借りてきた猫のように

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北の国まで聖地巡礼(2016年9月13日)



「『北の国から』資料館」が8月末で閉館ということでぎりぎりの最終日にはじめて訪問することができました。「北海道新幹線ニノッテミタイ」という母親の言葉を受けて、飛行機で旭川空港に入り、富良野、小樽、札幌、函館を経て新幹線で帰ってくるという旅程。

 TVドラマ『北の国から』(1981-2002)は言わずと知れた人気シリーズであり、主要人物である純と蛍は設定上、私よりそれぞれ3学年と1学年上となるほぼ同世代ということになるのだが、この物語は個人的にどうも苦手で避けてきたというのが実感。現在、日本映画専門チャンネルにて「倉本聰劇場」「山田太一劇場」「サザエさん劇場(江利チエミ版)」など、テレビドラマおよび古典映画の代表作にまとめて触れることができるのがありがたく、自伝(『倉本聰――ドラマ人生』[2013])やシナリオ集なども併せて読む機会を得た。
 とりわけ本編(連続ドラマ24話、1981-82)は子ども向けとはまったく無縁の内容であり、親や大人の事情に翻弄される子どもの立場からすれば、自分たちの意思にかかわらず突然、都会の生活から切り離され、厳冬の地で自給自足の生活を強いられる展開は悪夢以外の何ものでもなく(もともと生まれ育っている場合とはまったく違う)、人間関係や共同体のあり方も窮屈で居心地が悪そうに思えてならなかった。その後のシリーズ化にしても、思春期のぎこちなさ、親の世代との軋轢、親をうとましく思う感情などは同世代としては目を背けたい側面であり、親近感を抱くなどという余裕はなかった。

 ドラマ制作の過程で生じた過去のトラブルにより、原作者は1974年に東京を離れ、北海道に移住しており、その後、77年、42歳の時に富良野に拠点を定めている。『北の国から』はテレビ局のプロデューサーから北海道を舞台にした企画を持ちかけられたことに端を発するのだが、当初はまったく乗り気でなかったという。プロデューサーの念頭にあったのは、映画『アドベンチャー・ファミリー』(1975)というロサンゼルスの都会生活を離れてロッキー山脈に移住した一家をめぐる物語と、オホーツク海沿岸を4年かけて制作された、日本の動物ドキュメンタリー映画の先駆に位置づけられる『キタキツネ物語』(1978)。1年2ヵ月をかけた長期ロケにより、四季の移り変わりと一家、特に子どもたちの成長過程をじっくり描く丁寧なドラマ作り(放映は半年間)は今となっては隔世の感がある。
 バブル景気を目前に消費文化への傾向を強めていく只中にスタートし、トレンディ・ドラマという新しい潮流を尻目に80年代後半にかけてのシリーズ化により国民的なドラマとして発展を遂げていくに至るのだが、様々な偶然と必然による時代の産物であることを実感させられる。富良野のスキー・リゾート開発を牽引した西武グループの堤義明は倉本聰の麻布中学高校時代の同級生として親交が厚く、プロジェクトの数々に広義のセゾン文化が大きく関与している。時代に抗う作風が時代の産物たりうるという逆説もまさに国民的なドラマならでは。
 とはいえ、『北の国から』の開始当時は地元での放映もまだなされておらず、観光産業化への期待もなく、地元の支援もまったくなされなかったそうで、「人為的な」町興しによる産物ではなかったというのもおもしろい。
 「資料館」以外にも、実際に撮影に使用された家を訪問することができるのがロケ地めぐりの魅力。車で十分程度の距離でも、歩いてまわるとなると優に一時間以上かかるので(連日、2万歩を超える移動を強いてしまいました)、高齢者連れということもあってか、見かねた観光協会の方が帰り道、車で乗せていってくださることに。おかげさまで「資料館」閉館後の計画についてなどいろいろとお話をうかがうことができました(ありがとうございました)。
 『2002遺言』に登場する「拾ってきた家~やがて町」は、廃材を利用して作られた家屋であり、消費文化に対するアンチテーゼとしての『北の国から』の集大成となるもので、新時代の建築として先鋭的な実践例にもなっている。個人的に思い起こされたのは、「ジャック・ロンドン歴史公園」での家屋(ウルフ・ハウス)や牧場。建物の雰囲気やその背景となる理念もよく似ているし、ロンドンが消費文化の時代を生きていたとしたら、「拾ってきた家――やがて町」のようなリサイクル・ハウスの発想ももたらされていたのではないか。

 また、ライフコースを辿るドラマとして、テレビドラマ『ふぞろいの林檎たち』(1983-97)や、アメリカのドラマ『大草原の小さな家』(1974-84)、映画版『ハリー・ポッター』シリーズ(2001-11)などの類例もあるが、子ども時代から21年の歳月を描き続けた『北の国から』はその中でも突出した存在であり、そもそもの成り立ちからしてまだ台本が半分しかできていない段階で純と蛍の役者が決まり、キャストのイメージを台本にあてこんでキャラクターが作られていったという。最終作『2002遺言』では、蛍役の中嶋朋子の実子が蛍の息子役として登場しており、中嶋朋子はその案に難色を示していたらしいが、ドキュメンタリーとドラマの要素の融合が様々な形で示されている(「ドキュラマ」という概念用語で説明されている)。
 スタッフの高齢化に伴い、シリーズは2002年に幕を閉じるが、後日談の構想はたびたび語られており、「頭の中の『北の国から』――『2011つなみ』」(『文藝春秋』2012年3月号)によれば、東日本大震災を主題とした構想があるという。脚本版だけでも形にしてほしい。

 さらに場所を移して小樽では、2017年8月の閉館がすでに発表されている「石原裕次郎記念館」を訪問。私の世代における石原裕次郎(1934-87)像としては、TVドラマ『太陽にほえろ!』(1972-87)のボス役の印象が強いが、81年に大きな手術を行って以降長期にわたって闘病中であったわけで全盛期や代表作をリアルタイムでは体験できていない。享年52歳! プログラム・ピクチャーとしての「日活アクション映画」ジャンル、あるいは、映画からテレビへのメディア文化の変遷、男性性の観点など、大衆文化研究において検討すべき要素は様々にあるのだが、世代的にぽっかりと抜けてしまっている存在でもあり、その華やかな「スタア」としてのあり方を辿る展示の数々は新鮮なものであった。
 テレビドラマ『西部警察』(1979-84)は、今でもコレクターズ・アイテムが充実していて人気がある作品だが、西部劇(特にマカロニ・ウェスタン)のイメージがどのように投影されているかなど比較文化の素材としてもおもしろい。武装した刑事たちが「自ら最終兵器として凶悪犯罪に立ち向かう」(!?)という設定はもはや成り立ちえないだろうし、銃撃戦、カーチェイス、爆破シーンを存分に盛り込んだアクション技法は、刑事ドラマ文化史の中でも傑出している。
 テレビ文化研究は映画や書籍と比べても扱いが難しいのだが、時代の空気とテレビというメディアならではの実験精神がよく伝わってくるもので、時代の変遷を探る上で恰好の素材となることを実感できた。
 
 帰りは北海道新幹線により函館から帰還。肝心の母親は車窓の眺めも印象に残らないぐらい疲れて寝ていたらしく・・・、まあしょうがないか。







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2015年10月8日

 ついにこの日が来てしまったというか、中日ドラゴンズの山本昌(山本昌広)投手が32年の現役生活を引退。私自身の観戦ユニフォームは15年以上にわたってずっと山本昌投手の「34」だったこともあり(あとは落合博満監督時代の「66」)、さすがに寂しくなるなあ。野球選手やアイドル歌手がいつからか皆、自分よりも年下になっていることに気づいた時に子ども時代の終わりを実感するものでもあると思うのだが、私のこの年齢で自分よりもずっと年長の野球選手が現役で活躍し続けてくれていたこと自体、奇跡としか言いようがなく、これほどまでに長い歳月にわたって夢を見続けさせてもらってきたことに感謝。

 ふと思い出したのは、小学生の頃に朝礼で「プロ野球の全選手の名前を憶えているような生徒がいるようだが、そんなことに頭を使う余裕があるようだったら漢字の一つでも覚えなさい」というような校長の嫌味な話があって、へえ、そんな奴がいるのかと聞き流してたら、おまえのことだと担任教師に小突かれたことがあった。とすると小5か小6の頃だな。さらに、名古屋出身でもないのにドラゴンズファンであるのが珍しかったのか、校門を出たら2人の男の人に「この学校に中日ファンで有名な男の子がいるって聞いたんだけど君のこと?」と声をかけられて、サイン色紙(当時、評論家だった星野仙一氏のサイン)をもらったこともあった。ドラゴンズの野球帽をかぶって通学してたので、いかにも昭和の小学生というか牧歌的な時代。正確なところは覚えてないのだが、私設ファンクラブだったか応援団の人たちだったか、東京支部を名乗ってたように思うのだけど。
 今でも野球シーズンがはじまる時期には、新しい選手名鑑(昔は佐々木信也監修版、現在は宝島社版を愛用)と『ドラゴンズ・ファンブック(『月刊ドラゴンズ』増刊)』を寝る前に読むのを楽しみにしているのだが、申し訳ないことにそれでも山本昌広投手が入団した頃の印象がまったくない。何せ1984年の同期入団では地元の享栄高校から甲子園で活躍した藤王康晴内野手がドラフト1位で入団している年なので私も含めて皆の期待も完全に集中してしまっていたはず。当時のドラゴンズは野武士野球と言われていた打力中心のチームだったから投手に対する関心がそれほど高くなかったのも要因か。今でも私のドラゴンズの原風景は1982年の優勝時のメンバーで特に大島康徳選手のファンだった。何点取られようがそれ以上取り返せばいいという豪快さは当時は魅力だったけど、あんなに大味な野球を今やられたら、とてもじゃないが到底耐えられないだろうな。
 鮮明に覚えてるのは、1988年の優勝年に夏も終わりになってから山本昌広投手が当時、斬新な球種であったスクリューボールを引っさげてベロビーチ・ドジャースでの留学から帰ってきて活躍してくれたこと。ペナントレース終盤の投手事情は野戦病院さながらであって、失礼ながら誰も期待していなかった若手投手が後半戦になってから突如、厳しい優勝戦線に加わってくれたのは本当に頼もしかった。アメリカのマイナーリーグ(1A)でひそかに頭角をあらわしており、その時のドラゴンズが優勝争いをしていなければ急遽、呼び戻されることもなくメジャーリーグに進んでいたかもしれなかったという逸話は有名だが、ここから200勝投手への道のりもはじまることになる。私自身が中学生の頃の話だからあらためてやっぱりすごい。優勝回数がかつては少なかったこともあり、同年代で集まれば、82年と88年の優勝時の回想を通していつでも少年時代に戻ることができる。プロ野球選手が時代のアイコンとして機能していた時代でもある。
 1993年・94年と2連連続最多勝を受賞している時期が山本昌投手の全盛期となるのであろうが、今中慎二投手とあわせて屈指のWエースを擁しながら、88年から99年までの期間、優勝から遠ざかってしまったのがいかにも惜しい。残念ながら山本昌投手の悲願であった日本シリーズでの勝利は達成できないまま引退を迎えることになってしまった。
 投手であり、昔は予告先発の制度もなかったので、実際に球場で私がその雄姿を観戦できたことはきわめて少ないのだが、個人的に印象に残っている試合は、2004年の日本シリーズ第2戦(ナゴヤドーム)。残念ながら山本昌投手は勝利投手になれなかったものの、私自身にとって初めて日本シリーズでの勝利試合を見ることができた記念すべき試合でもあり、夜行列車で帰ってきて高揚感もそのままに1時間目から授業をしたのも懐かしい想い出。そういえば、その後、日本シリーズで負けてしまった後で廣淵升彦『スヌーピーたちのアメリカ』(1993)から、チャールズ・シュルツの『ピーナッツ』(1950-2000)を通して競争社会アメリカにおける「敗者への想像力」について授業で話をしたものだ。

 引退試合後のインタビューで「これでもう練習しなくていい」というコメントを残していることからも、練習の熱心さには定評があり、その姿だけでも2軍の若手選手には良い手本になっていただろう。近年では結果的に1軍ではわずか数試合の出場に留まってしまっていたものの、逆に言えば、そのわずか数試合のためだけに年間を通じてプロとしての身体を作り上げているわけである。引退試合となった10月7日の広島戦では、広島カープにとってクライマックス(CS)シリーズへの権利をかけた大事な一戦であったのだが、山本昌投手の後を託されたドラゴンズの若手投手2名も最高のピッチングでリレーを繋いだ。20歳の若松駿太投手は「10勝よりも、山本昌さんの引退試合で投げさせてもらったことの方が光栄」という談話を残しており、後輩投手にとっても特別で感慨深い試合となったにちがいない。
 引退試合であれば球場に駆けつけたいと思っていたファンは私も含めて多かっただろうが、引退発表も含めてあまりにもすべてが急に決まったことであり(10月7日は雨天順延による追加日程)、余力があればもう1年継続することもできたであろうから、限界まで挑戦するというのはつまりこういうことなのであろう。突き指とされていた故障は実は靭帯損傷であったとも聞く。その限界の中で打者1名に対して急速110キロとはいえ、先発投手として最後の試合に向けて調整してこられた精神力の強さにあらためて圧倒される思いである。「これでもう練習しなくていい」という言葉が重く響く。

 ありとあらゆることが「最年長記録」となることからも、著書や関連本も多く刊行されており、野球に挑む精神性をビジネスの自己啓発書と結びつける傾向による著書にも良いものはあるのだが、最初の著書となる自伝『133キロ快速球』(ベースボール・マガジン社新書、2009)が一番、素朴で実直な人柄がよく現れているように思う。アメリカ留学時代の恩師・アイク生原氏との出会いなど鉄板のエピソードは何度も語られているものではあるけれども、何度読んでも感動させられる。
 『スポーツマガジン11月増刊号 山本昌引退記念号』(ベースボール・マガジン社)ではなんと1954(昭和29)年のドラゴンズ優勝時のエース・杉下茂氏が「惜別の言葉」として談話を寄せていて、御年90歳の杉下氏が臨時投手コーチとして32年前に「新人投手山本昌広」の入団時に指導した逸話など、時間の感覚を超越していてとにかくすごい。しかも内容も読みごたえがあって、杉下氏の助言でオーバースロー投法に修正を試みるもなかなか自分のものにできなかったという逸話もいかにも「大器晩成型の山本昌」らしいし、杉下氏による技術論・人物への洞察など興味深い記事になっている。

 ちなみに添付の写真は、200勝達成時に発売された記念サインボールでバレーボールぐらいの大きさ。シリアルナンバー入りで私が所持しているのは200番中9番だが、たぶんさすがに高額すぎたんじゃないかな? 何個市場に出回ったのか不明(笑)。


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