借りてきた猫のように

――フィクションの中で生きる~映画・小説・音楽・マンガなどの日常――

カテゴリー "映画" の記事

あなたも狭山市に住んでいますか(2017年5月5日)

「たくさんの金魚がプールで泳ぐ姿はキレイだろうなって思って」。
 2012年に埼玉県狭山市の中学校で実際に起こった事件は不思議なぐらい想像力をかきたてるものであったようで、小説やイラストなど、プロ、アマチュアを問わず様々な物語が生み出されてきた。
とはいえそうはいっても、「女子中学生たちが中学校のプールに夜、忍び込み、夏祭りの金魚すくいで余った金魚400匹を放った」というそれだけの顛末ではあるわけで、そんな郊外のちょっとした日常の逸脱が映画に結実されたばかりか、第33回サンダンス映画祭(ショートフィルム部門)グランプリを受賞とくれば、海外の観客にこの物語の想像力がどのように響いたのか、興味は尽きない。
 長久允監督(1984- )による短編映画『そうして私たちはプールに金魚を、』は渋谷ユーロスペースで公開が開始され、関西、長野と少しずつ公開規模を拡張しつつある。
カンヌ広告祭(2013年ヤングライオンズフィルム部門メダリスト)受賞など、CMプランナー/ディレクターとして活躍中の表現者らしく、テンポ良く切り替わるスピード感と小気味よいセリフが魅力。
 豊穣に言葉が紡がれるが、彼女たちの気持ちはよくわからないままであり、感情や感覚を巧く言語化できないもどかしさこそが十代ならではであるわけで、説明できるようになった頃にはすでに青春時代は終わりを告げているのだろう。
中学生の行き場のないどんづまり感が「どこにも繋がっていない国道」に象徴される郊外の閉塞に巧く重ね合わされていて、思春期ものと郊外の相性の良さをあらためて実感させてくれる。アメリカのオープン・ロード「ルート66」と、渋滞のイメージしか沸かない「国道16号線」とがいかに異なることか!
 「中2病」はよく扱われるモチーフであるけれども、中学生ものは実は意外に難しく、それもこれも中学生は行き場もなく、言動の背後にいちいち理由なんてなく、ドラマになりにくいからにほかならない。
この物語においても「なんでかわかんないけど」「結局」という言葉が連呼されるように、そもそも中学生でいること自体に意思や選択の余地などない。
 夏休みだからと言ってバイトができるわけでもなく、七夕祭に行っても劇的に人生が変わるわけでもない。部活が時々あって、あとは自転車で近くのイオンに行って何を買うわけでもなくぶらぶら過ごすぐらい。
 自転車ではとてもじゃないが、どんづまりの国道から先の世界には出られない。飛び交う自衛隊の飛行機もここから外に連れていってくれはしない。
 かくしてキャッチフレーズは「君はここから出られないのだ、夏」。

 思春期ものの舞台として、郊外や地方の光景は確かに相性が良いが、「ここから抜け出したい」という原動力と、「いずれ皆がバラバラになってしまう」刹那の感覚が十代の「いま」を特別なものにする土壌として有効に機能しているから。
 しかし、ベッドタウン型の郊外がおそろしいのは、結構、遠いのに通えなくもない中途半端なアクセスと人口急増期に作り上げられたインフラ整備などにより「そこそこ便利」で、抜け出したいが抜け出す説得力を得にくい点に尽きる。
この物語でも難易度の高いダンジョンになぞらえられているように、どこに行くにもアクセスはめっぽう悪いにもかかわらず、地元の高校に通う場合でも自転車で1時間以上程度なら平気で通う。大学や会社にだって、電車で片道2時間かけてつらいのに通いきれてしまう。物価もそこそこ安く、刺激はないが不満もなく、「そこそこ幸せ」な日常が茫漠と広がっている。
 1990年代以降の「失われた20年」とも称される不況と社会構造の変化すらなかったことになってしまっているような「退屈な日常」の世界に物語の主人公たちは今もなお住んでいる。本当はいつでもぽんと外に出られるはずの外側の世界に、気軽に日帰り/通勤・通学できてしまうがために、逆にいつまでも「ここ」から抜け出せる気がしない。そんなおそろしい郊外の閉塞感と呪縛がリアルに描かれている。
 パンフレットの制作日誌にて触れられているように、15歳の役者が演じる中学生を描いた物語でありながら、この場合の「リアル」は彼女たち現役の中学生たちのリアルを意味するものではない。「大人に向けて作った大人のための青春映画」であり、15歳の出演者たちから口々に「こんな言葉喋らないんですけど」と言われ、挙句に「どうして金魚をまくか結局あまりわからない」という散々な反応であったそうで、出演者たちがまったく共感できない物語と演出が、外国の観客をも巻き込んで幅広く共感されるという不思議。
 25分弱の短編映画で、CM制作をフィールドに活躍中の表現者ならではの目まぐるしくモンタージュが挟み込まれる構造であるために、実はどの映画にも似ていない。それでいて、実際に作り手からも言及がなされているように、ある種の系譜を意識しないではいられない。相米慎二『台風クラブ』(1985)、岩井俊二『打ち上げ花火、下から見るか、横から見るか』(1993)、庵野秀明『ラブ&ポップ』(1997)……。
 とりわけ『打ち上げ花火、下から見るか?、横から見るか?』は、プールをクライマックスの場面に据えていることからも誰しもが想起するところであるが、当然のことながら真夜中の学校のプールに照明なんてついてない。
きわめてローカルな場所を舞台にしたこの物語が、言葉の壁を越えて、サンダンス映画祭で受け入れられたというのは嬉しい驚き。
 十代および郊外の閉塞感は国境を越える。
 そもそもサンダンス映画祭自体、スキー・リゾート地であること以外に「何もない街」ユタ州パーク・シティに文化と若者を呼び込もうとしてスタートしたものであった。
「誰もが皆、狭山市に住んでいる」。
 佐藤雅彦の本当はどうかしてるはずのキャッチコピーが説得力を持つ。

 この物語にインスピレーションを与えた、実際のかつての少女たちが渋谷ユーロスペースの初日上映に招待されていたというのも現実世界との接点に彩りを添えてくれる。
 「何もない街」の「何も起こらない日常」からのちょっとした逸脱が思いがけず大きなニュースになり、そこから新たな物語がもたらされる想像力の源泉になってくれた。
 まだ実際の出来事から5年ほどしか経っていないけれど、これから年齢を重ねていくほどにこの「大人のための青春映画」は彼女たちにとってより特別な存在になっていくことだろう。
 そんな特別な物語を得られたことを羨ましく思うが、それはちょっとした逸脱ができた人たちだけの特権。










スポンサーサイト

ヒッチコック9(2017年2月27日)


 ヒッチコックのサイレント作品のデジタル修復版上映映画祭「ヒッチコック9」がMOVIX京都(3月中旬には東京・東劇)にて開催。

 アンソニー・ホプキンスがヒッチコック自身を演じた映画『ヒッチコック』(サーシャ・ガヴァシ監督、2012)や、映画史上における伝説のインタビューを軸にドキュメンタリー映画に仕上げた『ヒッチコック/トリュフォー』(ケント・ジョーンズ監督、2015)など、アルフレッド・ヒッチコック(1899-1980)の生涯とその映画術に対する関心が再び高まっている。
 映画理論であれ、映画制作であれ、ヒッチコックは基本であると同時にいつでも立ち返るべきホームのような存在で今でもあり続けている。好きな作品を挙げていくだけでも話題にことかかない。
 とはいえ、イギリス時代のサイレント映画作品と言われると、意外なぐらい共有されていないのが現実ではないか。なにせキャリアが長く多作なので最終作品『ファミリー・プロット』(1976)に至るまで監督歴だけでも半世紀に及ぶ。その上、テレビ番組『ヒッチコック劇場』(1955-62)や、その活字版として創刊されたミステリ雑誌『アルフレッド・ヒッチコック・ミステリ・マガジン』(1956- )などにも関与しているわけで、メディアを超越したアイコン的存在であり、その全容を掌握することは容易なことではない。

 「ヒッチコック9」は、英国映画協会(BFI)により、サイレント時代の現存する作品を一コマずつデジタルで修復を施し、記念すべき監督デビュー作『快楽の園』(1926)から、『恐喝(ゆすり)』(1929)までの9作品を一挙に上映する画期的な映画祭となっている。
 『恐喝』はヒッチコックのイギリス時代最初期のトーキー作品として知名度の高い作品であるが、この映画祭で上映されるのはサイレント映画版であり、サイレントとトーキーのそれぞれの特性を活かして2つのヴァージョンが制作されていた背景による。
 ヒッチコックというメジャーな対象であるとはいえ、きわめて専門性の高いマニアックな映画祭であるにちがいなく、京都の中心に位置する快適な映画館で、大きなスクリーンで鑑賞できるのは贅沢というほかない。デジタル修復版で蘇った映像は惚れ惚れするほど綺麗であり、しかもいくつかの作品は古後公隆氏によるピアノ生演奏とともに心地よく鑑賞できる。サイレント映画ではあるが、字幕が付されている箇所については、本映画祭のディレクターをつとめる大野裕之氏により翻訳がなされ、映画上映にあわせて読み上げがなされる「手作り感/ライブ感」も楽しみを盛り上げてくれる。

 私が鑑賞した日は、当時の人気舞台劇を映画化した『農夫の妻』(1928)と、フランス、パリを舞台にした『シャンパーニュ』(1929)の二本が上映された。加えて、それぞれの作品の上映後に映画監督の深田晃司監督と大野裕之氏によるアフタートーク付。二階堂ふみ主演映画『ほとりの朔子』(2014)を個人的に好んでいたこともあり、この監督であればどのようにヒッチコックについて語るのだろうとひそかに楽しみにしていたのだが、その高い期待をはるかに上回る明晰な分析と情熱的な語りを存分に楽しむことができた。
 上映されたばかりの作品を具体的な場面や手法に基づいて、『農夫の妻』では特に舞台と映画の違いを「視点/カメラの動き/空間表現」に注目して分析されていたのがとても参考になった。『シャンパーニュ』は冒頭から「ヒッチコックらしさ」に満ちた作品であるのだが、ヒッチコックの手法についてのみならず、「映画とは何か」を根源的に問い直すかのような深田監督の姿勢が印象深く刺激的であった。第69回カンヌ国際映画祭「ある視点」部門審査員賞を受賞した最新作『淵に立つ』(2016)はフランスとの合作であり、さらに小説版も刊行されるなど、メディアや国を横断した活動が目を引くが、今後、映画論やエッセイなどもぜひ読んでみたい。現在の日本の映画製作を取り巻く問題点についても積極的に発言している。

 プログラム(大野裕之編『ヒッチコック9――サイレント全作品デジタル修復版プレミア上映解説』)も資料性と洞察に富み、読みごたえがある。チャップリン研究で知られる映画史家デイヴィッド・ロビンソン氏と、サイレント映画の演奏家として高名なニール・ブランド氏へのインタビュー記事「ヒッチコックとサイレント映画」は貴重な証言の記録になっている。
 この「ヒッチコック9」のデジタル修復プロジェクトを、英米比較映画史、メディア研究、作家研究などの観点から捉え直すことによってヒッチコックがますますおもしろくなるにちがいない。また、これまでにそれほどなじみのない人であったとしても、ヒッチコックによるサイレント映画表現の試みを通して、映画のおもしろさを実感することができるのではないか。










音楽、映画、青春(2016年9月17日)



 総勢70人による「極私的映画作品論」の集成『観ずに死ねるか!』(鉄人社)シリーズは毎年コンスタントに刊行が続いており、「ドキュメンタリー」、「青春シネマ邦画編」、「絶望シネマ」ときて今年のテーマは「傑作音楽シネマ」。このシリーズは出版記念上映会と連動しているのも魅力で、テアトル新宿にて日替わり上映会+トークセッションが行われている(2016年9月3日~9月16日)。
 出版記念上映会では、すでに青春音楽映画の定番となっている山下敦弘監督『リンダ リンダ リンダ』(2005)を皮切りに、音楽映画の金字塔『ブルース・ブラザーズ』(1980)、NYヒップホップ・カルチャー(『ワイルド・スタイル』[1982])、沖縄映画(『ナビィの恋』[1999])、ボリウッド(インド)映画(『恋する輪廻 オーム・シャンティ・オーム』[2007])から、手塚眞によるSFロックミュージカル『星くず兄弟の伝説』(1985)などのカルト映画(!?)も含めて幅広く選ばれており、ラインナップを眺めるだけでも楽しい。『あがた森魚 ややデラックス』(2009)、「記憶」と「映像」を軸に据えた野心作、松江哲明『フラッシュバックメモリーズ3D』[2012])など「音楽ドキュメンタリー」の観点だけとりあげても、対象となる音楽と、それを描く独自の視点(監督)によって多彩さが際立つ。
 上演後、トークセッションに加えてミニライブの試みがあるのも一興。マーティン・スコセッシ監督『ザ・ローリング・ストーンズ シャイン・ア・ライト』(2008)も選出されていて、我らが日本ローリング・ストーンズ・ファンクラブ代表の池田祐司氏も登壇。思えばこの人の悪い冗談につきあわされて早30年と思うと個人的に感慨深いが、ファンクラブ代表としてすでに40年以上、現在に至るまで会誌『Stone People』を発行し続けているわけで(現在91号)、バンドが50年以上続くのも凄いが人生を賭したファン道のありかたも凄い。

 そもそも「音楽映画」などという確固としたカテゴリーやジャンルがあるわけでもないのだが、映画と音楽は切っても切れない関係にあるわけで、今のように映画をDVDや動画配信などで手軽に入手できなかった時代はサウンドトラック盤として映画音楽の存在感は大きなものであった。書籍『観ずに死ねるか! 傑作音楽シネマ88』では、「極私的映画論」と銘打たれているように88作品が編者(出版社)の独断と偏見によって選ばれていて、そこがまさにいいのだろうと思う。自分であればこの作品を入れるのにと想像するのも楽しいし、意外な作品が選ばれていれば嬉しい。評者の思い入れの強さが伝わってくるのが本シリーズの魅力なのだが、とりわけ『傑作音楽シネマ』は作品も論評も情熱にあふれている。

 上映会の一番のお目当ては、松居大悟監督『私たちのハァハァ』(2015)で、すでにDVD化されているのだが、劇場で鑑賞するのははじめて。
 北九州に住む女子高生4人組が、お気に入りのバンド、クリープハイプの福岡公演で出待ちをした際に「東京のライブもぜひ(見に来てね)」と声をかけてもらったのを真に受けて、親にも内緒にしたまま夏休みに自転車で東京に向かうという女の子たちの冒険物語。1000キロもの長距離を自転車で走破なんてはたしてできるのかと誰しもが疑問に思うに違いないが、早々に自転車をあきらめてヒッチハイクに切り替えてしまう変わり身の早さも小気味よい。『リンダ リンダ リンダ』のようにバンドや部活に捧げる青春というわけでもなく、「青春ロードムービー」といっても、旅の道中で何か劇的に大きなことが起こって人生が激変するわけでもない。
 登場人物によるカメラ映像やSNSの画面などを織り交ぜながら、実際の女子高生の会話を再現したかのような何気ない「ことば」と「演出」にこの作品の最大の魅力があって、監督自身も劇団を主宰している上に、共同脚本を担当した劇作家・舘そらみ氏の演劇的手法による貢献も大きいのだろう。
 上映後のトークセッションでは監督(+助監督?)とキャストの女子高生4人組中3名が参加。撮影からちょうど2年、公開時のイベントから1年で久しぶりの再会となったようで、さながら同窓会の趣(でも「全員はそろわない」)。「音楽映画」の観点からは、この映画のためにクリープハイブと曲を作り上げていく中で意見の食い違いも生じ、作曲を担当する尾崎世界観と険悪になることもあったそうで、その製作過程自体がまるで青春映画そのもののような裏話もおもしろい。
 松居大悟は『アフロ田中』(2012)、『男子高校生の日常』(2013)、『スウィートプールサイド』(2014)などマンガを原作にした青春コメディのほかに、『自分のことばかりで情けなくなるよ』(2013)においてすでにクリープハイプの音楽を軸にした群像劇として長編映画を製作しており、彼らのミュージッククリップも多く手がけている。ほかにも、大森靖子のミュージッククリップを基調にした映画『ワンダフルワールドエンド』(2015)があり、すでに存在する音楽をもとに映像を通して物語化していく試み、あるいはミュージシャンとのコラボレーションによって映像と音楽を融合させていく試みは、「音楽映画」の多様なアプローチの中でも格別に映る。
 
 現在公開中であることから当然のことながら『傑作音楽シネマ』には収録されていないのだが、新海誠監督『君の名は。』(2016)においても音楽は作品の中で重要な役割を示している。
 RADWINPSはこの映画のために主題歌4曲・劇中曲22曲を書き下ろしており、アニメの制作過程から監督自身と綿密なやりとりを経て作り上げていったという。新海監督がお気に入りのミュージシャンであるRADWINPSに映画音楽を依頼するところから交流がはじまり、RADWINPSの方も新海監督のそれまでの作品を何度も鑑賞して臨み、感性をシンクロさせていったらしく音楽と映像が溶けあわさっている。
 監督の熱心なアプローチにより実現したコラボレーションであっても、細かいところでやり直しの注文も多かったらしく、「映画と音楽の関わりという意味で、僕にとっても同じく高いハードルになってますね。同じやり方は二度とできませんね」(『新海誠Walker』23頁)と述べるように、そうしたせめぎ合いの中で生じる緊張感が作品を引き立てる効果をあげているのだろう。
 公開中の作品ということもあり詳述は避けるが、『君の名は。』は、十数年前に「セカイ系」とされる文化潮流の代表的存在(『ほしのこえ』[2002])として「世界の終わり」のモチーフを描いてきたことに対する誠実な応答責任であるように思う。
 それにしても、プロデューサーによるところが大きいのだろうが、どちらかといえば、玄人受けする表現者という位置づけであったのにこれほどまでに大ヒットするとは。近所の映画館で観たのだが、周りの席を高校生の集団に囲まれてしまい、皆、喋りながら観るのでうるさくて閉口した。「話題になってるから観に来た(ふだんは映画館には来ない)」という層を巻き込むというのはこういうことなのかということをまざまざと実感させられるもので、「話題になってるわりにはおもしろくないな」という反応も引き受けねばならず、今どきヒットするというのも大変だなあ。とはいえさすがに終盤にかけてはお喋りも止まり、そこは作品の力が届いたという証。













感染するSF(2016年7月17日)

「パンデミックSF映画における感染の文化・政治学」

 第55回日本SF大会「いせしまこん」(三重県鳥羽市)終了。合宿企画で午前4時までセッションが続く、まさに「大人の文化祭」。指定された合宿部屋に夜中行ったらどなたかが布団を敷いてくださっていて、目覚めたらすでに誰もいなかった。とにかく皆さん体力あるんですよね。

 自主企画「視覚映像文化とSFの部屋」も早4年目となり、なんとなく存在は知られつつあるものの実際には誰も見たことがないというツチノコのような存在に・・・。
 今年のテーマは「ポストアポカリプスの風景」(前年度は「人工知能とポストヒューマン」)。SF研究者の小畑拓也さんと毎年テーマを設定して、最新のSF映画を概観し、トレンドの傾向をつかむ定点観測の場として重宝させていただいている。
 私自身の報告は、「パンデミックSF映画における感染の文化・政治学」と題して、近年のパンデミックものSF映画の動向を探り、その歴史的変遷と多様性を概観することを目指した。
 アメリカ映画の『アウトブレイク』(95)や、日本映画の『感染列島』(09)などがこの領域の代表作ということになろうが、荒廃するロサンゼルスを舞台にした『パンデミック』(15)、飛行機内を舞台にした『パンデミック・フライト』(イギリス、14)をはじめ、『コンテイジョン』(アメリカ、11)、『FLU 運命の36時間』(韓国、13)、『感染島』(オーストラリア、11)、『パンデミック』(カナダ、07)、『フェーズ7』(フランス、07)、『フェーズ6』(アメリカ、09)、『ザ・ベイ』(アメリカ・12)など、とにかく次から次に「原因不明の謎のウィルス」感染に脅かされ、特効薬もなく、ある一定の時間内に感染をくいとめ、対処しなければ、世界が殲滅の危機にさらされてしまう。基本的な枠組みが類似していることもあり、タイトルもそっくりなものが多く(日本での宣伝の仕方にもよる)、どれがどれやら区別がつきにくいぐらい活況を呈している。
 厳密には「ポストアポカリプス」(終末論的世界観)ではなく、「世界の終わり」をいかにくいとめるか奮闘するところにパンデミックSFサスペンス映画の醍醐味があるわけだが、映像文化ではないものの、ポストアポカリプスの原風景としてまず想起されるのは、藤子・F・不二雄の短編SFマンガ「みどりの守り神」(76)であり、滅亡後の世界がジャングルと化した東京の光景として描かれている。偶然、生き残った主人公たちは細菌兵器が誤って漏れてしまったことから、感染後一週間以内に死に至る病が世界中に伝染してしまい、世界が殲滅されてしまったことを残された資料から知ることになる。
 背後には冷戦構造化の生物兵器開発競争があり、感染源が「どこ」から「どのように」もたらされたのかを探ることで時代状況の推移も見えてくる。同様に廃墟と化した都会の光景(ニューヨーク)を描いた作品に『アイ・アム・レジェンド』(07)があるが、こちらはリチャード・マシスンのSF小説『地球最後の男』(54)を原作にしたもので、1964年、1971年にも映画化されている。
 さらに古典に目を向けてみると、ジョージ・ロメロ監督『ザ・クレイジーズ/細菌兵器の恐怖』(73)があり、なんといっても『ゾンビ』ジャンルを作り上げた監督なので、ゾンビものとの連関は強い。ほか、『カサンドラ・クロス』(76)や、小松左京原作の『復活の日』(82)も生物化学兵器を背景としている。あるいは、マイケル・クライトン原作による『アンドロメダ・・・』(71)/『アンドロメダ・ストレイン』(11、リドリー・スコット監督によるリメイク版)では病原菌は宇宙からもたらされる。
 ジャンルも細分化され、多様化してきている中で、ゾンビものをどのように位置づけるかが大きな課題となる。「ゾンビ=感染」とする場合に避けて通れなくなるわけだが、ゾンビもの自体が巨大ジャンルであるために、ゾンビを包括的に扱っていたらきりがない。感染するとストリッパー・ゾンビになってしまう『ストリッパー・ゾンビランド』(アメリカ、11)、「ブリティッシュ・ゾンビ」という新傾向があらわれたり(『ロンドン・ゾンビ紀行』英、12)、文芸作品に突然、人類とゾンビの最終戦争が入り込んだり(『高慢と偏見とゾンビ』、16)、噛まれるとヤクザ化する三池崇史監督『極道大戦争』(15)などもあって、ゾンビ業界はより一層多様化して発展を遂げている。
 また、シリアスな都市論に重きを置く傾向が強い近年のパンデミックものに対して、感染すると北のある国の「ある方そっくり」の風貌になってしまう『細菌列島』(日本、09)や、エボラウィルスをまき散らす『エボラ・シンドローム』(香港、96)などのブラック・コメディは一際異彩を放つ存在である。
 さらに、デヴィッド・クローネンバーグの息子であるブランドン・クローネンバーグ(1980- )監督作品『アンチヴァイラル』(カナダ、12)では、有名人のウィルスを高値で売買するビジネスが描かれ、ウィルスを介して有名人と一体化するという風変わりな世界観が「感染SF」の新境地を示している。性感染と青春ホラーを繋ぐ『イット・フォローズ』(アメリカ、14)の設定もおもしろい。

 というわけで概観しようとしても、こぼれ落ちてしまう要素は多く生じてしまうわけであるが、ある程度、目配りしただけでも見えてくることは数多い。歴史を遡っていっても、疫病と外国恐怖は不可分の関係にあったわけで、グローバル化が進む中での無意識の「外国恐怖」の表れをこのパンデミックものの流行に見ることもできるだろうし、政治・行政による制御・管理・排除の構図、「保護される者」と「排除(切り捨てられる)者」の境界も浮かび上がってくる。「原因不明のウィルス」からは、「認識できないもの」への畏怖、高度化する医療/テクノロジーに対する信頼と限界を見ることもできる。制御できない身体変容(突然変異)と集団ヒステリーの要素は、ホラー・サスペンスのジャンルを伝統的でありながらさらに発展させていく可能性に満ちている。
 
 「視覚映像文化とSFの部屋」は今後も継続していく予定ですので、随時、ご登壇いただける方を募集しています(場合によってはゾンビもので独立して企画出してもいいかも)。次年度は静岡で8月26・27日開催。










2016年4月20日



 喜劇王チャップリンが晩年を過ごしたスイス、ヴェヴェイの邸宅が博物館「チャップリン・ワールド」として一般開放されることになり、いよいよオープン。
 チャップリンの127回目となる誕生日4月16日にあわせたプレス向け会見・取材、17日の一般公開に先駆けて15日に関係者向けお披露目会とVIPパーティが行われたのですが、日本チャップリン協会会長・大野裕之さん、世界的コレクターの大久保俊一さんに随行させていただく形で訪問させていただいてきました。
 日本チャップリン協会の発足を記念した国際シンポジウムが2006年に京都で開催され、あれから早十年。さながら同窓会のように世界のチャップリン研究者・愛好家の方々と、チャップリンが愛した街ヴェヴェイの、しかも私にとっては映像や写真の中の世界でしかなかったチャップリン邸にて再会させていただくのも嬉しいかぎり。
 
 博物館の詳細については今後様々な形で紹介されることになると思うので興をそがない程度にまずは私自身が楽しめた点を挙げておくと、チャップリンの作品世界のエッセンスを凝縮したダイジェスト映像を映画館で鑑賞した後にロンドンの街並みがあらわれ、映画の作品世界の中に入り込むことができる「スタジオ」の体験型展示が大いなる魅力となっている。さらに『キッド』(21)、『黄金狂時代』(25)、『サーカス』(28)、『街の灯』(31)、『モダン・タイムス』(36)、『独裁者』(40)、『ライムライト』(52)など代表作の中から一場面程度が抜き出され、チャーリーをはじめとする登場人物たちの人形とともに有名な場面を「体験」できる趣向が凝らされている。どの場面が選ばれているか、自分ならどの場面を選定・体験してみたいのかなど想像をめぐらせるのも楽しいだろう。写真撮影はすべて許可されており、現在のSNS時代ならでは。それにしても皆さん迫真の演技でユーモアを交えて写真撮影に興じている。
 また、チャップリン邸「マノワール・ド・バン」がそのままミュージアム化されており、チャップリン家が過ごしていたかつての時代に想いを馳せながら、邸宅にお邪魔させていただくような気持ちを味わうことができる。実際の家具などの調度品も数多くそのまま保存されており、チャップリンが家族と共に過ごしたプライベート・フィルムや写真の数々に囲まれていると、その映像や写真に写っている邸宅にまさに今滞在しているわけで不思議な感覚にとらわれる。世界有数の避暑地として知られるヴェヴェイは山や湖、芝生の緑やワイン畑、カラフルな花など色彩豊か。庭の遊歩道を自由に散策することができるのも贅沢な楽しみ。

 スイス時代のチャップリンは、アメリカ追放後、スタジオも失い、発表した作品数も少なく地味に映るのは否めないが、何といっても20年以上にわたって過ごした終の棲家であって、ファンにとってはリラックスして家族との時間を謳歌していたチャップリンのスイス時代にどっぷり浸ることできるのが嬉しい。文学作品としても評価の高い『自伝』(1964)に加え、未完のプロジェクト『フリークス』構想なども含めて晩年のチャップリン像は研究面からもあらためて注目されている。
 ミュージアム化の企画スタートから16年かかっており、ギフトショップも含めて愛情あふれる丁寧な仕上がりになっている。間口は広くそれでいて奥深いチャップリンの作品世界そのままに、熱心なファンからなんとなく存在は知ってるけどちゃんと作品を観たことがないという層に至るまで幅広く楽しむことができるはず。ファミリーでの訪問も多く見込まれることからも、幼少時にこのミュージアムを通してチャップリンの世界に触れ、やがて実際の作品に親しみを持つようになるような展開も期待される。未来の専門家がここから生まれるかもしれない。
 現在はオープンしたばかりで図録(カタログ)がまだないのでぜひしっかりした版で制作してほしい。また、隣町のモントルー(ジャズ・フェスティバルで有名)にはチャップリン・アーカイブがあって原資料の数々が収蔵されているのだが、いずれはこのミュージアムを中心に研究センター化されていくとさらに素晴らしいと思う(資料のデジタル化および最先端の研究はイタリア、ボローニャのチャップリン・プロジェクトでなされている)。

 このたびは世界屈指のチャップリン研究者・愛好家とともに滞在できたこともあり、解説つきで博物館を見学できたばかりか、チャップリンのお墓参りや彼が愛した公園「チャップリン・パーク」、レマン湖を臨む銅像などもまわることができ、まさに聖地巡礼の趣に。きわめつけはフランスのチャップリン・コレクター、ドミニク(Dominique Dugros)さんの案内で1978年に起こったチャップリン遺骨盗難事件の際に遺骨が隠されていた場所をも訪問することができた(フランス映画『チャップリンの贈り物』[2014]などでも題材に)。
 さらにVIPパーティでは『ニューヨークの王様』(1957)にてルパート少年役を演じたチャップリンの三男マイケルさんと一緒に写真を撮らせていただいた(しかもレッドカーペット上で!)。チャップリン家に加えて『ライムライト』(1952)の主演女優クレア・ブルームの姿も(大野会長に「緊張しすぎ」とからかわれるが、ふつうはそりゃそうでしょ)。
 博物館「チャップリン・ワールド」はジュネーヴ空港からスイス連邦鉄道でローザンヌを経由して一時間弱のヴェヴェイ駅からバスで十分程度。アクセスはわかりやすく絶景の避暑地でもあるので機会あれば多くの方にぜひ訪れていただきたい。今年オープンした「モダン・タイムス」という公認ホテルも近隣にある。夏には未発表原稿『小説ライムライト』(上岡伸雄訳、集英社)も翻訳刊行予定であり、今後も楽しみは増すばかり。










上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。