借りてきた猫のように

――フィクションの中で生きる~映画・小説・音楽・マンガなどの日常――

カテゴリー "日常・イベント" の記事

OTAKON @ Washington,D.C.(2017年8月16日)



「OTAKON」の年次大会に行ってきました。1994年にスタートして以降、昨年度まではメリーランド州ボルティモアで開催されてきたのですが、増大する来場者数に収容能力が追いつかずついに今年からワシントンD.C.に場所を移し、そのはじめての開催となりました。

 「オタク・ジェネレーションのためのコンベンション」と銘打たれているように、日本のオタク文化(東アジア含む)およびその精神性を称揚するところに最大の特色があり、日本からクリエイターを毎回ゲストとして招聘している。3月に西海岸のシアトルで開催される「サクラコン」(23000人)、ロサンゼルスで開催される「アニメ・エキスポ」(50000人)とあわせて、30000人規模の「OTAKON」は東海岸最大級のイベント。
 ファン・カルチャーによるコンベンションは21世紀以降、アメリカでさらに拡張してきているが「OTAKON」を通して実感されるのは、商業主義化の傾向がより一層進むポップカルチャー領域において、ファン自身によってイベントを主導しようとする精神が浸透していること。プロ・アマを問わずクリエイターに対する敬意も随所に窺える。
 そして、とにかく参加者皆がそれぞれのやり方で楽しんでいる。とりわけ会場を闊歩する様々なコスプレ姿からは、日本のポピュラー・カルチャーばかりでなく、アメコミはもちろん、「誰?」と問わずにはいられないオリジナルキャラに至るまでその多彩さが際立つ。ツノか触角かシッポか羽根が生えてる人たちが闊歩する会場は壮観であり、髪や肌、服の色もカラフル。

 プログラムは丸3日間、朝の9時から夜2時まで続く。「パネル」と称されるトーク・セッションに、映画上映、ゲームの実演コーナー、コスプレのコンテストや写真撮影会、ゲストによるサイン会、ワークショップなども。コスプレの写真撮影会は(パネルを中心にまわっていたのでほぼ立ち会えなかったのだが)、特定のアニメに特化したカテゴリー分けがなされていて、そこに同好者が集う。『ユーリ!!! on ICE』、『ハイキュー!!』の人気が特に目立って見えた。
 「パネル」のゲストでは、日本マンガの先駆的紹介者であるフレデリック・ショット氏と、『ジャパナメリカ――日本発ポップカルチャー革命』(2007)の著者であり、アメリカと日本のポップカルチャーの相互作用を探るローランド・ケルツ氏のセッションなど。フレデリック・ショット氏は今年の2月に日本で講演を行っており、ケルツ氏は(知らなかったですが)今年の夏まで慶應義塾大学にて研究員をつとめていたらしく、それぞれのアプローチで歴史資料からポップカルチャーの最前線までを捉え続けている。
 一方、アメリカの教育現場にマンガ/アニメをどのように導入するかをめぐるセッションなどもあり、実際に教育現場に携わっている方々の報告を踏まえた意見交換なども活発に行われた。

 とにかくあまりにも規模が膨大なので全貌をつかむことなど到底できないのだが、特筆しておきたいプログラムについて何点か。
 会場に神社の祭殿がまつられており、伝統的な日本文化のよくある紹介程度のものかと思っていたら、巫女であるKuniko Kanawa氏をゲストとして招いた本格的なもので「古神道」は今回のプログラムの中でも大きなテーマの一つとされている。
 パネルでのセッションにも登壇され、『千と千尋の神隠し』をはじめとする宮崎アニメなどを素材に日本のポピュラー・カルチャーにおける神道表象を分析する試みなどを披露されていた。ポピュラー・カルチャー研究においてもきわめてよくある視点であり、宗教文化研究者を交えたシンポジウムなどもよくあるものではあるのだが、実際にはかなり雑な分析で事足れりとしてしまっている現実もあり、神道の専門家に話を窺う機会は有効ではないかという思いを強くした。
 『君の名は。』にしても、『神様はじめました』にしても、大森靖子の『kitixxxgaia』にしても、物語を駆動させる媒介として現在なおも神道描写は大きな役割をはたしている。「ポスト神様の時代」と称されるほど「神」のあり方も多様に変遷を遂げながら氾濫している。大林宣彦の『転校生』(1982)にしても男女の体が入れ替わる場として神社が機能しており、高橋留美子作品の神道表象にしても、系譜として包括的に探る研究はもっとあってよい。

 個人的に嬉しかったのは、『うる星やつら』のテレビアニメシリーズにて諸星あたる役を演じた声優・古川登志夫・柿沼紫乃夫妻がゲストとして招かれていたこと。「声優ワークショップ」では、古川氏がエース役をつとめた『ONE PIECE』の一場面を用い、参加者に実際に声優体験をしてもらうというセッション。「日本語版」と「英語版」の二部構成として、まずは日本語をある程度理解することができる参加者を募り、スクリーンの映像にあわせてアテレコをしてもらうというもの。外国語学習の観点からも有効な試みとなりそう。
 実際にやってみると、想像以上に早く場面が進んでしまったり、言語化されない感情を表現したりするのは難しいものであるはずだが、アメリカでは人前でパフォーマンスをすることに慣れているようで皆すごく巧い。

 さらに、ちょうどニューヨークでの公開がはじまったばかりのアニメ映画『この世界の片隅に』の上映会もあり、プロデューサー、アニメーターの立場から、丸山正雄氏・松原秀典氏がゲストとして招聘され、サイン会と上映会後のトーク・セッションも行われた。
 サイン会ではアニメーターの松原氏の代表作品(『サクラ大戦』や『ああっ女神さまっ』)などを皆持ち寄ってサインを求める姿が目立ち、さすがオタクの祭典!
 『この世界の片隅に』は資金難から制作が幾度も困難に陥り、最終的にはクラウド・ファンディングなどによって完成にこぎつけた経緯がよく知られているが、5年前の「OTAKON」にて制作予定の作品として紹介されていたらしく、参加者からも「ようやくあの時に話題に出ていた作品を観ることができて嬉しい」という声もあがり、皆が感慨にふける一幕も。
 律儀にその約束をはたして上映会を開催し、制作陣が直接参会し、ファンとの対話を丁寧に行う姿勢に大きな感銘を受けた。監督は不在であったが、監督を代弁するチームプロジェクトとしてのあり方と、監督に寄り添いながらも監督を客観視する視点からの見解も興味深いものであった。
 太平洋戦争を舞台にした物語をアメリカで上映するという状況からも、他のセッションでの軽快なトークとは対照的に、お互いに言葉を慎重に探りながら語る様子はひときわ印象深いものであった。一つの作品をじっくり作り上げ、その後も地道なまでにじっくりと観客に向き合おうとする姿勢は、一過性の消費に留まらず作品やクリエイターに敬意を払う「OTAKON」のあり方にもいかにも似つかわしい。

 参加する前までは、正直なところ、コンベンションに食傷気味なところもあったのだが、それぞれがそれぞれのやり方で楽しむイベントは居心地のよいもので、なおも拡張を遂げている要因はこうした居心地の良さにこそあるのだろう。















スポンサーサイト

伯父のはなし(2016年8月17日)



 私には2人伯父がいて、小学生時代の夏休みを両親の郷里(広島)で過ごしていた際に、大学教員(教育学)をしていた方の伯父は小学生と同じぐらいの期間、祖父母の家に何をするでもなくいて、私や従兄弟たちに禅問答のような謎かけをしては答えを教えてくれるわけでもなく、不思議な存在ではあった。気まぐれに近くの海に連れて行ってくれることもあったが、缶ジュース一本買ってくれるでもなく、子どもをかまうでもなく、一人で沖まで泳いだり、夜に一緒に散歩に出かけては突然、海に飛び込んで泳ぎ出したり、自由な人だった。
 もう一人の伯父は開業医(小児科・内科)をしていて、海に連れて行ってくれると「過剰に」もてなしてくれるのだが、それはそれで厄介なところもあって、無理してでも食べたり飲んだりしなければならず、ぼんやりしてると怒られるので気が抜けなかった。せっかちで予定よりも早く「病院が気になるから帰るわ」と言い残して帰ってしまうことも多かった。
「小学生のハローワーク」としてどちらの職業に憧れるかというと「お金はなさそうだが、小学生以上に休みがあって、本を読むだけで生きていける夢のような仕事が世の中にはあるらしい(誤解)」と、「大学の先生」という職業に対する原風景が形成された。今現在の大学教員は、お金がないのは変わらないとしても、夏休みは短くなる一方で、そもそも時間の拘束が少ないだけで「休み」というわけではもちろんなく、ワーク・ライフ・バランスの観点からはガタガタになりやすい。
 開業医の伯父の個人病院には子どもの頃に何度か訪ねたことがあって、独特の消毒液の匂いに、書類や薬剤などがあちらこちら無造作に積みあがっていて、終業後でも電話がかかってきては患者さんがやってきていつまでも帰れない。毎月、「点数つけ」と呼ばれる作業があってその時はいつにもましてぴりぴりしていて機嫌が悪い。憧れる気持ちなど微塵も持てずただただ大変な仕事だなあという印象しかなかった。
 十数年ぶりに病院を訪問してみようと思い立ったものの、中国(広島)地方特有の家父長制に基づくものなのか、単に野蛮で粗野な家系によるものなのか、今の年齢になってから頭ごなしにどやされるというのはなかなか新鮮というか、つらい、おそろしい体験でした。車の免許がないことで怒られ(院生時代に免許取得分のお金をもらったことがあったのに『マーク・トウェイン全集』に化けた)、ぼんやりしてないでもっとしっかりしろと怒られ、はては字が子どもっぽいと怒られ、やることなすこと否定され、もうむちゃくちゃ。競争の激しい世界(まわりにモダンな個人病院が次々に新しくできている)にもかかわらず、80歳近くで今もなお現役であり続けているのは確かに立派であるとしても、あのー、伯父と甥の関係というのはこれほどまでに理不尽で緊張を伴うものなんですかね?
 
 院生時代にも訪ねたことがあるはずなのにその記憶は完全に抹消されていて、忌まわしい体験だったにちがいないのだが、子ども時代の記憶と漠然とつながるような、つながらないような、時間が止まっているかのような不思議な感慨に(「診察室」や「待合室」ってこんなに狭かったっけ、など)。むしろ伯父ではなく、子どもの頃にかかっていた「町のお医者さん」の記憶が思い起こされ、懐かしい気持ちに包まれる。同じように雑然とした診察室で、大柄で怖そうな風貌だったのに優しい先生で、いつも(特に親を)安心させてくれる存在だった。小児科医はお世話になっても成長と共に離れていってしまうのが常なので、その後挨拶を交わしたこともなく、今の今まで思い出すこともなかった。
 今さら伯父に仕事や経歴についてあらたまった話を聞く機会もないこともあって、このたび初めて耳にする話も多く、貿易船の船医として半年ほどの間(1970年頃)中近東などをまわっていたという話は興味深いものであったし、専門性がますます高くなっていく中での開業医の役割・意義についての話は参考になった。医療の領域にかぎらないのだが、スペシャリストを活かす上でのジェネラリストの役割・意義の大きさをあらためて再認識することができた。
 身内の身びいきはあるとしても、本や専門誌などを通して幅広く勉強している痕跡は随所に見受けられるもので、「知れば知るほどおもしろくなるからな。医者を選んで正解だったわ。飽きることがない」という言葉を引き出せたのは収穫だった。私も同じ年齢になった頃に同じようなことを自分の選んだ職業に対して言えるかどうか。「医者は患者を断れんからな」と言うだけあって、準備ができれば開院時間の前でも後でも診療しているらしく、80歳を機に引退という話も聞いていたのだが、「わしが元気で(患者さんが)来てくれるうちはやるわ」とのことで、だがしかし、確実に失われつつある昭和の遺物の光景。

 ふと気づくと、自分も「伯父」という存在になっていて、小学5年生の姪(義弟の第三子)が女子空手の県代表(流派別の全国大会)に選ばれて上京し、我が家に一人で数日滞在することに。私の社会性のなさゆえに、一度、気まぐれに『藤子・F・不二雄大全集』や『うる星やつら』などのマンガを大量に送りつけたことがあったものの(大迷惑)、接点をもたないままここまできてしまっていて、今回で会うのが2回目。「伯父」のロール・モデルが極端なものしかないのでどうふるまっていいかわからず、小学生に気をつかわせてしまっているのがわかるので申し訳ない。
 かくして因果はめぐる。江戸東京博物館「大妖怪展」、「GeGeGe水木しげるの大妖界」、水族館、ムーミン・カフェ、スヌーピー・ミュージアム、ジブリ大博覧会、プール・・・と相手の体力も考えず、わずか2日半に「過剰に」スケジュールを詰め込んでしまったようで、相当の移動距離と深夜帰宅を強いてしまい、最後は文字通りフラフラに。
 こちらの関心に一方的につきあわせるのだが、2件だけ本人の希望を組み入れたのが、よみうりランド(遊園地)とE-girlsのミニライブ(お台場)。最近の子ども向けテーマパークは職業体験型アトラクションが特色になっているようで、よみうりランドの「グッジョバ」(Good Job Attraction)ワークショップはスポンサー企業に関連した「自動車・食品・ファッション・文具」の業種紹介になっていておもしろい。他の人と同じようにこなせる自信は私にはないものの、こんなワークショップが自分の子どもの頃にもあったらよかったな。








2015年7月27日

 突然、ミシシッピ川が見たくなって、思いきって来ちゃいました、ミズーリ州ハンニバル!

 なあんて、それなりに予定は早くから決まってたわけで、空港で原稿の大半を書かなければならない羽目に陥ってしまったのは万事私が悪いのですが、マーク・トウェインの国際学会に行ってきました(今回は日本からの報告者は6名)。

 作家マーク・トウェインが少年時代を過ごした地であり、『トム・ソーヤーの冒険』(1876)などの舞台で知られるハンニバルは、たいていのアメリカ人にとって「物語を通して知ってるけど一度も行ったことがない場所」。ハンニバルにあるマーク・トウェイン・ボーイフッド・ミュージアム主催によるこの学会は2011年にスタートし、4年に一度の周期で今回が2回目の開催。先行するニューヨーク州エルマイラでの国際学会も4年に一度の周期(前回は2013年)なので、2年に一回トウェインの国際学会が米国で開かれていることになります。私自身は前回のハンニバルでの学会参会に続き、3回目のハンニバル訪問になりました。

 思えばトウェインが『トム・ソーヤーの冒険』を発表した年齢に私もなってしまいました。発表当時ですら「懐かしさ」を伴っていたのは作家にとっても「懐かしい」少年時代の回想をもとに成立した物語であったわけで、少年時代に対するノスタルジアの機微をわかる年齢に私もなれているのだろうか? まあ今の年齢になっても「何者にもなれていない」浮遊感の只中にいるとは思いもしなかったけど。

 作家研究の学会の楽しみとして、「エクスカーション/フィールド・トリップ」と称するアトラクションがプログラムにふんだんに盛り込まれていて、「(インジャン・ジョーの)洞窟」(広くて暗くて寒くて怖い)、「蒸気船でのディナー・クルーズ」(雨があがってよかった!)、「マーク・トウェインの生誕地訪問(ハンニバルからさらに車で50分。超絶的な田舎。一切何もなく、今は人も住んでない地区)」、「少年時代の家ミュージアム」、「トウェイン役者によるスタンダップ・コメディ」「実在の黒人奴隷女性だった人物に扮した朗読パフォーマンス」など、学会発表も含めて朝9時から連日12時間以上。充実したプログラムを楽しむことができました。正直なところ、イベントの大半は前回とほぼまったく一緒なので一度参会すれば充分と言えば充分なのですが、ミュージアムの改装・発展も進んでおり、一人でふらりと立ち寄れる場所でもまったくないので、4年に一度の周期で再訪できるのはちょうど良いサイクルと言えるかも。

 唯一の孫娘(Nina Clemens Gabrilowitsch)が自殺してしまったことで直系の子孫が途絶えてしまっていたとされていたトウェイン(クレメンズ家)の家系でしたが、このたび新たにDNA鑑定により曾孫(ひまご)娘(great-granddaughter)であることが判明したというスーザン・ベイリー氏による講演もありました。本の宣伝(_ The Twain Shall Meet: The Mysterious Legacy of Samuel L. Clemens' Granddaughter, Nina Clemens Gabrilowitsch._)も兼ねてということでしたが、やたらに話がうまいのははたして血筋と言えるのかどうか?

 また、連日、代わる代わるトムとベッキーに扮した町の男の子女の子たちがもてなしてくれます。『トム・ソーヤーの冒険』中のエピソード「婚約」にまつわる寸劇(?)も。

 2011年に改装中だった「ベッキー・サッチャーの家」がリニューアル・オープン。ベッキーは少年時代のサミュエル・クレメンズ(マーク・トウェイン)が好きだった女の子で実在のローラ・ホーキンスという女性をモデルにした、アメリカで一番有名なキャラクターの女の子の一人。1908年にトウェインが73歳になる年齢でローラ・ホーキンスと仲良く写っている写真がベッキーの家に飾られていて「なんかいい感じ」でした。

 その他、「ジムの旅」(Jim’s Journey)と題されたちょっとした博物館が新たにできていて、そこではハンニバルにおけるアフリカ系の歴史的/文化的遺産がまとめられていました。

 セントルイス空港から車で2時間の距離を、免許もなく、それどころかキャンパス内ですら極度の方向音痴で何の役にも立たない私を無事、連れて行ってくださった皆様ありがとうございました(真夜中に学内で道に迷ってしまいすみませんでした。一歩目から真逆の方向に進もうとしていた時点でまったく頼りにならないことはわかっていたとは思いますが・・・)。おかげさまで楽しく過ごさせていただきました。

 私の発表の司会をしてくださった方は、本業は精神科医(!)なのですが、米国マーク・トウェイン学会での主要なメンバーであり、実証的なトウェイン研究者(自称Twain fanatic)。実は2013年のエルマイラでの発表後に「おまえの発表内容ならこの資料がおもしろいはずだ」とわざわざ郵送で資料を送っていただいたことも。そういえば2005年の発表時にもコメントしていただいたし、こんな感じで顔見知りが増えていくのも専門学会の醍醐味なのでしょう。

 マーク・トウェインの研究者は顔もトウェインに似てくるものなのかと感心していると、実はその人は研究者ではなく「マーク・トウェイン役者」だったりするというのは実はよくあることで、しかしながら、「ああこの人はトウェイン役者なのかな」と思ってたりするとやっぱり研究者だったりして油断はできません。

 ちなみに私自身の発表はトウェインの『放浪者外遊記』(_The Tramp Abroad_, 1880)、『ハックルベリー・フィンの冒険』(1885)とチャップリンの放浪者連作を比較考察しながら、後のホーボー文化史の先駆的存在として位置づけようとする試みで、まだまだこれからという段階ですが、いろいろと示唆をいただくことができて有意義な機会になりました。

 次回の開催は2019年の予定。どなたでも参加できます。ハンニバルでまたお会いしましょう!





P7260716.jpg

P7250654.jpg

P7250638.jpg

P7230572.jpg

P7250643.jpg


2015年6月18日

 というわけで中学時代の同級生の「ある人」と母校の公立中学校を訪問してきました。嬉しい偶然で当時教わっていた先生が現在、校長先生として在職されていらしたので学校訪問のお願いをさせていただきました。担任の先生というわけでもなかったにもかかわらず、わがままなお願いをお認めいただいたばかりか、校長室で給食までご一緒させていただき、感謝にたえません。
 
 僕らの頃は先割れスプーンで給食を食べていたので箸は使っていなかったのですが、最近は様々な要望を反映して給食を通して箸の使い方を学ぶ方針になっているそうです。
 
 僕は子どもの頃に箸の使い方に対して、「指が5本あるのに小指を使わないのはおかしい」と考え、小指までを使う持ち方を今でもしているのですが、気がつくと結局、人差し指を使っていないという・・・。所詮、子どもの浅知恵でした。でもこの持ち方で特にこれまで不自由を感じたことはまったくなく、むしろ話題が広がってよいと思うぐらいなのですが、どうなんでしょうね? 三角パックだった牛乳が四角のパックになっているなどの細かい変化を除いて懐かしい同じ味を楽しむことができました。

 驚いたのは、同じ男子テニス部だった同級生が現在、体育教師/一年生担任教師として母校に在職していてその様子を見させてもらったこと。ちょっとだけ話をさせてもらうことができましたが、いい先生になってるなあ。校長先生によるサプライズでもあったようで事前に教えてもらっていなかったので本当にびっくり。僕はラケットで野球ばかりやっていて「おまえらもっとまじめにやれよ」と彼にはよく怒られていたものです。

 校舎は耐震工事などでリフォームされ、色も塗り替えられているものの、建物自体は昔のままで、ありがたいことに校長先生と思い出話を交わしながらゆっくりと構内を案内していただきました。ちょうど僕らが中学校に入った時に先生もこの学校に移ってこられたらしく、先生にとっても思い入れの強い学年であったようで、昔の教室配置をよく覚えていらして様々に記憶がよみがえってきました。思えば先生方も20代、30代が中心であったはずで、当時はすごく大人に見えたものです。
 
 授業風景の様子なども見学させていただき、現在の中学生の様子を見させていただいたのは貴重な体験になりました。皆、フレンドリーに挨拶してくれて、中学生ってこんな感じだったかな? 昔は見るからに怖い感じの凄みのある生徒が昇降口付近にたむろしていたものですが、すっかり姿を消してしまいましたね。昔よりも今の中学生は男女の距離も近そうだし、表面だけではもちろんわからないけど、「スクールカースト」に代表される独特の緊張感ともかなり違う感じ。

 「ある人」と僕はある学期中、席が隣同士だったのですが、座席配置は学校によるみたいですね。独立型の配置もあるようですが、この学校では今でも男女で席をくっつける形で配置されていて、名簿も男女混合ではなく、男女別になっているとのこと。古い時代の建物が原型なので物理的に座席をくっつけておかないと通路を確保できない事情もあるようです。

 そういえば僕は中学時代、学校では一日中、ジャージで過ごしていたのですが、後から考えて変だったかなと思ったこともあったのですが、体育の授業でもないのにジャージ姿の生徒がちらほら。この学校の伝統かな。いろいろとゆるい感じでよかったです。
昼休みを返上して1年生が合唱の練習をしている様子も見学させてもらいましたが、上級生が指導していたり、先生方も集まって助言していたり、入学して間もないはずなのにその水準の高さに感銘を受けました。とてもよい雰囲気で学校が運営されていて、こちらも幸せな気分になりました。

 同窓会も一度も行っていないし、教育実習も母校をわざわざ避けて縁のない新宿区の中学校で実施したり、と失礼ばかりを重ねてきていたにもかかわらず、これ以上なく暖かく迎え入れてくださり、ありがたいかぎりです。

 帰りはゆっくり学校のまわりを「ある人」と一緒に歩いてみました。当時なぜ一緒に帰れなかったかというと、帰る方向が真反対だったことも大きいですが、学校の周りが畑で囲まれていて遠くまで見渡せるようになっていて、男女で一緒に帰ってる人なんて当時、誰もいなかったと思うけど(気づいてなかっただけか?)。お互いの記憶を探りながら歩いてみると味気ないはずの郊外の住宅地の光景も違って見えるから不思議なものです。

 学校訪問は「現代文化における思春期の表象」にまつわる取材が目的の一つでもあったので、成果を出せるように頑張らないといけないですね。




kyuushoku2.jpg

2015年6月17日

 チャップリンの名作『街の灯』(1931)の有名なラストシーンは、チャップリンのリアリズム描写を代表する名場面の一つ。自分の恩人は大金持ちの紳士であると信じて疑わなかったヒロインの目が見えるようになり、その恩人は実はチャップリン扮する貧しい放浪者(ホームレス)であったことを知ってしまった瞬間のヒロインの複雑な胸中がサイレント映画におけるパントマイムの手法で見事に描かれています。その一方、自分の素性を知られてしまう不安や恐怖よりも、目が見えるようになったヒロインと再会できることが嬉しくて仕方がない放浪者と、ヒロインの戸惑いとの対照が際立っています。

 突然、「ある人」に逢いたいと思うようになり、それまでずっと意図的に避けてきたSNSを、ブームは数年前に去ってしまっているにもかかわらず、本当に今さら遅ればせながら始めました(長文で個人的な感慨ばかりで使い方は完全に間違ってるんですが)。

 その「ある人」とは中学1年の二学期に転校してきて、郊外の拡張期だったこともあり、人口急増のあおりを受けて中学3年の時に学区再編で学校が3校に分裂し、離れ離れになってしまった人。

 自分のわがままな思いつきで背後では様々な人たちに配慮をしてもらったにちがいないですが、おかげさまで27年ぶりに再会できました。その学区再編があまりにショックだったのか自分の中で中学時代は完全になかったものとして封印してきたところがあったのですが、かつての自分が屈託なくふるまっていた姿で誰かの記憶の中にずっと留まっていてくれたことを知ることができ、本当にありがたいことです。

 かつての中学生男子は当時から自分のことだけで精一杯で、自分から逢いたいと思ったはずの相手の誕生日や姉妹構成すらまともに覚えておらず、当時もらったものもどこかにやってしまって出てこないというありさまで(かろうじて覚えていたのは同じB型ということぐらい)、一方、突然、数十年ぶりに気まぐれに呼び出されたかつての中学生女子は当時の日記や女子同士の交換日記などをもとに(さすがに見せてはもらえなかったけど)当時、話していた内容などを「想い出を美化する余地もないほど」克明に再現してくれていて(最初に交わした言葉は「なんでこんな何もないところに引っ越してきたの?」だったそうで)、ありがたいやら申し訳ないやら。結局、過去の自分とも対面するような不思議な体験になりました。

 子どもの頃から人一倍多くの物語に触れ、早熟なぐらいのつもりでいたのかもしれないと思うと呆れるばかりですが、実際には自分の感情もどうしていいかわからずにもてあましていたぐらい誰よりも子どもだったんだなということがつくづくわかりました。

 その頃、声変りしてたかどうかすらわからないぐらいの昔のことで、どんな口調で自分が喋っていたのかどうかも覚えてないのですが、にもかかわらず30年近い時間の隔たりを感じることなく、不思議なほどつい昨日の続きのような感じで話をさせてもらうことができたことに感謝あるのみです。

 覚えていたこと、思い出したこと、思い出せないこと、新たに真相を知って驚いたこと・・・すべてが新鮮な時間で、あっという間の一日でした。

 「変わってなくてよかった」と言ってもらえて、何が変わっていない要素なのか自分ではわからないし、14歳の時と現在の年齢とを考えると「変わっていない」ことがいいことなのかどうかわからないけど、まあよかったのかな。

 名作『街の灯』になぞらえるなんておこがましいにもほどがありますが、27年分年齢を重ねた自分の姿が相手にどう見えるかなんてことよりも大事なことってあるんだなと実感しました。

「じゃあまたね」
「うん、またね」

 「またね」っていい響きだなあ。






上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。