借りてきた猫のように

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花祭りの日、ハチ公の日(2017年4月8日)

 4月8日といえば「花祭り」としてなんとなく知られているもののクリスマスに比して圧倒的に知名度が低い。
ということはよく言われることなので、TVバラエティ番組『アメトーク』で小藪千豊が「4月8日をもっと若者に広めたい」という企画で登場した際にもことさら関心を抱くことはなかったのだが、聞けば、「お釈迦さま's B.D. FLOWER FESTIVEL!!」というクラブイベントをプロデュースするらしく有言実行は素晴らしい。
はたして定着するかどうか?

「クリスマスに比して花祭りは~」という括り自体がそのまんま『聖☆おにいさん』の世界であるわけで、現在、山田孝之プロデュース/福田雄一監督による実写ドラマ化の企画が進行中である(はず)。
最近のこの2人はタガが外れているように突っ走り具合が加速していて、テレビ東京系列『山田孝之のカンヌ映画祭』(2017年1~3月)は、『山田孝之の東京都北区赤羽』(2015)に続く映画監督・山下敦弘および松江哲明との共同プロジェクト再び。自主映画を製作してカンヌ映画祭パルムドール賞受賞を目指すという無謀な企画によるフェイク・ドキュメンタリー(ドキュメンタリー・ドラマ)なのだが、難関私立中学への受験勉強中であったはずの芦田愛菜を巻き込んで愛想を尽かされたり、河瀨直美に叱られたり・・・。
どこまで本気で、どこからがマゾ的な快楽嗜好によるものなのかよくわからないのがおもしろい。しかもこの企画は6月に公開予定の『映画山田孝之3D』をもたらし、実際にカンヌ映画祭に正式出品しているそうで、「脳内にダイブするような3Dドキュメンタリー」という説明も意味不明で素晴らしい。
 一方、福田雄一も日本テレビ系列テレビドラマ『スーパーサラリーマン左江内氏』(2017年1~3月)の演出・脚本に携わり、もともとは藤子・F・不二雄のマンガを原作とするが、最後はオリジナル展開の「福田雄一劇場化」で結構なやりたい放題。「鬼嫁」役の小泉今日子の評価を下げるキャンペーンかと見紛うほどであるが、なんやかやで終わってみれば視聴率もまずまずの話題作に。
確かに、予算も縮小の一途で景気の良い話をとんと聞かないテレビ界であるが、まだまだおもしろいことはいかようにでもできるという実験場の先鋭であり続けている2人なので、『聖☆おにいさん』の実写化、まったく予想がつかないがだからこそ楽しみではある。

 ところで、4月8日は中犬ハチ公の日でもあるらしく、知る人ぞ知るのかもしれないが、これまでまったく気にかけたこともなかった。1935年3月8日に亡くなり、翌1936年から「桜の時期に合わせて毎年4月8日に渋谷駅ハチ公銅像前(と出身の秋田)で慰霊祭が行われている」そうで、今年2017年は82回目となる。結構、本格的な儀式のようだ。渋谷駅は現在、再開発中であり、ハチ公銅像の設置場所は未定であるとのこと。

というわけで、おかげさまで今年もまた誕生日を迎えるのですが、一年が早い・・・。











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2015年12月13日

TVバラエティ番組『あいつ今何してる?』(テレビ朝日系列、土曜夜0時~0時30分)がなんてことない企画なのに結構おもしろい。

まずゲストが小中学校の時の卒業アルバムなどを見ながらカメラに向かって同級生にまつわる想い出(「エピソードVTR」)を思いつくままに喋る。そしてその中から何人か昔、繋がりが深かった「今何をしてるか知りたい」同級生を番組スタッフが取材調査し、実際にVTRを介して登場してもらい、彼らの仕事や家庭生活の現況や中学卒業後の遍歴を紹介する。その後、ゲストによる「エピソードVTR」を同級生に見てもらって彼らからも想い出話をしてもらう。ゲストと同級生が直接会うのではなく、VTR越しに想い出話を交わしてもらうことで、微妙に(あるいは劇的に)記憶が違っていたり、ゲストの意外な側面が浮かび上がってきたりするところに不思議な味わいがある。

同じ時間を同じ空間で過ごし、同じ体験をしていたはずであっても、視点が変われば印象が異なることはよくあることであるし、時間が経てば記憶が変容してしまうこともある。また、中学生時代を回想の軸に置いていることもあり、上は40代から20代半ばまでゲストの年齢によっても、昔の想い出に対する距離感や「あいつ今何してる?」の現在の仕事や家庭の状況も変わってくる。20代半ばは昔をふりかえるにはさすがに早いような気がするけれども、年代の違いによるライフコースのあり方も見えてくる。一時期とはいえ、学校にいる間、毎日、過ごしていた親友と呼べる存在であってもその後、進路が細分化していく中で、その後の様子がまったくわからないままになっていることも現実には多いのだろう。

公立中学の進路は本当に多様で、ありとあらゆる職業にそれぞれが従事している(一方、私立は私立で人生を楽しむ余裕が随所に現れていてそれはそれで社会の一側面を示すものではあるのだが)。医者になりたいといっていた同級生がその後、夢が叶って医者になっているという初志貫徹型もあれば、家業をついでボクシングジムの会長やパン職人、バイク屋になっていたり、あるいは、吹奏楽部で人気のあった女子がトラックドライバーになっていて、離婚後、シングルマザーとなり現在は12歳下の彼氏と一緒に暮らしていたりするなど(一番意外性があって驚いた)、生き方もそれぞれながら皆、地に足が着いていてたくましく生きている様子が伝わってくる。一般の人たちの人生をただ辿るだけの企画がこれほどおもしろいものになるとは! しかも皆、話がうまくてメディア慣れしているのがすごい。きっと昔も今も人生が充実している人たちならではなのだろう。

いわば、「13歳のハローワーク 応用編」といった趣で、ライフコースとキャリアについて考えさせられる。テレビならではのおもしろさであると思うのだが、ビデオを介して当事者が直接会って話をするのではなく想い出話をそれぞれの立場から語る構成も効果を挙げている。ゲストの人選も巧みで、いじられるタイプが多いのもバラエティ番組として絶妙なキャスティングなのだろう。いわゆる二本撮りによるものなのか前後の回に出ていたゲストも一緒に登場し、視聴者と同じ目線で他人の想い出話にツッコミを入れてくれる。卒業アルバムやビデオを観ながら回想することで突然昔の記憶がよみがえってくる瞬間を捉えているのもおもしろい。

他人の同級生の昔話なんて、しかもそれほど思い入れのないゲストの回であれば興味をもてないように見えるかもしれないが、土曜の深夜というゆるい時間帯ということもあり、隣のクラスの友達の繋がりを垣間見るようなリアルな感覚にとらわれる。ゲストの気恥ずかしさがダイレクトに伝わってくるのも魅力になっている。ゲストで登場しているSHELLYが「みんなちゃんと大人になってるんだ!」と感慨深く吐露していたように、中学までしか知らない相手が途中経過を飛び越えていつのまにか大人になっている様子を見るのは確かに不思議な感慨をもたらすものであろう。

ちょうど朝比奈あすか『自画像』(双葉社、2015)を読んでいたところだったので、『あいつ今何してる?』の明るい昔話との落差に慄然とさせられる。クラスの中心で楽しく過ごしている連中がいる一方で、思い出されることもないような、中学時代を思い出したくもないような孤独を抱え、絶望していた人たちもひょっとしたらいるのかもしれない。

ニキビなどの容姿をめぐるコンプレックスはとりわけ女子にとっては男子の想像をはるかに超えて根が深いものであるかもしれず、女子同士の序列や心無い男子の言動、指導力のない教師に対する軽蔑や恨みなど、『自画像』はどす黒い怨念のような回想がひたすら続くにもかかわらず、その暗い闇の力に引きずり込まれてしまう。

デビュー作『憂鬱なハスビーン』(2006)以降、女性の虚栄心やコンプレックス、面倒な人間関係を描き続けてきた作者ならではの筆力で、読み進めれば進めるほど嫌な気分にさせられるのに一息に読まされてしまう。タイトルになっている「自画像」は実に象徴的で、表現の世界では自分の姿に向き合うことは確かに大事な過程となるものであろうけれども、思春期に美術の授業で取り組まされる課題としては酷なのかもしれない。

30代後半の語り手「わたし」が中学教師をしている婚約者に対して自身の中学時代の回想をするところから物語ははじまり、後半からは友人2人の視点も組み合わされていく。

多くの人たちにとってはそれぞれなりにいろいろな形で濃密であった時期であっても、中学時代なんて通過点にすぎないものであるはずだが、主人公たちにとっては中学時代の記憶が根深い傷として今もなおその傷が癒えていない。だからこそ30代後半の主人公たちが中学時代から回想する意味がある。しかし、80年代の学校空間は大雑把に扱われていた時代であったとはいえ、中学教師の指導力不足に対する怨念の深さがいかに凄まじいものであるか。

また、再び逢って言葉を交わしたい、謝りたい/御礼を言いたいと心残りがある相手がいたとしても、絶対に叶わぬ夢となることもありうるのかもしれない。いじめや自殺未遂、教師への密告や陥れなどちょっとしたかけ違いが永遠の亀裂を生み、二度と修復できないこともある。「あいつ(あの子/あの娘)今何してるんだろう?(元気で幸せでいてくれてるといいけど)」。その想いは永遠に直接届けられることは叶わない。

『あいつ今何してる?』の明るい回想と並行して読んでしまったために、食べ合わせの悪さから闇の想像力にあてられバッドトリップ気味になってしまったが、両者の対照性も際立つもので、だからこそ通過点だけど人生の中で大きな意味を持つ思春期の奥深さを実感させられる。





2015年11月30日



 第2回ドキュメンタリードラマ研究会終了。理論・歴史的アプローチのみならず、資料のアーカイブ化、映像教育の側面にも目を向けており、実作者(制作現場のディレクター、カメラマンなども含む)を交えたネットワーク構築の場をも目指している。

 はじめに研究代表の杉田このみ氏により「これまでのドキュメンタリードラマの探索――データベース構築に向けて」として日本のドキュメンタリードラマのデータベース化をめぐる現状と課題にまつわる報告がなされた。「ドキュメンタリードラマ」自体、定義しにくい概念であるのだが、雑誌記事などに現れる言葉や概念から丹念に辿ることで言説史の整理を進めている。また、ドキュメンタリードラマの表現が現れていると見込まれるテレビドラマ作品をリストアップしている過程にあり、今後、実際にアクセス可能な作品をつぶさに検証・分析していくことで日本のドキュメンタリー表現の変遷史をまとめていくことを目指す。

 研究会と直接の関係はないのだが、杉田このみによる単著『アクション! 地域を変える8人の対話』(アトラス出版、2015)は、「映画を作る」という切り口から見えてくる「故郷」「地域」をテーマに、映像作家としてのこれまでの足跡を辿る第1部と、その創作・上映活動を通して知り合った8名との対談をまとめた第2部によって構成されている。南相馬市を故郷に持つ小説家・志賀泉氏、アートの社会的活用を目指すNPO法人「カコア」の主導者・徳永高志氏、エチオピアを拠点に映像人類学の理論と実践を展開する川瀬慈氏など、国内外を含めた「地域」に立脚した表現現場に携わる様々な声を拾いあげることで「今現在」の「表現」をめぐる状況が見えてくる。地道に着実に表現の場を広げようとしているそれぞれの方々の活動は活力に満ちていて頼もしい。

 昼間行雄氏からは「高校での映画教育から生まれる作品の可能性」として、芸術高校での映像制作コースにおける指導の実践例をもとに映像表現教育の現状と課題にまつわる報告がなされた。「表現や創作を教えるとはどのようなことか?(そもそも教えられるのか?)」、「映像制作の現場で職業に携わりたいとした場合に教育課程で何がどこまで有効なのか?」など創作表現の教育全般に関わる話から、「生徒同士で作品を作る際にどのようにしてリアリティを作り出すことができるのか?」といった具体的な方法論に関する話まで様々に議論が展開された。

 創作表現に関する領域は教えにくいものであるだろうから映像制作の技術自体を伝達することに意義があるのではと思っていたのだが、機器は飛躍的に発達していくために学校で学んだ技術はすぐに使い物にならなくなってしまうとのこと。まさに「今役に立つことはすぐに役に立たなくなる」実例。作品を制作し、発表する「場」を設けることに意義があり、作品を完成させることを通して経験的にそれぞれが学んでいくことが重要なのだろう。

 私自身の報告は「モキュメンタリー表現の現在」として、近年の「疑似ドキュメンタリー/モキュメンタリー」の手法による映像作品をいくつか提示し、「リアリティTV」以降の表現技法がどのような傾向に向かっているのかを展望することを目指した。アイドルの公開オーディション番組や、シェアハウスや集団で旅をする中での恋愛模様など1990年代後半以降に隆盛したリアリティTV番組は、演技や台本、演出を極力排し、出演者の行動を手持ちカメラ、隠しカメラなどを用いてドキュメンタリー番組風の撮影手法により「本物らしく」見せる趣向を追求したテレビ番組のフォーマットを基本とする。リアリティTVの手法は多様かつ過剰に発展してきたために現在ではさすがに食傷気味であるのだが、モキュメンタリーの手法はその後も先鋭化を続けており、アメリカ映画『容疑者ホアキン、フェニックス』(2010)は、実在の俳優ホアキン・フェニックスがプライベートを含めた2年間の時間を丸々費やして作り上げた壮大なプロジェクト。グラミー賞受賞など俳優としての評価が高まった2008年に俳優活動の停止とヒップホップ歌手への転向を突然宣言し、ヒップホップ歌手としての新たな歩みをドキュメンタリー映画として提示するというもので、麻薬中毒を想わせるような奇行や性格の悪さをカメラが克明に追う。しかしヒップホップ歌手への転向自体までもがモキュメンタリー映画企画の一環であったことが後に明らかとなり、酷評され、肝心の映画も興行的にふるわなかった。とはいえ、プライベートもさらけ出して費やした2年間がまったく無に帰してしまったかといえばそうでもなく、2012年に『ザ・マスター』で俳優に復帰以後、個性派俳優としての評価はますます高まっており、虚構と現実の境目に肉薄した2年間が役者としての幅を押し広げている。そもそもの着想自体がリアリティTV番組を真に受ける視聴者に対する関心に由来するものであったようで、メディア・リテラシーに対する批評性をも内在している。

 この作品を先行例として踏まえた『山田孝之の東京都北区赤羽』(2015)は、もともと清野とおるによるエッセイマンガをもとに、俳優・山田孝之が一個人として赤羽に住むことを選択した2014年夏をめぐる記録映像プロジェクト。赤羽に住む実在の人物を登場させているマンガと現実をめぐる層に加えてさらに「ドキュメンタリー」の要素が入り込み、そのうえ「自主映画」や「芝居」といったいわば、現実内虚構が導入されることで、虚構と現実の境目といった二層に留まらない複雑さを帯びる。プロジェクトの中で試行錯誤する監督(山下敦弘)の姿をもカメラの前で晒すことにより、被写体としての役者と作り手との間の境界線などもとっくに飛び越えている。この作品は山下敦弘・松江哲明による共同監督となっていることからも、本編と異なる別ヴァージョン「もうひとつの『山田孝之の東京都北区赤羽』」(4時間35分)までもが存在し、どこまでが素で、どこからが演出・演技で、など境界線も表裏ももはやよくわからなくなるクラインの壺を体現するような不可思議な怪作。放映開始時にはすでに撮影は終了していたにもかかわらず、実在の赤羽で展開される実在の人たちも登場する物語がテレビで毎週放映されることにより、放映時の「今現在」起こっている出来事を垣間見ているかのような錯覚に陥ってしまう。

 フィクションの設定としてドキュメンタリーの手法を用いることに力点を置いているのか(「ドキュ・フィクション」)、フィクションの中にドキュメンタリーの要素を導入することに力点を置くのか(「ドキュメンタリードラマ」)、ざっくりと2つの流派に大別されるとされるが、両者の概念区別も時に混在・曖昧となることもあり、『山田孝之の東京都北区赤羽』はその格好の例としてその先の地平を志向している。

 フェイク・ドキュメンタリーの手法が先鋭化された例としては、長江俊和監督(企画・構成・演出)による『放送禁止 劇場版 ニッポンの大家族 Saiko! The Large Family 』(2009)の作り込み方が秀逸。アメリカのコメディ映画『ボラット 栄光ナル国家――カザフスタンのためのアメリカ文化学習』(2006)を彷彿とさせるように、カナダ人ディレクターが日本の家族を取材するという設定で異文化を見る視点を導入し、外国人から見た日本文化理解をも笑いの素材にしている。全編ドキュメンタリータッチで展開するが、大家族が抱えている深い闇の部分が次第に明らかになってくる。ミステリー/サスペンスの要素が細かく散りばめられており、くりかえしの視聴とネットコミュニティなどの情報交換などを通して、視聴者は謎解きと伏線の妙を楽しむことができる。

 また、映像技法としての「POV(主観ショット)」の手法については、『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』(1999)以降、数多の類似作品がもたらされてきており、もはや陳腐にさえ映りかねないところ白石晃士監督はPOVの手法をさらに先鋭化させている。中でも『ある優しき殺人者の記録』(2014)は韓国を舞台に「全編86分ワンカット」の手法で撮影している。「86分の長回し」「作中の記録映像そのものが映画自体になる」など手法としてのPOVをひたすら突きつめようとする探求心がすごい。

 リアリティTVにしても、フェイク・ドキュメンタリーにしても、流行の現象としては旬を過ぎてしまっている感は強いのだが、手法もテーマも実はなおも深化している。『山田孝之の東京都北区赤羽』はドキュメンタリードラマの極北となる壮大な実験企画だが、幾重もの現実と虚構の境目の深いところを降りていくかのような試みはリスクも高くどんな役者にとっても応用可能な手法とは到底思われない。ホアキン・フェニックスの例にしても、役者としてさらに高次のステージに行ける可能性もあれば、すべてを失うリスクもありうるだろう。また、『放送禁止』にしても、『ある優しき殺人者の記録』にしても、手法や設定の枠組みを限定し、突きつめていく姿勢は苦しい挑戦だろうなとも思う。

 ドキュメンタリードラマ/モキュメンタリーの変遷を探ることで、そもそもテレビとは、ドキュメンタリーとは、メディア・リテラシーとは何か、といった根源的な問いに立ち戻らざるをえなくなるのも必然なのだろう。
















2015年11月22日

「世界のCMフェスティバル2015」の東京会場は今年から世田谷区の109シネマズ二子玉川に場所を移しての開催。もともとは1981年にフランスでスタートした、世界50ヶ国の最新傑作CM500本をオールナイトで上映するイベント「CM食べ放題の夜」をもとに、九州大学・九州芸術工科大学などで講師をつとめていたジャン・クリスチャン・ブーヴィエ氏が1999年に日本版として博多でスタートさせて以降、日本全国をまわるTVCM上映会ツアーとして現在に至るまで発展を遂げ、毎年恒例のイベントとして定着してきている(福岡・兵庫・京都・静岡・名古屋・群馬・東京・札幌など)。
昨年までは58年の歴史を持つ新宿の老舗映画館ミラノ座を長年、東京での会場にしてきたのだが、残念ながらミラノ座の閉館に伴って継続できなくなり、本年度から新しい会場に。新宿歌舞伎町が持つ独特の猥雑な活気もお祭り気分との相性がよかったのだが、二子玉川の落ち着いた街並みと最新のシネコンの洗練された映画館の雰囲気に様変わりし、シネコンのシアターを2会場同時に用いて上映イベントを展開するという荒業で東京会場はまさに新時代の到来に。昨年までの大会場での一体感の代わりに、2会場を繋ぐライブ感覚がお祭りイベントの雰囲気を盛り上げ、現場では新しい会場のスタイルを探る試行錯誤期となっていたのかもしれない。
 それにしてもブーヴィエさんは2会場を行ったり来たりで大変だったはずですが、真夜中に誰よりもお元気で会場中を走りまわられてました。

 世界のCMフェスティバル(東京会場)の醍醐味は何といってもオールナイトで400~500本のCMを鑑賞することにある。CMは「時代の鑑」とよく言われるように、定点観測的に毎年これだけの数のCMを見ていくとその時代のトレンドが何となく見えてくるし、文化の違いに対する意識も鋭敏になってくる。飽きさせずそれぞれのCMに先入観なく浸ることができるように基本的にランダムにCMは流れるのだが、特集として、珍しい国や地域のCMやテーマ別などの枠組みでまとめて概観できるのも魅力。
象牙売買がテロに繋がることを示唆する政治的な狙いを込めたCMや、交通事故撲滅キャンペーンの公共広告など胸に迫るメッセージ性にあふれたCMもあれば、インドとパキスタンへの分離独立をきっかけに離れ離れになってしまったおじいさんの旧友を、その孫娘がインターネットで検索して見つけ出す物語(GoogleのCM)など短編映画を観るような感動的な作品まで、CM表現の多様性を実感できる。TVCMを映画館のスクリーンの迫力で堪能できるのも新鮮。5部構成となっており、休憩時のロビーではワインや焼酎、コーヒーなどの特別割引や試飲なども。パントマイムやマンダリン演奏などのパフォーマンスやスポンサーからの景品が当たる抽選会なども挟み込まれ、オールナイトならではの高揚感もあわせてお祭り感覚を演出してくれている。

 現在はメディアの転換期であり、若い世代のTV離れやTV以外のCM展開も目立つ傾向にあるが、だからこそTVCMというメディアの有効性や表現の可能性をあらためて考える良い契機にもなると思う。とはいえ、小難しいことをことさらに考えなくとも、CMを純粋に楽しみながらメディアや世界の「いま」について学ぶことができるのが、この「世界のCMフェスティバル」の最大の魅力であり、とりわけ大学生をはじめとする多くの若い世代の人たちに楽しんでもらいたい。広告、CM、メディアや世界を見る見方がきっと変わってくるはず。

 本年は今後も12月19・20日にアンスティチュ・フランセ関西(京都)でのイベントが予定されているほか、次年度以降も継続される予定である。


2015年8月32日

 31年半続いた『笑っていいとも!』が2014年3月に放送を終えて以後、メディアの転換期としてテレビ文化自体をも総括する流れとも重なり、戸部田誠(てれびのスキマ)『タモリ学 タモリにとって「タモリ」とは何か』(イーストプレス、2014)をはじめ様々な形でタモリ論が出された。そうした動向を包括する形で、近藤正高『タモリと戦後ニッポン』(講談社現代新書)が戦後70周年を回顧するという絶妙のタイミングで発表された。1945年8月22日生まれのタモリにとって戦後70周年は彼自身の70年の生涯と重なるものである。
 本書は本格的なタモリ論であり、同時にユニークな戦後文化論でもある。コメディアンとして「なりすまし芸」を得意とするタモリの代表作に中洲産業大学(助)教授というレパートリーがあり、また、ミュージシャンとしての彼の活動にサンプリングの先駆的作品『タモリ3 戦後日本歌謡史』(81)があるように、偽史であったり、フェイクの講義であったりをいかにも本物らしく、それでいてデタラメにおもしろく聞かせるのが「タモリらしさ」となるわけであるが、本書もまた、序章は「偽郷としての満洲」から説き起こされるなど、壮大なスケールでメディアアイコンとしてのタモリの生成過程を戦後史と重ね合わせながら捉えようとする野心的な試みとなっている。

 タモリの祖父は満鉄(南満州鉄道)に勤務しており、祖父母に実質、育てられたという複雑な生育背景からも、幼年時代のタモリの原風景に家族の満州体験が大きな影響を及ぼしていたようだ。なお「偽郷」という語は著者の造語であるらしく、実際にタモリは福岡生まれであって満州で育った体験はないわけであるが、タモリの後見人となった赤塚不二夫も満州生まれであり、満州で生まれ育った経験を持つ人物たちに共通して現れる「物事を相対化する見方」に注目し、タモリのなかにある「都市的なものへの志向と田舎への冷めた見方」の源を読み込んでみせる。「偽郷としての満州」はわずか13頁ほどの短い「序章」であるのだが、タモリ論および戦後文化史の導入部として興味深い示唆に満ちている。
 著者は1976年生まれであり、タモリがテレビに登場したばかりのもっともアクの強かった時期については体験としては共有していないはずであるが、だからこそ巻末の5頁におよぶ詳細な参考文献表が示すように、資料をもとにメディアにおけるタモリ像を実証的にあぶりだしていく手法がとられている。あくまでメディアの言説史の中でのタモリこそがタモリにとっては「実像」なのであって、メディアの言説史を通してその姿を浮き彫りにしていくことが肝要なのだろう。

 大学を除籍後、郷里の福岡に戻ってから再び上京するまでは「謎の空白時代」とされており、保険の外交員をしたり、ボーリング場で支配人をつとめたりして30歳近くまでを過ごしている。このあたりの消息についてはタモリ自身のインタビューから詳細に辿ることは難しく、タモリ自身が福岡時代に世話になっていた人物に新たな取材をすることで「謎の空白時代」をあとづけている。
 30歳前後で上京し、赤塚不二夫宅での不思議な居候時代を経て、深夜の密室芸人期から、テレビに徐々に出演をはじめていく中でどのようにタモリというキャラクターが形成されていったのか。普通のメガネに七三分けだったという風貌から、顔に特徴がないという理由で、アイパッチ姿を経て定番のサングラスになり、髪型もオールバックで真ん中分けというスタイルが確立していく。第6章の章題に「『変節』と『不変』」と付されているように、「誰もがテレビ向きではないと思っていた」存在から、やがて「国民のオモチャ」を自称する存在に変容していく。
 結果的に31年半、通算8054回続いた『笑っていいとも!』であるが、1982年10月4日の最初の放送の視聴率は4.5%であり、決して期待されていた番組ではなかった。30年を超える長寿番組はその後も盤石であったわけではなく、90年代初頭にはマンネリと批判され、「つまらないものの象徴」と揶揄される低迷期を経た後、90年代後半からはナインティナインやSMAPらに代表されるリスペクトとパロディ化を通して、「まるで風景のようになってしまった」「みんなが見ているけれども、誰も見つめてはいないというある意味『テレビタレント』の一つの到達点」(ナンシー関、2002)に達するに至る。
 最終章「タモリとニッポンの『老後』」が示すように、戦後70年と同時にタモリは70歳を迎え、テレビ文化もメディアの転換期の中、新しい境地を迎えつつある。本書でも引用されているように、「自分の番組の中でおじいちゃんになりたがってる」とおじいちゃん願望を逸早く指摘したのはナンシー関だったが、『笑っていいとも!』終了後のタモリは『ヨルタモリ』(2014-15)、『ブラタモリ』(2015- )とますますマイペースで悠悠自適にテレビに出続けている。森繁久彌との比較による老境のあり方の考察もなかなかおもしろい。

 本書のまとめにあるように、高度経済成長期に伴い、社会の均質化・平均化が著しく進む中で、それに対するカウンターとしてアングラ演劇などが70年代人気を集め、タモリもまた1975年にラジオの深夜放送をふりだしに芸能活動をはじめていった。そして消費社会が進む1980年代にタモリは「お昼の顔」に変貌を遂げ、「国民のオモチャ」を自称するまでにテレビタレントとしてアイコン化されていく。
 志賀重昴『日本風景論』(1894)なども引き合いに出しながら思想史の枠組みの中でタモリを位置づけようとする壮大な試みであるが、メディアでの言説史を丹念に辿っていることにより、文化的アイコンとしてのタモリの特性が浮かび上がってくる。タモリ自身が一貫してしがらみの多い日本の精神風土に由来する関係性や過剰な意味づけを拒んできたように、常に無責任で通りすがりの「他人」でありたがっていたことからも、本書で語られる現代史はあくまで「もう一つの/オルタナティヴな現代史」となるのであろうが、こんな現代史もあっていいし、とりわけ70年代から90年代頃までの時代思潮の推移がよく見えてくる。
 著者は雑誌『Quick Japan』などの編集者アシスタントなどを経てライターとして活動しているらしく、本書はウェブサイト「ケイクス」にて1年間連載された「タモリと地図――森田一義と歩く戦後史」に基づく。本書の他に『私鉄探検』(08)、『新幹線と日本の半世紀』(10)の著書があるようで私は未読だが、もともとサブカルチャー、ミニコミ誌から出てきた人らしくいろいろな領域で書けそうな人で今後が楽しみ。













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