって表現しやすいものであるが、舞台でははたしてどのように再現しうるのか? また、ビル・マーレーの主演作品ということもあり、傲慢で不愛想で嫌な奴という個性的なキャラクターをどのように演じるのかが焦点となる。フィルは歌って踊る感情表現豊かなキャラクターとは対極の存在である。
 また、「もし同じ一日をくりかえし続けなければならないとしたら?」という、いわば中二男子的な妄想を、大人になりきれない主人公が体現する設定からも、「男性のファンタジー」の典型例となるわけで、映画版から25年の時代思潮の変化を経て、セクハラとなる言動や性的願望をどのように扱うのか。つまり、役者/コメディアンとしてのビル・マーレーによって成立していた要素をどのように継承、あるいは変換しうるのか。ブロードウェイ・ミュージカルの観客層からも年齢は高めで、映画版を踏まえたミュージカル版であることを期待する観客が大半であると見込まれる。

 おそらくは百回を超えるほど同じ一日を何度も何度もくりかえし、そこから抜け出すことがどうしてもできないフィルの苦悩を観客に共有させつつも、苦行を強いるだけではエンターテインメント作品として成立しない。映画版でもこの工夫が随所に凝らされていて緩急の効いた物語展開がこの作品の生命線となる。
 舞台上のターンテーブル(移動式テーブル)を巧みに使い、時に鳥瞰図的な構図なども交えながら、視覚的にも単調にならないような構成が見所。驚くべきことに、映画版と同じ脚本家(ダニー・ルービン)が担当していることにより、映画版のエピソードの多くが2幕2時間30分の舞台でほぼ忠実に再現されている。
 主役を演じるアンディ・カールは、ビル・マーレー演じるフィルに寄せた役作りをしている。誰が見ても「嫌な奴」であることが重要であり、それでいて観客から心底嫌悪されてしまうようでは主人公になりえない。恋愛コメディとしても、哲学的な側面からも、共感もしにくいし、恋愛の憧れの対象となるような主人公ではない。ビル・マーレーならではであった難しい役どころをうまくこなしている。
 また、冬の終わりをめぐる物語であることからも、防寒による冬の装いと、同じ朝の到来を示す場面では部屋でくつろぐ下着姿との対比が重要であるわけで、要は「服を着ては脱ぎ」を何度もくりかえさなければならない。
 主演俳優賞をはじめトニー賞は7部門でノミネートされながらも残念ながら一つも得られなかったのだが、主演俳優、舞台美術、脚本が卓越している。マルチメディア化がより一層進む現在に物語を再創造することで、テレビをめぐるメディア表現や時間を意識させる「時」を現す舞台装置も目を引く。

 2016年英国ロンドンでの初演後、2017年4月にスタートしたブロードウェイ公演初日はターンテーブルが故障してしまったことにより舞台の続行を断念せざるをえなかったという。ほかにも、主演のカールがプレヴュー公演時に怪我をしてしまい代役をたてざるをえない事態などを乗り越えて、人気と評価を着実に高めてきている。けっして派手な物語ではないが作り込まれた舞台であることが随所に見受けられる。
 舞台化を経て、あらためて実感されるのは物語の筋立てはオーソドックスなものであり、ふと映画『素晴らしき哉、人生!』(1946)が思い起こされた。クリスマスを舞台にした物語であることから半世紀以上にわたって、クリスマス時期にテレビなどで放映される定番の物語として現在まで継承されてきた。「自分がもし存在していなかったら?」という仮想の世界を天使によって見せてもらうファンタジーを軸に、人生を見つめ直すという筋立ても実はとてもよく似ている。
 2月2日には『グラウンドホッグ・デイ/恋はデジャ・ブ』を鑑賞することを習慣にしているという声も実際に見聞きするのだが、ミュージカル版を経て、あらためて注目がなされることでこれまでに作品が届かなかった層に関心をもってもらう契機となればと思う。ひょっとしたらいずれ現代版のリメイク映画などの構想も出てくるかもしれない。キャラクター造形や時代思潮の変化を織り交ぜたアップデート版も有効だろう。













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ちょっと普通じゃないのがすごい(2016年5月23日)


 「劇団とっても便利」による5年ぶりの新作ミュージカル『カフェ・ママン』がスタジオ・ヴァリテにて5月19~22日まで公演。1995年に京都大学にて旗揚げされた劇団も早20年を超え、出発点となる京都大学近くに位置するスタジオ・ヴァリテでのホームグラウンドに戻り、「原点回帰」の意味を込めたという。プロデュースや著述・国際的なチャップリン研究など多方面で活躍している主宰の大野裕之のみならず、劇団の主要メンバーも古典劇を含む劇団外の舞台や映画出演など順調に活動の幅を広げてきているのだが、ここ数年の多彩な活動の成果を待望のオリジナル新作公演で発揮してもらえるのは嬉しいかぎり。
私が劇団とっても便利の公演に触れたのは2001年の新宿タイニイアリスでの『バイセクシュアルな夕暮れ』が最初であり、小劇場が原体験となっていたこともあって、このたびの物語および郷愁を誘う音楽の効果も相まって、ふと居心地のよい懐かしさにとらわれる。ロンドン・ミュージカルによる影響を出発点にしてきたことからも社会派の題材をミュージカルの現代劇として表現することで独自の領域を広げてきた劇団であるだけに、久しぶりの新作公演ということで「現代」「社会」を今どのように切り取る/描くのだろうかという関心を強くもっていたのだが、ノスタルジックな要素もまた初期から得意としてきたもので、その点でも原点回帰にふさわしい作品となった。

 『カフェ・ママン』の物語の主人公である百代(佐藤都輝子)と、少女時代から姉妹のように家族ぐるみで育ってきた幼なじみ、円(まどか)(上野宝子)の2人は、アルバイトとして厨房を担当する青年「じろう」(多井一晃)と共に、百代がとりしきっている「カフェ・ママン」で日常を過ごしている。円は小説家志望で店に入りびたり、パソコンを抱えながら文章を常に書き続けているが芽が出ないままでいる。百代の方は少女時代に大好きだったママ/母親の想い出がつまっているカフェの空間を大事にするあまり、経営難を自覚しながらも変化を好まず現状に甘んじている。実際に少女時代役の役者を併置させながら、現在と過去の回想とを交錯させることで、幼なじみとしての2人の関係性が複層的に表されている。
パパ(中島ボイルももう父親役!)が亡くなったママそっくりの再婚相手を連れてきたところから物語は展開していくのだが、あらすじの紹介ではうまく伝わらない、ゆるやかな時間の流れ方は、現在の劇団主演女優である佐藤都輝子のキャラクターによるところが大きいのだろう。すでに実績も相応に積み上げてきているはずであるが、いつまでも擦れた感じがしない独特のやわらかい雰囲気で、「変わらないままでいたいこと」と「それでも変わっていってしまうこと」の狭間で揺れる役どころを好演している。幼なじみである円とは子どもの頃から言いたいことを言い合える仲であるが、大きな変化が起こっていく中でその関係もぎくしゃくしていってしまう。

 劇団とっても便利は20周年といっても、学生劇団から出発していることからもメンバーの移り変わりも激しいようであり、これまでも公演毎に客演やオーディションによる新たなキャストも加わりながら発展を遂げてきた。本公演でも劇団のコアメンバーが個性的な演技と役どころでリードし、新しい顔ぶれの新鮮な持ち味をうまく引き立てている。不思議なぐらい本公演では男女のカップルが出てこないのだが、多井一晃と鷲尾直彦による「やさしさ」と「傷つきやすさ」とを繊細に描く名場面をはじめ、親子であれ、親友/友情であれ、関係性の機微や、環境や歳月の変化に対する戸惑いなどの細やかな心情の変化、感情の発露がミュージカルならではの多彩な歌と多様な手法によるダンスによって表現されている。ホームグラウンドである小劇場だからこそ狭いスペースを存分に効果的に駆使しながら展開され、個々のキャストの動きや生の歌声をじっくりと鑑賞できるのも魅力。
二幕構成の中でモチーフとなる音楽やダンス表現、物語のトーンなども起伏に富んでいるのだが、プロットや小物の細部にわたるまで巧みに構成されており、2時間を超える上演時間があっという間に過ぎてしまう。群集劇であり、キャストが複数の役柄を演じていることもあり、この劇団が得意とする複数の場面が同時に展開される手法など、複数回同じ公演を観ることでより一層味わいも増してくるだろう。

 これまでの作品においても若い世代の登場人物たちが大人になっていく瞬間を捉えようとするところに特色があったが、劇団が歳月を重ねてきたことにより、「成熟」の要素も主要なモチーフとして表れてきているのが本作の特色。変わらないことを望み、懐かしい雰囲気に包まれながらも、それでいて単なるノスタルジアに留まらず、これから新しい世界が開けていくのではないかという予感を、少女時代役の2人の子役女優(田中里奈・川口真菜)が象徴しているように思う。物語上、少女時代は過去の回想という位置づけであり、もう戻れない過去の姿でもあるのだが、実際に舞台で伸びやかに演じられるとその溌剌さが印象として強く残る。劇団とキャストが歳月を重ねていくことによる「成熟」と、対照的な「若さ」とがここでもうまく引き立て合っている。ほか、セラピストの資格を持つという女性弁護士役の高島怜奈は声楽を専攻しているそうで、新たな顔ぶれも個性的で多彩さが際立っている。

 ミュージカル自体はじめてという若い世代の観客も多く、帰り道、興奮しながら感想を喋り合っている姿が印象深いものであった。
「キュートすぎて、ちょっと普通じゃいられないみたい」という挿入歌のフレーズがまさに示すように、劇団とっても便利の作品世界は、キュートでキャッチーな曲を軸に、「ちょっと普通じゃない」感じの物語展開やテイストを織り交ぜていくところにその独自性がある。本作の再演も含め、今後もコンスタントに公演を発表していってほしい。
(『カフェ・ママン』[全6公演]作曲・脚本・演出 大野裕之、2幕、上演時間2時間10分)

2015年11月23日

 デイヴィッド・マメットの戯曲『オレアナ』(1992)が小田島恒志による新訳(栗山民也演出)により再演中(東京PARCO劇場ほか)。大学の研修室を舞台に、男性である大学教授と女子学生を田中哲司・志田未来がそれぞれ演じる2人芝居。現代アメリカ演劇を代表する存在であり、難解さで知られるマメットにおいてももっとも議論を招いた作品の一つであり、PC(「政治的正しさ」)の風潮が過剰に蔓延しつつあった90年代初頭の時代思潮を先鋭的に描いている。授業についていけないと研究室に相談に来る女子学生と、大学での終身在職権(テニュア)を間近に控えている大学教授との間のパワーバランスが3幕ものを通して劇的に展開していく物語なのだが、初演から20年を超える歳月を経て極端な戯画ではなく、大学内で潜在的に起こりうる光景になってしまいつつある。
 日本でも94年9月に同じPARCO劇場(大阪公演は近鉄小劇場)で初演がなされており(キャストは長塚京三、若村麻由美、西川信廣演出、酒井洋子翻訳[劇書房、1994])、99年にも再演されている(長塚京三、永作博美、PARCO劇場ほか大阪・名古屋・福岡公演)。
 94年、99年の公演時も私は観に行っており、とりわけ94年の初演時は私自身が学部生であったことからもとても感慨深い思いがある。当時、履修していた「英米演劇」の授業で年間2本の劇評を書くという課題があり、そのうちの1本を『オレアナ』で書いた。演劇の授業であることからも教室外で舞台を観に行くことを前提とした課題は本来当然のものであるのだが、舞台のみならず、フィルムセンターであれ、ミニシアターであれ、教室外での課外研修はもっと導入されてしかるべきなのであろう。真似事ではあるものの劇評を書くという課題もやりがいを感じるものであった。当時の同級生にしても現在、演劇や文学に関連する仕事についているわけでなくとも、この課題を契機に舞台を観に行く習慣がついて今でも劇場に足を運んでいるという声を耳にする。こうしたことも大学で学ぶ重要な要素であるように思う。
 また、大学の研究室を舞台にした物語であることからも、女子学生に私自身が当時、感情移入することはなかったとしても身近な素材であったわけで、その後、私自身が教員としてアメリカ文学を教える立場になってから十年にわたって『オレアナ』を講読のテキストとして扱ってきた。過剰なことばの応酬で難解な作品でもあるのだが、2人芝居であり、3幕もので展開が見えやすく、電話の役割など基本的な演出の効果を学びやすいなど教育教材として有効な面も多かった。実際には大学内の物語ということよりも、パワーバランスの変化およびディスコミュニケーション(コミュニケーション不全)が主要テーマとなる。
授業時には講読後に、実際の脚本のことばをほぼ忠実に再現している94年のテレビドラマ版(William H. Macy、Debra Eisenstadtによるキャスト)を鑑賞することでまとめとしていたのだが、キャストによっても印象は大きく異なるものになる。Debra Eisenstadtが演じるキャロルは相当にエキセントリックに映るもので受講生も総じて大学教授のジョンに同情的であった。多様なアメリカの教室の光景からも、キャロル役をアフリカ系の女優が演じる舞台版もある。
 大学教員というと当事者でない人から見れば、単位の認定も教員のさじ加減次第であるかのように映るかもしれないが、実際にはそんなことがあるはずもなく、とりわけ今日ではシラバスなどで成績評価基準を明確に設定しており、不合格の認定を下す方が気をつかうぐらいである。場合によっては設定しているはずの成績評価基準を騙し騙し下方修正せざるをえないことも少なくない。とはいえ基準をしっかり保っておかなければ全体の士気も下がってしまうし、単位や卒業の価値自体も下がってしまう。世間で思われている以上に教員は気をつかっているはずである。

 『オレアナ』におけるジョンの立場は今まさに終身在職権の審査を受けつつあるところであり、アシスタント・プロフェッサーからアソシエート・プロフェッサー(准教授)への昇進となる時期に相当することが多い背景からも、このたびの公演では田中哲司演じる40代の大学教師として若い印象を強調している(実際には長塚京三による初演時も田中哲司氏と同じ49歳)。終身在職権の審査に不合格となった場合、パンフレットの解説では「権利を取得できなかった者は研究者として失格の烙印を押されたに等しく、研究者人生を断念せざるをえない」とあるが、いやいやさすがにそこまでのことはなく、単にその大学の基準に合致しなかったというだけで研究者生命を失うまでには至らない。しかし、新しい職場を求めて拠点を移さなければならなくなり、確かにシビアであり、審査の不公平さを訴える裁判が起こされることもある。こうした研究者の任期制は日本の大学でも導入が増えてきており、研究職を目指す大学院生の減少、ひいては国際研究力の弱体化などの事態も懸念されている。

 初演から20年の歳月を超え、当時センセーショナルであったPCの時代思潮が予見する極端な戯画としての『オレアナ』の光景は2015年の今現在、アメリカでも日本でもことさらに特別に映るものではなく「なぜ今この物語が求められているのか」という疑問を若干抱えながらPARCO劇場に向かった。結論から言えば、マメットの繊細な言葉遣いに新たな解釈を加えた新訳の趣向はとても味わい深いものであった。パンフレットにて翻訳者である小田島恒志氏により、「日本語にすると必要以上に意味が大きくなってしまう箇所がいくつかあった。読みながら栗山さんもひっかかったようで、稽古場で栗山さんの提案で他の表現に変えていった。二つだけ挙げておくと、動詞の『like』と呼びかけの『baby』である。舞台でどう言うか、どうぞお楽しみに」と示唆されているように、現場で丹念に舞台が練り上げられていったことがよくわかる。
 全体的にカジュアルで自然な雰囲気で演出がなされている点に特色があり、過剰な長台詞の連続でありながらも洗練されたことば遣いで、役名こそジョンとキャロルであるものの終始、日本を舞台にした物語のように映る。また、この芝居の有名かつ議論を招いたラストの台詞も新解釈となる訳語があてられており、そのことばの違いによるだけで舞台全体の印象が様変わりしてしまうのも新鮮であった。私の観劇した回ではアメリカ演劇研究者の黒田絵美子氏(パンフレットにも「Rashomonスタイルの『オレアナ』」を寄稿)と小田島恒志氏とのアフタートークがあり、細やかな訳出上の工夫について話をうかがうことができた。この芝居はまずは筋を追うのを楽しみ、次に、光と影の効果的な用い方など細かい演出や翻訳の工夫を楽しむというようにリピートして観ることでより一層楽しみが増すものであるだろう(リピート割引はないそうだが)。
 センセーショナルな物語としてだけでなく、コミュニケーション不全の物語として、2人とも終始、話し続けながらもかみあわない会話の様子などは、大学の舞台を超えて、今現在の時代においても切実に響くものであろう。
 公演は11月29日までPARCO劇場。その後、豊橋・北九州・広島・大阪公演が12月まで継続予定である。




2015年9月7日

 遊びに来ているはずの訪問先で小さな学会が開催されていて、いろいろな奇縁も重なり、米国地理言語学会(American Society of Geolinguistics)という学会の年次国際大会で「2.5次元ミュージカル」について発表してきました。

 言語学の学会は参会自体ほぼはじめてで、方法論があまりにも違いすぎるので本来は発表など到底できるものではないのだが、「地理言語学」というゆるやかな概念による国際学会であり、様々な国や地域の言語と文化にまつわる研究発表が可能であるとのことで、多彩な顔ぶれが集っていておもしろい。
 大いなる奇縁の一つは、勤務先の大学で、学部が異なるアメリカ人の同僚がこの学会と長年、強い連携を保っており、毎年、大学院生がこの年次大会で研究発表をしていること。彼の指導院生が今年も何人かニューヨークまで発表に来ていて、モンゴル、上海、ロシア、ネパールなどからの留学生。多彩な留学生がいると噂には聞いてたけど、学部が異なることもあり実際に接するのははじめて。せっかく異文化理解の生きた教材が同じ大学にいるのになかなか他の学生と交流する場がなくてもったいない。

 今年の年次大会のテーマは「言語・科学と新しいテクノロジー」。「言語」「テクノロジー」と絡めて何ができるかなと思案した結果、最近の「2.5次元ミュージカル」の流行について話をすることに。「日本のコンテンツビジネスを海外に」というコンセプトで日本2.5次元ミュージカル協会が設立され、専用のシアターもできて、専用メガネ(他言語対応字幕システム「Zimaku Air」)では4か国語の字幕翻訳により観劇を楽しむことができる。英語以外の外国語文化の流通というのはどうしても難しく、近年の日本のマンガ/アニメにしても基本は翻訳・吹替を通しての受容。日本国内と海外での両方の興行展開を視野に入れたプロジェクトであるようだが、やはり言葉の壁は大きく、役者が英語で演じるかどうかという問題が焦点になってくる。
 この専用メガネでは字幕が浮き上がって見えるので、舞台上の字幕装置を見る時のように注意力を妨げられずにすむし、日本語によるパフォーマンスということで「本場らしさ」を魅力として売り出すことができる。日本語日本文化に対する興味を広げてもらえる期待ももてるし、観光がてら日本で2.5次元ミュージカルを見てみようという層も出てくるだろう。出版社の垣根を超えた連携も重要で、版権などの権利関係の手続きもシステム化され簡便になり、ビジネスモデルとしての可能性を広げることができる。

 「2.5次元ミュージカル」の主な観客層は女性で、舞台化される作品として、男子の部活青春ものが多い傾向がある。このたびの発表で具体的に取り上げた作品は『テニスの王子様』(原作は『少年ジャンプ』)と『弱虫ペダル』(『少年チャンピオン』)で、前者は現在に至るブームの下地となった作品。今ではチケット確保が困難であるが、2003年にミュージカル化をはじめた当初は3分の1しか席が埋まらないこともあったという。『弱虫ペダル』はロードレース部の話であるが、パントマイムによる実験的な表現手法(「パワーマイム」)など先鋭化された演劇表現の観点からも注目されている。
 若い役者を積極的に起用し、若い観客が多いことからも、マンガ/アニメ/演劇をジャンル横断する場としても機能している。ファン・コミュニティとしてSNSを通じた共時性も魅力であり、さらに、ブログなどを通して生身の役者自身に対する関心を広げられる楽しみもある。
 2.5次元ミュージカル以外にも、学校を舞台にした女子高校生のアイドル活動を描いた『ラブライブ!』(2012- )のように、アニメ化される時点から声優によるライブ・パフォーマンス、CD化などのマルチメディア展開を想定したプロジェクトもあるわけで、こちらは主なファン層は男性。こうした2.5次元の様々な展開にジェンダーによるファンカルチャーのあり方の違いを読み込むことができるのかどうか?

 唐突に古い例になるが、私でいえば、『うる星やつら』については原作(新装版も含めて)はもとより、アニメ・コミック版、小説版、英語版まで公式出版物はすべて所持していたし、小5から高校ぐらいまではペンケースや下敷きなども概ね学期毎に『うる星』で新しいものに替えていたぐらいなので(『めぞん一刻』や『らんま』の時期もあったけど)、今も当時もミュージカル版があれば確実に観に行くだろうが、私は高橋留美子原理主義者の立場ということもあって(アニメ版・映画版の世界観を基本的には認めない)期待はまったくしないだろう。
 ラム、しのぶ、ラン、弁天、おユキ、竜之介、サクラなど女性キャラがたくさん出てくるが、意外に「キャラ萌え」の作品ではないという認識でいるのだが、読み手によるのかな? ペンケースや下敷きなどを学校で使ってたので、「あんたもラムちゃんとか好きなのか?」と女子に小ばかにされることもあったが、あくまで全体で世界観が成り立つものであって、誰か特定のキャラが好きというわけではないと力説していたものだ。今から思えば、「物語派」と「キャラ萌え派」の断絶というよくある図式にすぎないのかもしれないし、コタツネコ好きは公言してたけど。
 一方で『うる星やつら』はコスプレなどの先駆的素材でもあるし、ファンカルチャーの親和性が高いこともあり、男女ともにファンが多い作品でもあり、これが「現役の作品であったとしたならば」はたして2.5次元化でどのような客層を見込めるのだろうか? あるいは古典となる作品で上の年齢層を狙う戦略は成立するのかどうか? 『うる星』の場合、部活などのように何か共通の目的に向かって邁進するような話ではないし、やっぱり題材としては不向きかも。

 さらに話を広げて、「2.5次元ミュージカル」が次の段階に進む際にどのように男性客を取り込むことができるのか、できない(想定しない)のか、性別に特化した戦略が今後も有効なのか、など引き続き考えてみたい。
 なおこの領域にまつわる研究動向に関しては、『ユリイカ 2015年4月臨時増刊号 総特集◎2・5次元――2次元から立ちあがる新たなエンターテインメント』の特集が多彩な面からの情報量かつ示唆に富んでいて便利。










2015年9月6日

 アメリカ演劇最大の祭典第69回トニー賞にて5部門(「ミュージカル作品賞」・「脚本賞」・「主演男優賞」・「演出賞」・「楽曲賞」)を受賞した話題のブロードウェイ・ミュージカル『ファン・ホーム』を観てきました。

 原作は、アリソン・ベクダル(1960- )のグラフィック・ノヴェル『ファン・ホーム――ある家族の悲喜劇』(椎名ゆかり訳、小学館集英社プロダクション、2011年)で、翻訳を通して日本でも第15回文化庁メディア芸術祭マンガ部門優秀賞を受賞するなどすでに高い評価を得ている。「グラフィック・メモワール/回想録」として位置づけられている作品で、アメリカの女性コミックスの新潮流としてコミックス文化に留まらない幅広い層に受容されている点に特色がある。

 もし、英語が得意ではないけど観光がてら評判のこのミュージカルを観てみたいということであれば、原作の翻訳を一読されておくとよいでしょう。ストーリーはそれほど難しくないですが、父娘の屈折した関係性や心情がどのように繊細に表現されているか、また、2時間程度の舞台化作品として原作をどのように再構成しているかという点に注目して観劇できればこの作品の魅力がより深く伝わるはず。
 と言いながら翻訳の出版状況をチェックしてみたらなんと「品切れ」? いやいや、ブロードウェイ・ミュージカルとしての成功を祝した帯でぜひ増刷をお願いしますよ。「ミュージカル新装版」を出してもいいぐらいの絶好のタイミング。

 『ファン・ホーム』は自殺が疑われる事故死によって世を去ってしまった父親の秘められた過去「同性愛の嗜好」について、同じく同性愛者であることを意識しはじめた作者自身の少女期の日々と重ね合わせながら追憶/探究していく物語。
 家業として葬儀場(タイトルの『Fun Home』の由来は「楽しい家」と共に「funeral home/葬儀屋」の略称から)を営みながら高校の国語(英語)教師もつとめていた亡き父親に対する違和感と共感を手がかりに、追憶を通して理解しようと試みる「父娘の絆」と「家族の喪失と再生」がテーマになっている。実はセクシュアル・マイノリティとして共調できる可能性があり、共に愛好する文学を通して深い精神的な結びつきをもちながらも、微妙にすれ違いを続けながら対話の可能性を永遠に失ってしまった父親に対する追憶を、「文学的」とされる手法を駆使しながら表現している。
 実際に原作では、父親と作者自身が共に大学で英文学を専攻していたことから、ジェイムズ・ジョイスやヴァージニア・ウルフ、プルーストなどの文学作品が父娘を繋ぐ絆として重要な役割をはたしており、『ファン・ホーム』の翻訳版刊行にあたっては私自身、英米文学の領域に関する注釈作成のお手伝いをさせていただきました。

 原作者アリソン・ベクダルはレズビアン・コミュニティの日常を描いた、『レズビアンに気をつけて』(_Dykes for Watch Out For_)を1983年から2008年まで25年にわたって継続してきた記念碑的作品の書き手として再評価されており、すでに伝説的な存在に。『ファン・ホーム』の後で今度は母親にまつわるグラフィック・メモワール(_Are You My Mother?: A Comedy Drama_, 2012)を刊行し、ベストセラーに。『レズビアンに気をつけて』と併せて日本での翻訳刊行を期待したい。
 セクシュアル・マイノリティの問題をテーマの一つとしていることからも、ワークショップを経て、もともとは2013年9月にオフ・ブロードウェイから出発し、円形劇場(Circle In The Square Theatre)にて2016年6月まで公演予定が延長されている。

 「回想録」であり、コミックスによる視覚芸術を原作にしている特性をどのように舞台で表現するかが注目点であったが、過去を回想する主人公がストーリーテラーとして物語に介入し、注釈を差し挟む構成に。360度どこからでも観客の視点が注がれる円形劇場を舞台としていることにより、時間軸と空間を縦横無尽に展開している。主人公は、「回想している現在の作者」(アリソン・ベクダル)と、「子ども時代の作者」(スモール・アリソン)、「青年期の作者」(ミディアム・アリソン)との3人の役者によって演じられており、しかもこの3人を含めてもキャストは全員でわずか9名。トニー賞「助演女優賞」部門にノミネートされた5名中3名が『ファン・ホーム』から選出されていることも含めて、自分自身と家族をめぐる密な物語であることを象徴している。
 作者自身の姿を視覚化して表現することでグラフィック・メモワールが成立しているわけで、一人称語りでありながら客体化されるところに最大の特色があるのだが、その視覚化された「回想する現在の作者像」を演劇版として再現するそのあり方は、現在、日本で話題になっている「2.5次元」に近いと言えるのだろうか?(あるいはそれ以上の複雑な次元?)原作の作者像にそっくりでまさに本から飛び出して出てきたような不思議な感覚。パンフレットには作者のアリソン・ベクダルによる書下ろしコミック・エッセイも加えられていて、実際の人生をもとにした回想録に、自身によるコミック化、さらに演劇化を経た上で、さらにその演劇化について作者本人が自己言及するという複雑なメタ構造に。

 作者からすれば本当に不思議で特別な感覚なのだろう。新たな書下ろしコミック・エッセイにて、もともと彼女の両親が学生時代の演劇活動を通して知り合った背景を回想しながら、「両親がこの舞台を観たとしたらどう思っただろう?」という空想に想いを馳せつつも、しかしながら、父親が謎の死を遂げなければ原作となる回想録自体も成立しなかったわけで、「両親がこの舞台を観たとしたら」という仮定自体がありえないというパラドックスに行き着いてしまう。
 このように、アリソン・ベクダルは淡々と醒めた視点による筆致でありながら不思議な抒情性があるところが魅力。その一方で父親のブルース役の役者マイケル・セルヴェリスがトニー賞主演男優賞を得ているように、原作のおとなしい雰囲気とは大分異なり、ブルースが感情を発露させる演出などが舞台化の過程で大きく書き加えられている。

 回想は必ずしも時系列的に規則的に繋がるものではなく、時に螺旋(らせん)的に/恣意的に連鎖していくものであって、原作自体が回想と思索のゆるやかな繋がりをコミックスの表現手法によって視覚化していくところに実験性があったわけだが、舞台化作品として時系列をさらに再構成し、3人の本人がかわるがわる出てくる特性を活かして、少女時代(スモール・アリソン)の無邪気な姿をくりかえし描くなど父親との関係性を重層的に描く効果をあげている。
 コミックス・アーティストとしてのアリソン・ベクダルを考える上で、セクシュアル・マイノリティをめぐるテーマは避けることはできないのだが、同時に、父と娘の間の気持ちのすれ違いを細やかに描きながら、追憶を通して家族を「承認」しようとする物語であり、時間と空間を伸びやかに開放する「新感覚ミュージカル」の手法を通してさらに幅広い層に届きうる上質のエンターテインメントに仕上がっている。










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