借りてきた猫のように

――フィクションの中で生きる~映画・小説・音楽・マンガなどの日常――

2015年05月の記事

2015年5月27日

 東野圭吾作家デビュー30周年記念作品『ラプラスの魔女』(角川書店)読了。
書き下ろしによる新刊なので現時点で詳細に触れるのは避けますが、「これまでの私の小説をぶっ壊してみたかった」という帯の惹句にあるように、これまでの作風とまったく異なるテイストとリズム感に最初は戸惑いつつ、物語の中に入り込むのに最初は苦労しました。30周年記念であればファンサービスに徹してこれまでの集大成を打ち出すほうがウケはいいはずですが、あえて新しいことに挑戦するところが長年にわたって第一線でいられる秘訣なのでしょう。レビューでも賛否両論(むしろ否が多い)になっているように、手法としては未消化である面もあると思うのですが、ベテランであっても新しい領域に挑戦する姿勢は今後の展開に必ず活かされるはず。
 私はデビュー作からたまたま手にとって愛読している作家で、夏休みを毎年両親の郷里の広島で過ごしていた30年前に、その年の江戸川乱歩賞作品を2冊(同時受賞の森雅裕『モーツァルトは子守唄を歌わない』)併せて読んだ記憶があります(9月の奥付ですが8月中に出てたと思うけど)。お盆の時期は従兄弟も来てくれてにぎやかなのですが、彼らが帰ってしまうと毎日遊び相手もなく大人の中で一人過ごさなければならず、その代り、本だけは買ってもらえたのでそのうちの一冊でした。はっきりいってデビュー作『放課後』(1985)の犯行に至る動機を小学生男子が理解できるわけもなく、なんだかよくわからなかったにちがいないのですが、以後、ほぼ欠かさず買って読むことをこちらも30年続けてきたんだなあと思うと勝手に感慨深いものがあります(思うように評価されていない時期も長かったので)。
 個人的に一番好きな作品は『同級生』(1992)で高校を舞台にした学園もの。野球部の主人公の高校生男子が同じ野球部のマネージャーをしていた同級生の女の子の事故死をめぐり、教師の事故への関与を暴き出していくというミステリ仕立てで物語は展開していきます。
 しかし、犯罪をめぐるミステリには実は重きがなくて、また別の同級生女子をめぐる緊張感のある人間関係が露わになるところにこそむしろミステリとしての醍醐味があります。意外にレビューなどでは賛否両論になっているので私からすれば意外な感じなのですが、批判の論拠とされている主人公の独善的な正義感やひとりよがりなところこそが十代男子のまっすぐな面と共存する「あやうさ」を的確に反映していてむしろ似つかわしいと思うのですけどね。傷つけたり、傷ついたり、やけに繊細だったり、意外に鈍感だったり、という多感で迂闊でアンバランスな十代男子の様子が巧く表現されています。
 様々な体験を経て「同級生」としてお互いを受け入れるに至る緊張感のあるやりとりがとても繊細に描かれていて、折に触れて何度も読み返している作品です。




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2015年5月25日

 辻村深月『オーダーメイド殺人クラブ』(2011)の文庫版がようやく刊行!
主人公の女の子は、中学二年でバスケ部に属し、いわゆる「リア充」女子グループの中で人間関係の微妙な変化に日々戸惑いながら、他の人とは違う「特別な何か」を求めている。隣の席に座りながらも教室では会話を交わすことがない「昆虫系」男子(といっても美術のセンスにあふれてる)が描く絵の独特の世界観に魅了され、二人の間だけでいつから「私を殺してもらう」ための計画が秘かに進んでいく……。
 教室の中での微妙な人間関係の機微や、親とのちょっとした行き違いにより絶望を感じてしまったり、デリカシーのない教師に対する鋭い眼差しなど、さすがにこの領域を得意とする作家だけあって絶妙に巧い。おそらくタイトルで損をしてしまっているところがあると思うのだが、「殺人クラブ」の顛末も中二という年齢を思えばむしろ似つかわしいと言える。ミステリ仕立てを連想させる体裁であるが、解説の大槻ケンヂ氏が見事に喝破しているように、「ザックリと言ってしまえば、中二病同士の初恋はかくもまわりくどい、という物語である」。さすが! 
 物語の展開中、恋愛の要素がまったく出てこないにもかかわらず、結局は「初恋の話」であったというのが実はこの物語の最大のエッセンス。「現代文化における思春期の表象」でもかなり時間をかけて紹介しているのだけど、ようやく文庫になってくれたので受講生に薦めやすくなった。本当にありがたい。

 読み返す毎に新たな発見も多く、これから読まれる方の興をそがないように本質的でないところに目を向けてみても、たとえば、中学生女子から見る女性教師評もぞっとするほど鋭くてはっとさせられる。

 「学校の中での先生の存在は、生徒にとったら芸能人みたいな娯楽の対象で、女子は若い先生をどれだけ好いても、一方で嫌う。どう振る舞っても悪く言われるのだから、回避する方法は一つしかない。最初から、教師になんかならないことだ」(文庫版30頁)

 いやー、中学の先生は大変だなあ、本当に。女子生徒からは女性教師の方が厳しく見られがちなんだろうけど、私は小学校6年の卒業アルバムで「将来は中学校の教師になりたい」などと書いていることを最近、思い出す機会があって(といっても私は想像力に乏しくて教員以外の進路を考えたことがないのだが)、私のコミュニケーション・スキルではとてもじゃないけど「なれるわけがない」。
 ベビーブーム世代ということもあって私の世代はかなり雑な扱いを受けてきたように思うが、今から思えば教師も大変だったと思う。生徒は力づくであったり、理論的にやりこめようとしたり、揚げ足をとろうとしたり、茶化したり、とにかくありとあらゆる様々な角度から教師を挑発し、からかったり、反抗したり、批評したりするわけで、時には本気で口論しなければならず、ヘタな対応をすれば信頼は一瞬で完全に失墜するという危険と隣り合わせで本当に大変だったろうなあ。『金八先生』的な形でなくとも、日常で生徒と本気で向き合わなければ成立しない局面が多い。女の先生でも運動部の男子学生と授業中に口論になってベランダに出てやりあっているのを「おいおい勘弁してくれよ」と思いながら皆がうつむいたまま黙ってその行方を見守るようなことが何度かあって、そんなふるまいが自分にできるとはとても思えない。さすがに時代が変わってるのでそこまでのやりとりはないだろうとしても、いやー、大変な仕事だなあ。

 1990年代後半ぐらいから顕著に現れている学園ものの傾向として教師や授業風景が描かれなくなってきている中、生徒にとって無力で揶揄の対象ではあったとしても、教師や授業風景が描き込まれているのもこの作品のよい面だと思う。影響力がないなりにまったく存在が消去されてしまうのもさすがに最近、不自然すぎると思うようになってきた。教師の存在、もう少し言えば、相性も含めた教師の当たり外れは中学生にとってはやはり大きいはず。
 「中2」を描いた物語としては私の中ではベストの作品。



2015年5月22日

 「現代文化における思春期の表象(アメリカ文化論編/現代日本文化論編)」は、必修のクラスではもちろんなく、「とらなくていい」授業。そんなクラスを受講してくれるのは、楽に単位がとれるからと思われているのはもちろんあるだろうけれども、幸いなことに講座の内容に何らかの興味をもってきてくれている受講生たちに恵まれて、これまでも物語の作中のことばやちょっとしたふるまいに対して敏感に反応してくれる例は少なからずあった。その代表例が『ブレックファスト・クラブ』(1985)の中でももっとも有名な台詞「大人になると心が死ぬの」。学生の中には現役のティーンネイジャーもいるわけで、当然、高校生の主人公たちに感情移入し、自分は「心が死なない」大人になろうという秘めた決意をそれぞれのことばで綴ってくれていた。
 だがそれはもちろんとても難しいことであって、ある人のことばでいう「呑気な職業」(経済効率だけでは動いていない業界として)である大学の領域であったとしても、ある程度心を殺さないことには、妥協とバーター(誰かに何かを頼もうとすると必ず何かを頼まれる)の連続で、理想主義とはほど遠い会議にすらまともに出ていられないだろう。
 ただまあ私自身にしても、ここ数年、必要以上に「心が死んで」いたかもしれず、こういう講座をルーティーンと手癖でまわしていても本当に何の意味もないので、開講して7年目になる今期は素材の選び方も含めて見直すいい機会にできればと思う。たぶん今期は私の話し方に微妙な変化が出ているのだろうと思うが、例年と比べてはるかに作品のことばに注目したコメントが増えてきていて、それだけ作品世界に入り込んでくれているのだろう。なおかつ学生それぞれが響くポイントとなる箇所が異なるのもおもしろい。今週扱った『セブンティーン・アゲイン』(2009)では、男・女、大人と高校生、過去と現在、それぞれの立場を様々に交錯させながら受講生と意見交換ができたのは有意義だった。自分の年齢の半分ぐらいの若い人たちと常に意見を交わすことができる環境にあるのは考えてみればとても恵まれている(大学はもっと多様な年齢層で構成されるべきだとは思うけれども)。
 私の勤務先の定年年齢(専任教員とその後の非常勤講師としての採用年限)を考えると元気であれば文字通り「あと30年」無理をすれば続けられないことはないのだが、「あと30年」もの間、「思春期の表象」を続けているというのも何だかやっぱり変なので(「男女の心と身体を入れ替えるとはどういうことか」というありもしないことを真剣に話しているだけでも今でも充分「変」なのだけど)、そろそろ「刹那」を意識してまとめに入る時期になってきたかも。そんなわけで近いうちに本にまとめられるといいな。 
 素材としては、今のところ中学生頃の年代を扱った作品が圧倒的に弱いので、中学生の物語の幅を広げていきたい。心や身体や関係性の変化が大きな時期で、一年毎の変化も凄く大きいし、公立の中学校なんてそれこそカオスでダイナミズムに満ちているのに少なくとも私はこれまでうまく扱い切れていなかった領域。「中二病」や「スクールカースト」だけでは掬い取れない要素も結構あるはず。ただ、1997年の神戸での事件以後、「14歳問題」が沸き起こったわけでそれに対する現在の応答も必要とされるだろうからやっぱり難しいな。


2015年5月19日

 マンガ『思春期ビターチェンジ』(2012- )の最新刊第4巻刊行! 男の子と女の子と心と身体が入れ替わるというポピュラーカルチャーの中で何度もくりかえされてきた設定ですが、これまでも指摘されてきているように、小学4年生から高校生まで入れ替わったまま過ごしている展開がおもしろい。映画『転校生』(1982)の原作となった山中恒による小説『おれがあいつであいつがおれで』(80)ももともと性的に未分化な小学6年生による物語でした。
 私が担当している「現代文化における思春期の表象(現代日本文化論)」のクラスはいつも大林宣彦監督『転校生』およびそのセルフリメイク『転校生さよならあなた』(07)からはじめているのですが、やはりどうしても男の子の物語になってしまっているために、「男の子に変わった女の子」の側の描写にものたりなさを感じてしまうのも事実。もし女性の表現者であれば、「死にたい」という気持ちだけではなく、別の要素も描き込めたのではと思ってきました。
 『思春期ビターチェンジ』の作者・将良氏は女性であり、定番中の定番の物語設定でありながら、細部の表現や逸話はなるほど女性の視点ならではと新鮮味を感じさせるものです。もともとウェブコミックからの転載によるデビューであった経緯からも、これがベテランの作家であれば自分のペースでじっくりゆっくりと描き込むところをわずか3巻で高校まで進んでしまうところはいかにももったいない。それでもこの「ありふれた」といってもいい物語設定に新味を加えられたのは収穫でしょう。しかし、「十代の男子になる」のはやっぱり楽しい経験にはなりえないんですかね。この物語でも「女の子に変わった男の子」の方が柔軟に対応しているのに比して、「男の子に変わった女の子」の方が何年経っても状況を持て余しているようです。
 大林版『転校生』(82)はあれほどの体験を共有したにもかかわらず、転校による別れがラストシーンとなっており、おそらくその後の交流は続かないであろうという男の子の成長物語として幕を閉じます。別れがあって、新たな出会いがあって、をくりかえす学生時代ならではなのですが、年齢を重ねてからみるとこの別れの場面はよりリアルに映るものです。
 小学校から中学校、中学校から高校と、人間関係や価値観が大きく変わる転換を超えて描こうとしている『思春期ビターチェンジ』ですが、丁寧に描き紡いでいってほしい作品です。第4巻では身体が異性に入れ替わっていながら、そこに異性に対する意識の芽生えが出てきて新たな展開の幕開けになっています。入れ替わりの秘密を共有してきた彼らの関係性にも変化が見られ、今後より一層おもしろくなりそう。



2015年5月17日

 書籍版『ラストデイズ忌野清志郎――太田光と巡るCOVERSの日々』(PARCO出版)では太田光と制作スタッフによる「取材を終えて」が各章毎に付されており、「太田光と巡る」ドキュメンタリー作品の制作過程が、やがて「忌野清志郎の足跡を辿る」旅に変換されることにより、結局、このプロジェクトが太田光にとってどのような変容をもたらしうるものであるかが新たな読みどころとなっている。
 『COVERS』の時期は清志郎にとって養父母の死別、実母の遺品との対面、第一子の誕生など、家族をめぐる状況が大きく変化した時期であり、「表現の有効性/表現の覚悟」を表のテーマとすると、「家族の問題(家族との対峙)」は裏のテーマとして大きな意味を持つ。太田光による最終章において、清志郎の実母に関する戦争体験を反芻する過程を経て、太田自身の亡くなった父親の戦争体験の話題から、自身の父との関係に触れていくところが書籍版の白眉となっているように思う。

「光くんは――俺のこと、光くんって言うんだけど――光くんはさ、俺のこと恨んでるだろう、って一回言われたことがあるんだよね、病院で。
え、なんで?って。
いやあ、何もしてやれなかったからさ、おまえには。
いや、そんなことないよ。
そうか。おまえは俺のこと嫌いなのかと思ってた」(239頁)

 思春期以降、対話がなくなってしまった父と息子による、父親が病床にある中での対話の一コマであり、「忌野清志郎の足跡を辿る旅」の帰結として太田光自身による家族をめぐる個人的な逸話を引き出せたのがこのドキュメンタリー作品の最大の収穫の一つだと思う。

 私自身も父親とはいつからかほとんどまともに話をしたことがなく、かといって特に反抗期があったわけでもなく、なんとなくお互いを避けるようになって今に至り、ここ数年父親には会ってない。結婚したことも事後報告というか、友人に証人になってもらって勝手に婚姻届を出したので、よく考えたら未だに直接、「報告」はしてないな。5年前に父親が癌の摘出手術をした後に、これが最後と思ったのか、入院中の病院に配偶者をはじめて連れて行って、でも特に感動的な対面という形にもならず、そういえば点滴をしながら一階の出口まで見送りに来てくれたっけ。そういう不器用なところがずっと嫌ではあったのだが、その時だけは好ましく思えたような気もする。
 そんな個人的な背景もあり、太田光による亡き父にまつわる回想はとても胸に響くものだった。どこかで父親とも対峙しないといけないということか、と。
 がしかし、じゃあ父親が健在のうちに近いうちに会いに行こうと思えるかというとそれはまた別の話というか、業は深いものですね。恨んだり、嫌ったりしているわけではもちろんないんだけどそのように思われているかもしれず、なんとなくこういう関係性にしかなれなかったというか。父と息子の関係なんてどこもこんな感じかもしれないけど。

 そんな個人的な感慨はともかくも、ドキュメンタリーの帰結として思いもしていなかった方向で着地したのがとても新鮮だった。ドキュメンタリー作品としての「意外な」収穫の一つ。



2015年5月16日

 NHK「ラストデイズ」取材班による書籍『ラストデイズ忌野清志郎――太田光と巡るCOVERSの日々』(PARCO出版)、まさかの傑作ドキュメンタリー作品に変貌していてびっくり。昨年5月2日に放映された同名のTV放送(60分)を書籍化したもので、てっきりDVD化されたものと思ってとりあえず注文していたつもりが届いたら「あれ?本なの?」というぐらい把握していないものだったのですが、TV放送をもとにしているにもかかわらず、放映時の写真などもなく、爆笑問題の太田光をインタビュアーに据え、関係者の証言をそのまま収録し、じっくり読ませる構成に。
 私は今でも唯一聴いているラジオ番組が「爆笑問題カーボーイ」なので(田中裕二の明るいお喋りが好き)太田光が案内人となることにそれほどの違和感はなかったのですが、対象となる忌野清志郎と2回だけしか会ったことがないという微妙な距離感もうまく作用している。
 本放送も視聴したものの、ハイライトとなる盟友・仲井戸麗市と太田光の(初対面となる)対談も含めて60分の放送時間では消化不良の感が残ったのですが、まさかこうして書籍の形で帰結するとは。仲井戸麗市との対談は50頁近くにおよび、丁寧に慎重に言葉を選びながら訥々と話をするというもので、これは一部だけを編集して採用することも難しく、なるほど結果的に書籍の形としてまとめられたことも納得できるものでした。
 忌野清志郎の活動の大きな転換点となったRCサクセション『COVERS』(1988)前後の活動を辿っていく構成で、泉谷しげるや当時のレコード会社の宣伝担当者など蜜月とその後の訣別を経験することになる関係者の人選も絶妙で、でも人と人とが深く交わるということは(しかも表現の現場で)いろいろ起こりうるのも当たり前だし、そしていろいろあってもその時の思い出をそれぞれがとても大事にしていることがインタビューから深く伝わってきます。
 インタビュアーとしての太田光は、所属レコード会社から発売ができなくなり、話題となった『COVERS』における表現の有効性をめぐり、考えをめぐらせていく。『COVERS』における直接的な表現ははたしてどこまで有効であったのか、と。
ファンはいつでも身勝手なもので、今となれば様々な背景資料から、RCサクセションが当時、彼らの原点となる洋楽を「替え歌」を通して共に楽しく演奏することで原点回帰をはたそうとしていた必要な過程であったことがわかります。しかし、私にとっても、ソロアルバム『RAZOR SHARP』(1987)、RCのアルバム『MARVY』(1988)と続く好調な流れの中で、RC/忌野清志郎の真骨頂はオリジナルの作品世界にこそあると信じていたこともあり、なぜカヴァー・アルバムが必要であったのかは当時の私にはうまくつかめないものでした。
 太田光にとって『COVERS』における直接的な表現は「不器用」なものであったという位置づけは最後まで変わらないながらも、インタビューを軸にした探求を通じて、表現者としての姿勢に感化されていく過程が立ち現れてくるところに、この作品のドキュメンタリー作品としての醍醐味があると思います。
 「表現を研ぎ澄ませて行くんだったら、敏感なままで」いるべきであって、たとえそれが「苦しい」ものであったとしても。

2015年5月14日



社会人向けの映画文化論講座がいよいよ5月よりスタート。今学期は「『女性』映画の現在」をテーマとして、5つの言語圏文化から現代を代表する女性監督作品を軸に女性の表現者を取り巻く状況について展望していこうというものです。サウジアラビアで初めての女性監督ハイファ・アル=マンスール(1974- )『少女は自転車に乗って』(2012)、フランスのミア・ハンセン=ラヴ(1981- )『あの夏の子供たち』(2009)、あるいは、ドキュメンタリー映画制作を通して政治や女性をめぐる問題について表現活動を展開してきた韓国の女性監督ビョン・ヨンジュ(1966- )による青春物語『僕らのバレエ教室』(2012)、映画監督・演出家としてのみならず、小説・脚本においても高い評価を得ている西川美和(1974- )の作品などを予定しています。
 もともとは専門であるアメリカ映画文化論を軸に講座を展開してきたのですが、現在は次の段階として、テーマ毎に国籍や時代を横断して映画を楽しむことを目指しています。おかげさまで私が一番勉強になってます。解説の途中でも鋭い質問が怖いぐらい出てきます。
 初回でとりあげた、サウジアラビアの『少女は自転車に乗って』(2012)は10歳の女の子の話。「女の子は自転車なんか乗っちゃダメ」と親に拒まれながらも、自分の自転車を持つために自分でお金をやりくりしたり、賞金目当てにコンテストに応募したりと頑張る主人公の女の子の奮闘ぶりが可愛らしく描かれています。さらに映画評論家の町山智浩氏も指摘するように、背後には未だ男尊女卑の価値観が色濃く残るサウジアラビアにおける女性の生活環境の現実が透けて見えるところにぞっとするほどの深みがあります。
 ところで受講生の方に、「40代の女性がいきいきと活躍している映画ってないですかね?」と尋ねられたのですが、たしかに今回とりあげる女性監督による作品も主役は子どもたちばかり。この文脈で「破滅の美学」としての『テルマ&ルイーズ』(1991)を薦めても仕方ないし、ぱっと思いついたのは、荻上直子監督の『かもめ食堂』(2006)、『めがね』(2007)あたりはどうですかね?「いきいきと活躍」とはぜんぜん違うのですが、こんな物語も成立しうるということで。『対岸の彼女』(2006)は35歳設定か。確かにあんまり思い浮かばない。仕事や恋愛、結婚、育児の側面「だけではない」40代のあり方もおもしろいものになりうると思うのですが、まあ同世代は皆、「超絶」忙しいみたいだし、現実にはそんな余裕もないのか。

2015年5月12日

「13歳になるまでに見ておきたい映画」というセレクションは結構あるようで、でもよく考えると意外に難しい。自分を顧みると、薬師丸ひろ子のことで頭が一杯だった小学生時代に角川映画(とキティフィルム)で相米慎二、大林宣彦、森田芳光、澤井信一郎(荒井晴彦脚本)といった監督作品に触れることができたのはよかったといえばよかったが、じゃあ今、13歳までに薦められる作品がそこにあるかと言われれば「ない」と断言できる。押井守『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』(1984)もサブカルチャーに通じたいなら今でも見ておくべきだけど、うーん。
 その一方でNHK教育テレビを通して、チャップリン作品に触れたことは本当にありがたく財産になった。子どもでも楽しむことができて、大人になってさらに奥深さがわかるというのはチャップリンならでは。『バック・トゥ・ザ・フューチャー』(1985)はアメリカ文化論の導入でずっと使ってきているが、正直、女の子がどのように感情移入できるのかどうか未だによくわからない。
リストの定番の作品はというと、『スタンド・バイ・ミー』(1986)なんだけど、ある企画で映画のコラム担当を分担する際に、「『スタンド・バイ・ミー』だったら(『トム・ソーヤーの冒険』のトウェイン研究者である)中垣がぜひやるべきだ」と気をつかってもらって割りふってもらったものの、実は私はこの種の男の子の「仲良し4人組」のような話が本当に苦手で、世界名作劇場のアニメでも『トム・ソーヤー』(1980)よりはその前年に放映されていた『赤毛のアン』(1979)の方がはるかに感情移入できた。そもそもトム・ソーヤーと友だちになれる気がまったくしない(私のトウェインへの関心はまた別の要素)。教室の隅でプロレスの技のかけあいをしている男子たちよりも、放課後に女子と『生徒諸君!』(1977-85)の話をしている方がはるかに楽しかったし。
ここのところすっかり懐古モードで小学校時代の遠足や修学旅行などのスナップ写真を眺めていたら、おそらく写真を撮る直前まで話をしていたはずの人たちといつも並んで写っていて、その時の交友関係が直接反映されているのがおもしろい。小6の時にある男子と仲が良かったことを数十年ぶりに思い出して、そういえば、月曜日の朝礼で体育館に集められている際に週末の『ベストヒットUSA』の感想を言い合ったり、「村上龍はなぜあんなにひどい映画を撮って平然としていられるのか?」を議論したり、「ものすごい映画が手に入ったから今日学校終わったらうちに観に来いよ」と言われ遊びに行ったりしていたはず(今思えば、『死霊のはらわた』1981)。衝撃を受けたのは、写真を見るまでそれほどまでに仲がよかったことをまったく思い出すことがなかったこと。また、今も同じなんだけど、4人以上で話をするのが極端に苦手で、仲が良かった友人はクラスの中に複数いても、関係性の基本が常に一対一であることに気づかされた(ひとりっ子だから?)。
男子の友情ものが苦手な人も実は結構いるんじゃないかなあ。

2015年5月10日



3月まで親の家に1年間、社会人1年目の親戚の娘が住んでいたのですが、その家を引越準備するにあたり片づけに来てもらっていた時の一コマ。
 詳細はぼかしますが、彼女には小中学校時代から近所に住む彼氏がいて、大学以降は東京と地方の間で遠距離となり、さらにその後、彼女が東京で社会人となっていた間、相手は理系の大学院に進んでいたようです。
 5年も遠距離でよく続いているなあと微笑ましく思っていたのですが、一緒に片づけをしながらそれとなく近況を尋ねてみると、
 「(一人前になるまで)あと5年も10年も待てんけん、3月で別れたわ」とのことで、まあしょうがないのでしょうけど、相手がトラウマになってないといいなあ。本当に。
おまえ、そんな大事なことメール一本で伝えるなよ。
ティーン・フィルムのジャンルを確立したジョン・ヒューズによる監督作『結婚の条件』(1988)は、結婚を契機に「大人 になるとはどういうことか」という男性の不安に焦点を当てた作品。主人公のジェイクは、式を直前にして作家になりたいが家庭も持ちたいと悩んでいましたが、大学院の修士課程に進むはずだったのに義父から収入が少ないことを責められ、進学を断念して就職することに。家庭や人生に対する理想と現実のギャップに戸惑いながら試行錯誤していきます。She's Having a Babyという原題が示すように、結局は、赤ちゃんが生まれることで「家族」になり、父親として成長していくという物語。ジョン・ヒューズはこの後、『ホーム・アローン』(1990)に向かい、ティーン・フィルムとも訣別するわけですが、十代の頃に観た時にはさすがにぴんとこなかったものの年齢を重ねてから観る方が響くかも。
 また、往年の名作『素晴らしき哉、人生』(1946)の現代版『天使のくれた時間』(2000)は逆に、仕事と結婚の選択に迫られた際に、「仕事」を選択し、大手金融会社社長として成功している男性主人公の物語。「もしあの時別の選択をしていたら」というありがちなモチーフですが、「もし結婚を選択していたらどうだったか」という(男性向け)パラレル・ワールド・ファンタジー。原題はThe Family Manとあり、アメリカ文化の家族愛イデオロギーを表した典型的作品です。
まあ、結婚はある意味、運命であったり、偶然であったりするわけなんでしょうけど、いずれにしても日本の院生はなんか気の毒だなあ。

2015年5月7日



オジロマコトによるマンガ『富士山さんは思春期』(2013- )の最新刊6巻刊行!背の高いバレー部の女の子・富士山さんと背の低い男の子による14歳中学生の恋愛物語で、これまでにも作者インタビューなどを通して注目ポイントが確認されているように、女の子側の内面描写がなく、読者も男の子と同じ目線で恋愛の一喜一憂を共有できる仕掛けが巧い。家族とだけしか通話できない「お守りケータイ」しか持っていないという設定もいいですね。高校生の物語になるとさすがにSNSは欠かせないでしょうが、「簡単に連絡をとりあえない」「両想いなのに恥ずかしくてつきあってることを誰にも言ってない」という微妙な関係も中学生ならでは。『漫画アクション』が連載媒体であることからも男性向けファンタジーではあるのですが、女性漫画家ならではの繊細な描写が秀逸です。
 しかし今だと「中学生がつきあう」ってどんな感じなんでしょうね。一緒に帰るっていっても家の方面がぜんぜん違うことの方が多いし、部活をやってたら現実的には単独行動なんてほぼ不可能だと思う。この物語の主人公たちは幼稚園も同じだったという設定で、だんだん学年があがるごとに疎遠になってしまっていた時期もあったらしい。
 そういえばここ数日、親の家の引越準備をしていたこともあり、ふと自分の幼稚園時代のアルバムを手に取ってみる機会がありました。さすがに幼稚園の頃の写真を見ることなんてふだんはないし、その頃を思い出すこともまずないのですが、いつも同じ同級生たちと写っていて、親同士のつきあいによるものであったのでしょう。4・5人の親のグループは皆、第一子だったからということもあったのか、その後今現在に至るまで親同士のつきあいはなんとなく続いており、一方、本人たちは小中学校でクラスが異なったり、ましてや性別が違ったりすると交流はなくなるものですが、親を介して常に近況を知ることが続き、「お互いはよく知らないのになぜか近況はよく知っている/近況はよく知っているのにやはりまったく知らない」という不思議な存在になってます。4・5人のその幼稚園の同級生は私だけ男だったので(同性であっても気が合うとはもちろん限りませんが)、まったく覚えてないですが、小学校低学年ぐらいまでは学校から帰ってよく遊んでいたらしい。中学ぐらいでもクラスは違っても廊下ですれ違ったら「こいつか」という一瞥は互いに交わすのですが、特に話すことがあるわけでもなく変な感じでした。幼稚園時代の写真などなかなか見返すこともないでしょうが、お遊戯会で肩を組んで踊ったりしている写真を見て、今はまったく交流がないのにその後何十年も互いの近況は逐一報告が届くというのも本当に不思議なものです。 
 そんな個人的な思い出話はともかくも(とはいえ読み手が自身の思い出を重ねるところにこそこの作品の魅力がある)『富士山さんは思春期』、快調に展開していますが、いずれ中学(青春)時代の終わりはくるわけで、ハッピーエンドも悲しい別れもうまく想像できないですが、今後がますます楽しみ。
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