借りてきた猫のように

――フィクションの中で生きる~映画・小説・音楽・マンガなどの日常――

カテゴリー "小説" の記事

十四歳じゃなく十五歳(2016年6月30日)


 白河三兎『十五歳の課外授業』(集英社文庫、2016)はすでにミステリ、青春小説の分野で定評ある作家による文庫オリジナル新作。2009年に第42回メフィスト賞受賞作『プールの底に眠る』でデビュー後、ミステリ、青春小説の領域で実績を着実に積みあげてきている。一切の履歴を公表していないので年齢も性別も定かではないのだが、ひょっとしたら結構年長なのかもしれない。 
 出世作『私を知らないで』(2012)は、転勤族の親の影響で転校してばかりのために深い人間関係を作るのを経験的に避けようとする醒めた男子高校生を主人公に、ミステリアスな女の子「キヨコ」をめぐる物語。
 ほか、『ふたえ』(2015)は高校2年の修学旅行を舞台に、班決めであぶれてしまう「(ひとり)ぼっち」たちのそれぞれの視点による短編連作であり、教室にいる誰でも物語の主人公になりうることを示した、現代日本版『ブレックファスト・クラブ』(1985)のような作品。確かに群れずに「ぼっち」を貫くには「強さ」が求められるかもしれず、ぼっちたちはそれぞれ信念や自分の世界が確立されていて個性的な面々。
 『田嶋春にはなりたくない』(2016)は、まったく融通が利かず、空気を読めない天然さで周囲を困惑させる検事志望の法学部女子学生・田嶋春を軸に、彼女にふりまわされる周囲の大学生たちを通して人間関係をコミカルに描く短編連作。空気を読めない田嶋春のことを周囲は皆、疎ましく思うのだが、自分の価値観がしっかりしている彼女に周囲がふりまわされつつも感化されていく展開が意外なドラマを作っている。
 
 最新作『十五歳の課外授業』は、レギュラーでもないのにバスケ部の部長を任されるなど、育ちの良さもあいまって何でもソツなくこなす中学三年生・卓郎が主人公の物語。地元に根づいている歯科医院の息子で、早くから将来、その後継ぎになることを見込まれており、地元の人脈を築いておいた方がいいという判断により公立中学に通っている。近年、歯科の供給過剰が問題視されているが、仕事熱心な父親が地元で培ってきた信頼実績もあり、後を継ぐ分には将来も安泰であろう。父親の影響から主人公が歯に対するフェティシズムを持つという設定も絶妙で、物語の中で重要な役割をはたしている。
 彼は学校一人気者の女子、ユーカという彼女に惚れこまれていて、ユーカは男女を問わず人望があり、教師であっても彼女の発言力を無視できないほどの存在感がある。大の小説好きで将来は出版社に就職して編集者になりたいという彼女は恋愛に対しても積極的な「肉食系女子」で、恋愛の経験値も高く、気分屋の彼女のわがままにいつもふりまわされ、卓郎はへとへとになりながらも、「学校一人気者を彼女にしている」という魅力に抗えず、彼女のことを本当に好きなのだろうかもよくわからないまま関係を続けている。その一方で「キスや性的なスキンシップをする度に、胸がむかむかして吐き気を催す」一面があって、現実に悩んでいる人もいるかもしれないので笑ってしまうのもよくないのだが、肉食系女子との対照がおもしろい。
 卓郎が学校で一目置かれている理由に、すでに卒業して高校生になっている3歳上の姉・絢奈が「スパッツ番長」の異名をとり、本人の卒業後も恐れられているという背景がある。7歳の時にはじめた相撲が全国有数の強さで、中学在学中もスカートの下にショートスパッツを履いていて男子だろうと教師だろうと気にいらない相手がいると相撲での勝負を挑み、ぶん投げるというキャラも絶妙におかしい。いかにも図式的に設定されたキャラっぽく見えながら、それぞれの人物の奥行きが伝わってくるのも白河三兎作品の魅力。
 物語は教育実習生として大学生の辻薫子が学校にやってくるところから展開される。ほどなくして卓郎はかつて自分の家に定期的に遊びに来ていた「かおるお姉ちゃん」であることを認識する。地元の公立学校であれば、教育実習生も同じ地元出身であることが多いわけで、ややこしい人間関係が背後にあることも実際にあるだろう。

 キャラクター設定やあらすじではなかなかその魅力が伝わらないのだが、ふだん物語に深く親しんでいる読み手までもが予測できない、強引ながらも説得力のあるストーリー展開が白河作品の最大の醍醐味で、『十五歳の課外授業』もまさかと思う展開にページをついめくらされてしまう。ミステリを主戦場としてきただけに「意外な展開」と「巧みな構成」が共存しているのも見事。人間関係に意識的に距離をとる主人公たちの、傷つきたくないために関わりを避けようとする姿勢や疎外感などは十代を描く普遍的なテーマでもあると同時に、近年、顕著に見られる傾向でもあり、現代の若者群像としても興味深い視座をもたらしている。
 教師や親は主人公たちが抱える問題を解決する上でまったく機能していないことが多く、その一方で高校生の姉・絢奈や大学生の辻薫子がいかに「大人」であることか。保育士の理想と現実の挫折してしまった薫子の親友など、不況の時代、経済格差の中での大学生や若者を取り巻く問題にも焦点が当てられていて、今の時代に若い世代が夢を持つことの難しさについても考えさせられる。
 そして、そうであったとしても主人公が15歳という年齢であることは大きく、これからどのようにも変わることができるという点で、実は結構いたたまれない境遇に置かれる展開になるにもかかわらず、読後感が悪いものにならないのは青春小説の特権だろう。

 本当に相手のことが好きなのかどうかわからないまま関係を続けていたり、一つ一つのことについてそれなりに真剣でありながらつじつまの合わない細かい嘘や欺瞞をくりかえしていって時に自己嫌悪に陥ったり、時に開き直ったり、でも中学生の頃なんて自分のことで精いっぱいですべての言動に整合性なんてもてないし、自分の感情であっても言語化できるわけでもない。そうやって大人になっていく中学生男子の成長過程が巧く描けていて、なかなかの傑作。小説を読みなれてないはずの主人公が突然、流暢に読書論について語る箇所など違和感がないでもないが、ストーリーに勢いがあるのでそれも含めて読ませてしまう力技はさすが。
 青春小説というジャンルは本来そういうものであるのだが、よくあるベタな設定、テーマを用いながら想定をはるかに超えた展開で読者を魅了させてくれる。しかしこれもまた、「意外な展開」という陳腐な惹句では表現しきれないのがもどかしい。
















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夢なんてなんて言わずに(2016年6月29日)


 畑野智美による連作小説『南部芸能事務所』(講談社)シリーズの新刊『オーディション』の刊行にあわせて旧作が文庫化され、石川雅之(『もやしもん』[2004-14]ほか)による表紙イラストなど結構な力の入れ具合でプロモーション活動が展開されている。
このシリーズは芸人を目指す2人の大学生男子コンビ(新城と溝口)「メリーランド」を主人公に据え、短編毎に一人称視点を切り替えるという畑野智美がこれまでも得意としてきた手法(『運転、見合わせ中』[2014]など)による連作短編。主人公たちがコンビとして、芸人として、着実に成長していく様子が連作を通して丁寧に綴られており、新刊『オーディション』は連作シリーズ4冊目となる単行本。
 芸人の世界が舞台になってはいるけれども、若い世代が夢を持ち、その夢に向かって奮闘し、時に葛藤していくという点ではことさらに芸人の世界に特化されるものではなく、様々に置き換え可能であろう。夢を叶えることだけがすべてではなく、その過程で納得した上で世界を去っていく者もあり、夢を諦めることもまた人生のあり方の一つとしてそれぞれの人生に寄り添う視点もこの作品の魅力になっている。
 青春小説/恋愛小説を得意とする畑野作品らしく、大学生で「まだ何者でもない/何者にもなりうる」可能性を秘めた若い主人公たちが、恋愛模様や友人や家族、事務所やアルバイト先での人間関係などを通して大人/プロになろうとしていく過程が情感豊かに描かれている。

「今どきの大学生が夢なんて持てないですよ」(『国道沿いのファミレス』[2011])という言葉に表れているように、若い世代が夢を持ちにくいとされる時代の中で、芸人の世界は伝統もあり、古い縦社会の規律も残っていると同時に、競争過多で実力勝負の厳しい世界でもある。運やタイミングに左右される要素も大きく、本人たちがどれほど努力をしたとしても資格を取得することとも異なり、必ずプロになれるともかぎらない。そんな世界に飛び込んでプロを目指そうとする主人公たちの物語は今どきまっとうな成長物語の要素に満ちており、コンビでマンガ家を目指す『バクマン。』(2008-12)に近いが、それぞれの登場人物の胸中や情感を短編毎に切り替えながら長期シリーズ化していくことにより、じっくり描いていることでより一層の味わいが出てきた。
 現在のところまだ主人公たちは大学生とのかけもちによるものだが、学生ではなくプロ専業の立場になっていくことでそれぞれの関係性も変わっていくことになるであろうし、番組のレギュラー出演権をかけて挑む公開オーディションに参加し、勝ち上がっていく過程を通して、「有名になる」ことに対する覚悟と代償、期待と不安といった葛藤も描かれ、新たな段階に差しかかっている。

 実際の芸人自身による「芸人小説(映画)」の系譜もあり、コントにせよ漫才にせよ、構成の基本を踏まえた上でストーリー作り(セオリーをずらすことによる笑いの技法も含めて)を本職としていることからも、ビートたけし(北野武)以降、又吉直樹『火花』に至るまで創作の分野で芸人とされる人たちが活躍しているのも必然的な流れではあろう。
 芸人の世界を描いた作品であると同時に、夢に向かって頑張っていく若者を描いた青春物語であるところにこのシリーズの醍醐味があって、芸人もマンガ家もアイドルも現実的なキャリアの選択肢としてはリスクの高い、潰しが効かない世界ではあるのだが、であればこそ果敢に向かっていこうとする若い世代のひたむきさが眩しい。じっくり丁寧に描き続けていってほしいシリーズ。











2016年5月9日

 なんとフリースタイル社から「小林信彦コレクション」の刊行がはじまっており、その第一弾は『極東セレナーデ』(87)で、しかも江口寿史によるイラストが表紙。近年、電子書籍では入手困難な旧作が復刊されているとはいえ、待望の復刊であり、ありがたく喜ばしいのだが、当面、第二弾が『唐獅子株式会社』(78)であること以外はいつまで続く見込みであるのすら公表されていない。
『極東セレナーデ』は1980年代後半に流行した「ギョーカイもの」に位置づけられる作品で、大学卒業後、零細出版社で働いていた朝倉利奈を主人公とするシンデレラ・ストーリー。出版社の就職にこだわり、ポルノ雑誌のアルバイト編集者として働いていた彼女はわずか4ヵ月で表現規制による雑誌廃刊に伴い無職になってしまうのだが、文才とエンターテインメント好きを買われて、ニューヨークのショービジネスをレポートする特派員に抜擢される。これだけでも充分なシンデレラ・ストーリーとして成立するのだが、手の込んだ「知的アイドル」としての売り出しに本人の意思を超えて巻き込まれていく。広告代理店企画部長であり、タレント事務所経営者でもある氷川秋彦によるユニークなアイドル・プロモーション戦略は、雑誌『ヒッチコック・マガジン』編集長、テレビ・バラエティの発展期に構成作家として活躍していた著者ならではの芸能界/広告業界の光と影を反映したもので今読んでもおもしろい。
 若い女性の実際の語り口を小説に導入する「新・言文一致体」を目指した実験であったと述懐されているのだが、今となってはさして目新しいものではないものの、橋本治『桃尻娘』(78)をはじめとする同時代小説の主要な関心事であり、小林自身による『オヨヨ島の冒険』(70)における女の子の一人称口語文体にさらに遡ることもできる。

 2011年の東日本大震災に付随して起こった原子力発電所事故以来、この作品に対する再評価の兆しがあらわれるのだが、「知的アイドル」として売り出されていた主人公が原発を推進するキャンペーンに抜擢されてしまう展開はこの物語の中で確かに大きな意味を持つ。広告とメディアと原発をめぐる関係が想像以上に根深いものであることを私たちは2011年以後知ることになる。「放射能はいらねえ 牛乳を飲みてえ」(「LOVE ME TENDER」)と歌ったRCサクセションによる『COVERS』(1988)が発売禁止を言い渡される事件が起こるのもこの作品の発表後の話である。
 とはいえ、『極東セレナーデ』がそうした原発をめぐる観点からのみ再読されるとしたらつまらない/もったいないと思っていたところ、文芸評論家の斎藤美奈子による解説(「バブルとバブル後を先取りした物語」)を通して浮かび上がってくるのは、この作品が持つ同時代性であった。原発をめぐる観点からの再評価を牽引したのがそもそも斎藤氏であったわけだが、同氏による編著『1980年代』論を併せて読むと、この作品が1980年代を代表する作品たりうることがよくわかる。
 さらにいえば、解説の原稿が書かれた後になるであろう2016年上半期における芸能ニュースを経た私たちからすれば、「アイドル/芸能界とは何か」、「週刊誌ジャーナリズムとは何か」、「広告業界とアイドル/芸能界との関係性」の本質をもこの作品に読み込むことができるだろう。1980年代半ばは写真週刊誌の過熱ぶりが問題視され、マスコミ・ジャーナリズムとプライバシーの問題に注目がなされた時代であるが、現在、週刊誌ジャーナリズムのあり方が問い直される局面をまた迎えつつある。広告代理店や芸能事務所の旧来のモデルが移行期を迎えている今、業界のあり方、アイドルとは何かを再考する上で多くの示唆をもたらしてくれるにちがいない。

 私自身が小林信彦の小説を熱心に読んだのは、映画『紳士同盟』(86)公開後、中学から高校生にかけての時期で、中でも『夢の砦』(83)、『世間知らず(『背中合わせのハートブレイク』)』(88)と、この『極東セレナーデ』は勝手に三部作と命名して愛読した作品。著者自身が「B型ヒーローの系譜」とみなす傾向が共通しており、周囲になじめない孤独を抱えた主人公(『極東セレナーデ』では氷川秋彦)が自分の感性の赴くままに突っ走っていたら足元をすくわれたり、社会のしがらみに巻き込まれて失脚/敗北してしまったりする、いわば「破滅の美学」を描いた物語群であり、小林信彦の主人公はいつも傷つきやすく、センチメンタルであるのも十代の心性によく響くものだった。
「B型ヒーロー」の概念として著者が引き合いに出すのは夏目漱石の『坊ちゃん』であり、生卵をぶつけて溜飲を下げるのはフィクションの中では確かにクライマックスとして盛り上がるけれども、失脚/失職後も人生は続くわけで、『夢の砦』も『極東セレナーデ』も『世間知らず』も人生の儚さばかりが際立って映る。今日では血液型性格分類は疑似科学として旗色が悪いのだが、著者は漱石、大岡昇平に連なる主要なモチーフとして捉え、『坊ちゃん』の世界を裏側から描く『うらなり』(2006)において、より直接的に結実させている。

 斎藤美奈子・成田龍一編『1980年代』(河出書房新社、2016)は、政治・国際情勢・社会・フェミニズム・カルチャー・思想・プロレス・マンガ・映画など様々な観点から1980年代を立体的に捉えようとする試みであるのだが、中でも今現在との対比で見えてくるのは、文学と批評に大きな力があった時代であったということ。中でも「ニューアカデミズム」の隆盛は大学のレジャーランド化という現象と実は表裏一体であったのだろうが、文学や思想書が読まれた/売れた時代であったのはうらやましいかぎり。
「1980年代を代表する文学」について語る座談会では小林信彦の名前は残念ながら挙がってこないけれども、『1980年代論』で言及されている要素の多くは『極東セレナーデ』に盛り込まれていることがよくわかる(「1980年代を代表する文学」として確実に入ってくるのは田中康夫『なんとなくクリスタル』[80]、島田雅彦『優しいサヨクのための嬉遊曲』[83]ほか、村上龍、村上春樹、吉本ばななからそれぞれ一作品といったところ)。

 フリースタイル社が刊行する雑誌『フリースタイル30号 小林信彦さんに会いに行く』では、小林信彦の最新インタビューが掲載されていて(聞き手は亀和田武)、『極東セレナーデ』について今ふりかえる箇所など読みごたえがある。中でも「田中(爆笑問題の田中裕二)はいい結婚をしましたね」と80歳を超えてなおどうでもいいこと(というのも失礼ですがあまりにも脈絡がなかったもので)を変わらずに熱く語っている姿が微笑ましく、笑ってしまった。こういう大人になりたい(といいながら私自身もすでに充分すぎるほど大人の年齢なんですが)。
「小林信彦セレクション」が今後どのように続くかどうかはおそらく売れ行きにもよるのだろうと思うのでぜひとも成功してほしいし、『夢の砦』、『世間知らず』は確実に刊行してほしい。
















2015年11月24日



もし「女性医師が終末期を迎えている患者の心を読むことができたら」(『If――サヨナラが言えない理由』2014)

もし「47歳の女性3人組が17歳の頃に戻って別の人生を歩むことができたら」(『リセット』2008)

もし「抽選見合結婚法が制定され、未婚の25歳から35歳までの男女は強制的に見合い結婚をしなければいけないとしたら」(『結婚相手は抽選で』2010)

もし「70歳以上の高齢者が生存権を剥奪されてしまうとしたら」(『70歳死亡法案、可決』2012)

もし「夫の不倫相手と心と体が入れ替わってしまったら」(『夫のカノジョ』2011)


 垣谷美雨(1959- )の小説は今どきこんなベタな「もしも」をめぐる仮定を、作中人物の心情に寄り添って丹念に描くことで読者を物語の世界に誘ってくれる。しかしながら、物語のプロットだけを伝えても作風の魅力が今一つ伝わりにくいところがあり、上記の「もしも」をめぐる物語にしたところで、正直なところ読書になじみのない人にとっては荒唐無稽な絵空事につきあってるヒマはないと敬遠されてもやむをえないし、読書好きな人にとってもベタな設定が陳腐に映り、敬遠されてしまうかもしれず実は届くべき層に行きわたっていないのではないか。TVドラマ化された『夫のカノジョ』(TBS系列、2013、川口春奈主演)にしたところで今世紀民放連続ドラマ最低視聴率(3.0%/平均3.8%)を叩き出してしまったことで逆に話題になるという不遇な作品となってしまった。

 第27回小説推理新人賞受賞(『竜巻ガール』2005)により46歳でデビューしている遅咲きのキャリアが示しているように、浮世離れした設定の一方で、地に足が着いた登場人物たちの心情をじっくりと描写することで安定感がある。SF物語の性質の根幹にかかわることであるが、「なぜ」そのような状況が生じてしまうのかというところにはほぼ力点が置かれておらず、そのような状況が生じてしまったとしたら人々は「どのように」ふるまうものであるかをめぐる「シミュレーション」小説となっている。『リセット』(2008)にしても、高校時代に遡るという展開はありがちな設定であるとしても、元の年齢に至るまでの30年間もう一回人生を送ることになり、途中で元に戻りたくとも戻れない。となれば様々な人生の可能性を享楽的に試してみるという軽やかさはなくなり、今置かれている状況の中で人生を着実に過ごすほかなくなってしまう。あの頃に戻ってみたいという気持ちはあったとしても「もう30年」の歳月は重い。

 一見なかったことにされたり、注目されない日常生活の背後でひそかに違和感を抱いていたり、鬱積している「どこにでもいる平凡な女性」の声や心情を描くのが巧い。東日本大震災直後の避難所を舞台にした、その名も『避難所』(2013)という物語は、「段ボールの仕切りを最後まで使わせなかった避難所」の存在について作者が耳にしたことを契機に、この状況を強いられていた被災者はどんな思いで過ごしていたのだろかという想像力が着想の原動力になったという(インタビュー「大震災で露わになったこと」より)。「家族同然で互いに親睦を深めるために連帯感を強めて乗り切ろう」とその避難所のリーダーが狙いとしていたように、避難所の方針に格別な落ち度があったわけでも、取り組みが誤っていたというわけでもない。非常時であればなおさら唯一の正解が存在するわけでもないだろう。しかしながらそこで声をあげられない人たち、とりわけ「どこにでもいる平凡な女性」の心情に想いを馳せることで、ふだん存在がなかったことにされていたり、ことさら声高に主張をしない人々たちの存在に留意することで、世界の見え方は格段に異なるものになりうることを気づかせてくれる。

 主張しない人たちは必ずしも現状に満足しているから黙っているわけではなく、時に我慢を重ね、それまでの経験則上、声をあげたところで事態は改善しないことに絶望して諦めてしまっているのかもしれない。そしてそもそも「どこにでもいる平凡な女性」など存在せず、誰しもが物語の主人公になりうることを示してくれている。

 物語のスタイルについても、SF的な「もしも」の物語でない場合でも、よくある設定を用いながら、垣谷美雨でしか表現しえない世界観を提示しえていることに感嘆させられる。震災の避難所をめぐる物語を私たちはたくさん見聞きしてきたような気になっているかもしれない。しかし、多様な人たちが存在し、視点を変えれば世界の見え方はまったく異なったものになる可能性がある。そして他者に対する想像力をそれぞれが養っていくことで私たちの世界をより寛容なものにしていくことができるはずだ。

 『結婚相手は抽選で』(2010)では強制的にお見合いをさせられる男性と女性の思惑がそれぞれ内面描写で示されており、恋愛初期であればそうした駆け引きも楽しいものになるかもしれないが、同じ場面を共有しているにもかかわらず、男女の捉え方の違い、中でも女性のシビアで冷徹な観察力と男性の能天気で独りよがりな視点とのギャップに慄然とさせられる。もちろん結婚しなければいけないわけでも、異性を好きにならなければいけないわけでもないわけで、恋愛とは何か、結婚とは何か、家族とは、親子とは、といった根源的な問題を考えさせてくれる。

 総じて男性に対しては厳しい傾向がある一方で、それまで我慢していた女性が立ち上がり、それぞれの境遇の違いを超えて女性たちが時に連帯し、人生の新たな一歩を踏み出していくという展開が多く、読後感は明るいものになっている。勝ち組、負け組というような描き方ではまったくなく、それぞれの人生にはそれぞれの課題や悩みがあり、どんな年齢になったとしても、今ある人生を精一杯生きるしかないという、言葉にすれば陳腐なことを様々な人生模様をめぐる物語を通して示してくれているように思う。

 垣谷美雨の作品における安定感はつまるところ「普通の人の普通の感覚」によるのだろう。文学や文芸は一部の熱心なファンのためだけに存在しているわけではないし、特別な変わった世界を垣間見ることだけが目的であるわけでもない。「普通」の概念も揺らぎつつある中で、垣谷作品の登場人物たちは皆、住宅ローンを抱えながら家計をやりくりし、子どもや家族の問題に悩み、「私はこのままでいいのだろうか」と自問自答しながら日々生きている。

 ありふれた設定、ありふれた登場人物によって紡ぎ出される物語なのになぜかそれが非常に斬新なものになりうるという、物語の想像力をめぐる不思議な力を垣谷美雨の作品は実感させてくれる。現代の社会や家族をめぐる状況を女性の視点から捉え直す契機をもたらしてくれる。
















2015年9月30日

 広義の「青春小説」を得意とする畑野智美の新刊『みんなの秘密』(新潮社、2015)は、友達を失いたくないあまり意に添わぬ万引きに加担してしまう「普通の」中学2年生女子の物語。小説すばる新人賞受賞作『国境沿いのファミレス』(集英社、2011)、続く『夏のバスプール』(集英社、2012)と、男性主人公の視点で展開する物語からキャリアをスタートしていることからも、女子の視点による思春期女子の物語世界をどのようにこの作者が手がけるのかが読みどころとなる。
 スクールカーストと称される学園内ヒエラルキーで上位にいるわけでもなければ、下位にいるわけでもない「普通の」中学2年生女子が主人公で、特別にものすごいことが起こるわけでもないのだが、クラスの女子の人間関係の構図はちょっとしたきっかけで、あるいはきっかけがなくとも、めまぐるしく入れ替わる(「先週の月曜日と今日の光景を並べても、どこが違うかすぐにはわからない。でも、よく見ると、それぞれのグループにいるメンバーが違う」)。
スクールカーストなどという大仰な言葉を使わなくとも、友達づきあいをめぐるそれぞれの動きにより、刻々と関係性が変化していく様子がシビアにクールに分析されている。

「沙耶ちゃんが理想とする中学校生活に私は入っていない。私と奈々ちゃんより、かわいくてお洒落な女子といたいのだろう。そして、そういうグループの中心と周りから見られたいと考えている。そのために愛菜たちのところに入ろうとしたのに、願っていたような立場にはなれなかった。だから、自分で新たにグループを作ろうとしている」

 中2女子がこれほど明晰に状況分析を言語化できるかどうかはともかく、本能的/直感的に微妙な動きを察知してふるまっているであろうことは想像に難くなく、ことさらに序列意識を強調せずとも、学校空間は女子にとって人間関係の繊細な機微を学ぶ場として機能しているのだろう。
 「中2病」としばしば称されるように、第二次性徴期に伴い、心と身体がアンバランスになってしまい、自意識過剰で情緒不安定になりがちなこの年代は、特に性に対する好奇心で頭が一杯な男子の側から描かれることはよくあるけれども「普通の」女子の側から捉えられることは意外に少ない。

「『えっとね、首のここを押さえると』自分の首を触り、愛菜は説明する。男の人だったら、咽仏がある辺りだ。『スッと意識が飛んで、イクより気持ちいいんだって』
『イク?』(略)
愛菜だけではなくて、由依や凜も彼氏がいるのだろうか。そして、セックスをしているのだろうか。そういうことをした人がいるとかいないとか噂には聞いたことがあるが、わたしにはまだまだ遠い話だと思ってた」

 「普通の中2女子」の性に対する好奇心と不安や戸惑いが表れているおもしろい箇所ではあるけれども、お互いの首を絞め合ってる中2女子ってなんだかなあと思わされるのも事実。そして気がつくと、はたしてこれって「普通の女子」の姿なのか、あるいはもはや「普通ではない」のかその境い目がだんだん曖昧になってくる。

 内田春菊の初期作品に『幻想(まぼろし)の普通少女』(マンガ、全3巻、1987-92)があり、80年代ぐらいまでの学校空間に特有な「普通の女の子」像がいかに幻想であり、虚構であるかを突きつけ、お互いがお互いを縛りつけるようなその呪縛を乗り越えていく方向性を示唆している。
 畑野智美の物語もまた、そもそも「普通とは何か」、「青春小説とは何か」、「恋愛小説とは何か」といったふだんあらたまって立ちどまることがないような根源的な問題を考えさせてくれる。 
 いわゆる「中2病」的な男子の姿が「普通の女子」の側からどのように映っているのか。性に対して潔癖な傾向や嫌悪感もあるけれども、この年代では女子の方がはるかに成長が早い側面もある。

「男子がいやらしいことしか考えていないというのは間違っていないのだろうけど、それを汚いと言えるほど女子はキレイなのだろうか。
わたしも沙弥ちゃんも、いつか彼氏ができてセックスをする。
いつまでも、キレイな子供ではいられない」

 永遠に純粋で潔癖でいられるわけではないことも充分に承知しているはずであり、そのあたりの微妙で繊細な感情を淡々と描くのが巧い。

 デビュー作『国境沿いのファミレス』の文庫化にあたり、ベテランの文芸評論家・北上次郎氏が異様に力のこもった解説を寄せていて、「私はいま将来の読者に向けて書いている」と未来の読者を想定し、解説執筆時点で3作しか発表していない「新人」作家としての畑野智美のどこに、世代が全く異なるベテラン文芸評論家が魅了されたのかを熱く語っている。ここでもやはりそもそも「青春物語とは何か」が根源的に問い直されている。ベテラン文芸評論家にとって青春物語は今さら身近な物語にはなりえないと言う。ではどうしてこの新人小説家による若者をめぐる物語に心を揺さぶられるのか。
文庫化されたばかりの『海の見える街』(講談社、2013/講談社文庫)の解説者である吉田大助氏も同様に「そもそも恋愛小説とは何だろう?」という問いかけから説き起こしている。比較的、評論家受けが良い反面、一般読者のレビューでの評価が低い傾向にもあるようで、既存の読書観、ジャンル認識を揺さぶられるところに起因するのではないか。

 また、北上氏の慧眼として「畑野智美が書き続けてるのは、友達のいない人間の物語なのではないか」ということを初期3作品から喝破しているのも見事であろう。近年の女性作家や女性をめぐる物語において、「友達がいないことに対する飢餓感/親友の存在を望む渇望感」がトレンドとして挙げられるが、『国境沿いのファミレス』では幼なじみの親友が物語の中で重要な役割をはたしているし、『みんなの秘密』では、仲良し3人組とされる中2女子の人間関係に焦点が当てられていて、親友同士の間での「ちょっとした」悪意、「ちょっとした」嘘、「ちょっとした」嫉妬などを通して、つまるところ、「普通の中2女子」の「友達とは何か」をめぐる物語であるとも言える。

 郊外の地方都市を舞台にした作品が多く、サクライというショッピングセンターが複数の作品で出てくるなど、郊外版「ヨクナパトーファ・サーガ」(架空の土地を舞台にした連作群)とでも称すべき、ゆるやかな作品世界の連関もおもしろい。しかも著者は東京出身であり、であればこそ郊外文化の特色が際立って見えるということもあるのだろう。
強いて課題をあげれば、特別にものすごいことが起こるわけでもない物語の展開に特徴があるとして、いかにもなクライマックスでもアンチ(反)・クライマックスでもない物語のしめくくり方を今後どのように創出することができるか。ジャンル認識に揺さぶりをかけるぐらいなのだから、むしろ壮大に失敗するぐらいの大胆な試みをぜひ読んでみたい。小説の尺度が「よく書けてます」しかないとしたらつまらない。
 一見、「青春小説」らしくないスタイルをとりながら、畑野智美の物語は「青春とは」「恋愛小説とは」「普通とは」「思春期とは」「友達とは」、そして「小説とは何か」を問い直させてくれる。













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