借りてきた猫のように

――フィクションの中で生きる~映画・小説・音楽・マンガなどの日常――

2015年08月の記事

2015年8月31日

 第54回SF大会「米魂」では、「10年代最新カルトSFアイドル映画セレクション」として映画の上映会も併せて開催されており、『世界の終わりのいずこねこ』および『ベルリン少女ハートの6次元ギャラクシー』が記念すべき山陰地方での初上映となった。

 この映画祭では、80年代SF映画の「蜜月」として、

・原田知世主演『時をかける少女』(大林宜彦監督、83)
・アニメ映画『超時空マクロス 愛おぼえていますか?』(石黒昇・河森正治監督、84)
・菊池桃子主演『テラ戦士Ψ BOY』(石山昭信監督、85)
・有森也実主演『星空のむこうの国』(小中和哉監督、86)
・宮島依里・水原(深津)絵里ほか『1999年の夏休み』(金子修介監督、88)
・観月ありさ主演『超少女REIKO』(大河原孝夫監督、91)

の作品名が挙げられている。
 なるほど確かにそれぞれのSF観による違いにより、好みや印象の度合いは分かれるだろうが、「蜜月」ないし「少女とSF映画の黄金期」をこの時代に見出すことができるだろう。ちなみに『ねらわれた学園』(大林宜彦監督、81)も「少女とSF」の範疇に入る作品にちがいないのだが、何と言っても『時をかける少女』のインパクトの大きさを考えると、原田知世「以前」「以後」を分水嶺とするのは必然なのだろう。

 『世界の終わりのいずこねこ』は、神聖かまってちゃんや大森靖子、川本真琴、うみのてのライブ映像などで知られる映像作家、竹内道宏(1983- )の監督作品。神聖かまってちゃんについてはごく初期の活動から記録映像制作に関与しており、その映像編集技術は様々に高く評価されている。同時に『いずこねこ』は、脚本担当のみならずコミカライズ版も発表しており、教師役で出演もしている西島大介の世界観が色濃く出ている作品でもある。
 舞台は2035年、2011年に起こった原因不明のパンデミック発生により、「東京」が壊滅し、突如、支援にあらわれた木星人の支援によって生存者は木星に移り住むが、地球に残された人々は大阪に関西新東京市を作り、日々、巨大隕石の恐怖に苛まれながら生活している。フィリップ・K・ディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』(1968)を彷彿とさせないこともないような希望のない世界の中で、父親の作った歌とダンスを日々ネット配信し続けている少女をアイドルとしてのソロ・プロジェクト「いずこねこ」として活動していた茉里が演じており、突然、いずこねこに憑依されるという難しい役どころながら巧みに存在感を出している。「いずこねこ」とは「すごく楽しそうな笑顔で、アイドルっぽいパフォーマンスをしながら暗い歌詞を歌ったらおもしろい」というコンセプトにより、2011年から14年まで実際に活動していたプロジェクトであり、活動休止を受けて映画企画として起こされたものであるようで、その点でも「刹那」の感覚が作品を支配している。
 クラウドファンディングで資金を募り、コミック、写真展、衣装展など多面的に展開され、映画の枠の外側に留まらない志向性に最大の特色がある。別の言い方をすれば、文化祭的なチープさも味があるといえば味がある低予算映画の極地。それでいて廃墟のイメージの映像美が印象的であり、後年、「カルト映画」とみなされることは確かにありそうだ。
 ちなみに準主演格で現役女子中学生アイドル女優(?)蒼波純(『女子の事件は大抵、トイレで起こるのだ。』ほか)も出ていて「反対!」のプラカードを持って反木星デモを続ける少女役。ここのところ気づけば彼女の作品ばかり観てるのだが、ハマってどうする(笑)?

 「少女とSF」といえば、私にとって強烈な印象として思い起こされるのは、ジョン・バダム監督の『ウォー・ゲーム』(83)。高校生を主人公としている青春物語としての側面もあり、私にとってはアメリカのティーン・フィルムに興味を持った原風景的な作品。
 『ウォー・ゲーム』の主役を演じるマシュー・ブロデリックは、後にジョン・ヒューズの『フェリスはある朝突然に』(86)と続けてヒット作に恵まれている。また、ヒロイン役のアリー・シーディは同じジョン・ヒューズの『ブレックファスト・クラブ』(85)で変人役(だが、化粧をして綺麗になるという青春映画の定番役)も演じている。
 『ウォー・ゲーム』では、マシュー・ブロデリック演じる男子高校生が主人公であり、パソコンオタクだけどガールフレンドもいて、授業を休んでばかりいる彼の家を彼女が訪ねてくる。ちゃんと学校に来ないと落第してしまうと心配する彼女の目の前で、学校の成績を管理しているPCに不正ログインして成績を修正してみせる。後の『フェリスはある朝突然に』と同様に、マシュー・ブロデリックの役どころは如才なく気が利いて、それでいて愛嬌もある。最新のゲームを不正アクセスにより楽しんでいる最中で出会った「全面核戦争ゲーム」は、実は米国政府の国家機密と繋がっていて……という展開なのだが、興味を抱いた主人公が背景を調べていくうちにゲームの制作者をつきとめ、ガールフレンドと一緒にその博士のもとを訪ねて、とリサーチ力、行動力がとにかくすごい。一介の高校生にそこまでできるのかという疑念を抱かせる余地がないぐらいスピード感があり、SF/冒険心にあふれた物語は説得力がある。
 ただし、『ウォー・ゲーム』にしても、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』(85-90)にしても、男子高校生の主人公にガールフレンドがいるという設定は主人公の行動原理に大きな役割をはたしているものの、SF冒険物語の主人公はあくまで男の子であって、「少女とSF映画」の枠組からはやはり遠い。

 ティーン・フィルムの創始者、ジョン・ヒューズの数少ない青春「SF」コメディ『ときめきサイエンス(エレクトリック・ビーナス)』(85)は、冴えない男子高校生2人が『フランケンシュタイン』の物語に触発されて、パソコンで「自分たちの理想の女性」を作ろうとする話。ただし、できあがる理想の女性は「少女」ではむろんなく、ケリー・ルブロック(スティーブン・セガールの元妻)演じる「グラマー美人」(?)ということでさすがにケバいというかなんというか。
 この種の話で想起されるのは、藤子・F・不二雄の短編マンガ「恋人製造法」(『週刊少年サンデー』初出、79)であろう。宇宙人にプレゼントされたクローニング装置で片想いの女の子のクローンを作ってしまうが、作ったはいいものの親にも周囲にも相談することもできず、難儀してしまう葛藤なども描かれていて男の子の成長物語としてやっぱり凄い。
 とはいえ、「少女とSF」の黄金時代においては、男の子の成長物語として少女が機能していることが多く、『時をかける少女』においても、「少女」は男子高校生になりすましていた未来人に背景を「説明してもらう」立場であったわけで、その点では『世界の終わりのいずこねこ』との違いは明瞭である。そもそも男性は病気のお父さんと西島大介演じる女子校の男性教師しか出てこない。とすると今度は今の「少女とSF映画」に男の子は不要なのか、という問いも出てくるわけでこのテーマ、比較文化的にジェンダーの観点から考えてみると意外におもしろいかも。














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2015年8月25日

 「GYAO!初の配信オリジナルドラマ」が劇場版『女子の事件は大抵、トイレで起こるのだ。』(白石和彌監督)として新宿ピカデリーにて7日間トークイベント付上映中(8月22日~28日)。栃木県(?)の私立女子中学校の女子トイレを舞台に展開する全12話(各回13分)の「ソリッドシチュエーション・ガールズ・ドラマ」の物語が、前編(71分)・後編(61分)の二部構成に再編集された映画版として劇場公開。10分程度のエピソードからなる「ショートコンテンツ」と、2時間程度の映画版とは作り方がまったく異なるはずなのだが、映画として通して観ると、現役女子中学生である蒼波純演じる「ひとり美術部」大川たまこを主とした物語を軸に、ほか15人ぐらいの女子中学生キャラたちが群像劇としてそれぞれ描き分けられている様子がよく伝わってきて配信ドラマ版ともまったく異なる味わいに仕上げられている。

 劇場公開情報は現時点では発表されていない段階なのだが、パンフレット(みさこ+蒼波純サイン付!)を購入した際に、最近では珍しいぐらい充実した情報量に圧倒された。配信ドラマの再編集版を「特別に限定で」劇場公開するイベントと思い込んでいたのだが、今から思えば「ショートコンテンツ」+「劇場版」の展開も予め構想される形で作られていたのだろう。

 一応、名目上の主演は神聖かまってちゃんのドラマー、みさこであり、歌とドラム演奏が物語全編で軸になっている。映画の主題歌も彼女のヴォーカル曲ではないものの、神聖かまってちゃんの曲「自分らしく」。キャストの蒼波純および吉田凜音によるユニット「ずんねfrom JC-WC」がデビュー曲「14歳のおしえて」(大森靖子プロデュース)をリリースすることが発表され、であるとすれば、映画の作中でフィーチャーされてもよさそうなので、何がどこまで「最初から」決まっていて、何がどこから「派生して」生まれた企画なのか、不明瞭なところもおもしろい。蒼波純のニックネームが「ずんたん」だったのか! なんとなく耳にしたのだが、「ずんたん」が誰を指してるのかわからなかった(笑)。 

 25日(火)は連日開催中の日替わりトークイベントの中でも主演のみさこに、なぜか出演していない神聖かまってちゃんのベーシスト、ちばぎんも参加の回で、みさこ目当てで私はこの日程を選択。主演のはずなのになんだろう、このどことなく居心地の悪いアウェイ感は(笑)? すでに7日分のチケットは完売だそうだが客層が読めない。女子中学生役のキャスト17名の個々のファン層なんだろうとは思うけど、脚本の「リアル女子演劇界の新星」根本宗子ファンも確実にいるだろうし・・・。

 アメリカの学園映画・ドラマでは、事件はロッカールーム前で起こるというのは定番だが、女子トイレは確かにきっといろいろなことが起こっているのだろうけれども、少なくとも男性にはまったくわからない世界。シチュエーション・コメディの中でも、トイレに限定する究極性(「ソリッド・シチュエーション」)も含めて、映画固有の企画であればシリアスな展開も深められるだろうが、毎回10分程度の「ショートコンテンツ」の制約からはコメディに力点を置くのが正攻法だろうし、狭い空間の中で複数の人物が入り乱れる群像劇となっているのもいかにも演劇畑の脚本家ならではなのだろう。

 パンフレットでの脚本家インタビューでも触れられていたが、最近の傾向に多い「スクールカースト」(学内の序列化)ものではなく、「陰湿な話」でもなく、「中二病」的な描き方でもない形で、思春期女子を捉えようとしている姿勢がおもしろい。「リアル女子演劇」を標榜する根本宗子脚本を、男性監督が描くことで、現実的な側面とファンタジー的な側面がうまい形で混じり合うことができているのだろう。思春期ものとしては「ちょっとリアルなファンタジー」といった趣だろうが、私立の女子校という設定からも、コメディ調ながらなんとなくこんな女子中学生もいるかもと思わせる雰囲気はある。「セリフをしゃべったりキャラクターを作る上で、キャバクラの控室の話でも成立するようにしたというか。大人がリメイクしたとしてもなんとか成立するんじゃないかというものにしましたね」。なるほど。

 蒼波純演じる役柄(大川たまこ)が「ひとり美術部」となっていった背景についてもっとストーリーで触れられていれば、より感情移入できたのではないか、という反応が観客からあがっていたが、その通りだろうとは思う。ただもともとのドラマ自体、短い時間の制約の中でこれだけ多くのキャストを無理なく動かしていることにむしろ脚本・演出の妙を感じる。

 みさこ主演でどのぐらい観客の需要があるのかどうかわからず、女子トイレに常駐する清掃アルバイトという設定がどこまで物語の中で融合できているのか微妙なところだが、少なくとも着想の根幹では大きな役割をはたしている。みさこ自身に女優への志向はないと思われるが、期待の若手女性監督として嘱望されている山戸結希(東京女子流を主演に据えた映画『5つ数えれば君の夢』[2014]など)もまた、みさこの別音楽ユニット「バンドじゃないもん」のPV「パヒパヒ」(2012)を手がけるなど(しかも「永遠の13歳」でやはり中学生の話)、女性クリエイターの想像/創造力を喚起する存在であるようだ。女優を志向しているわけでも、壮大なる野心も感じさせないかわりに、「好きだからやってる」という「永遠のアマチュアリズム」というか、行けるところまで文化祭をやり続けようとするかのような刹那の感覚というか、キワモノ視されてもおかしくないバンド(神聖かまってちゃん)で「紅一点」のはずなのにそんな存在にも見えず不思議な存在感。オーバーアクションのドラミングは「時々」すごくかっこいい。

 いろいろな要素が混じり合っているようで完全に混じり合っているわけでもなく、すべてがあらかじめ仕組まれたように構想されているようにも見えて、たぶんきっとそうでもなく、新しくて、カオス的な回路から生みだされたような、ここから何かが生まれそうな予感を抱かせてくれるところに『女子の事件は大抵、トイレで起こるのだ。』の魅力がある。







2015年8月23日

「男にも女にもなれやしない僕だから みんなの目が厳しいとちょっとつらい」
(神聖かまってちゃん「自分らしく」)

 「志村貴子まつり」として「5社合同毎月8冊連続刊行」などまさに旬といった活況が続いている。最新作『こいいじ』(講談社『Kiss』連載中、2015、1~2巻)は5歳上の近所の「幼なじみのお兄さん」に片思いし続ける下町の銭湯の娘まめを主人公とした物語。13歳の時に告白してフラれて以降も相手が結婚しようと、子どもが生まれようと、30歳になる今現在まで20年近く一途に相手を想い続けている。「食い意地ならぬ恋意地」というタイトルの由来により、各回のサブタイトルも恋愛映画からとられている(初回はジョン・ヒューズの映画『すてきな片想い』[1984])。

 奥さんの急な病死を契機に、残された娘からもまめに新しいお母さんになってほしいと働きかけられるものの、片想いの相手からすれば、5歳の時からまめの誕生にも立ちあい、おしめをかえるほど家族ぐるみのつきあいが続いていたことにより、まめのことは妹どころか父性を感じるような存在で恋愛の対象としてはまったく見られない・・・、こんなベタなプロットながら「読ませる」力量がさすが。

 同時並行で連載が進んでいる『娘の家出』(集英社『ジャンプ改』で連載中、2014- )も最新刊3巻刊行。思春期の高校生まゆこを軸にしたゆるやかなオムニバス物語で、父親が「彼氏」と一緒になることを選び家を出ていってしまったことにより両親が離婚。その後、まゆこは母親に引き取られるも再婚により新しい父親と暮らすことになり、今度はまゆこが家出をする・・・。母親の再婚に対して特別に不満があるわけでもないのだが、母親の再婚相手は自分にとってはまったくの「他人」であるわけで、それほど単純にすぐに家族となれるわけでもない。仲の良いクラスメート4人の女子も皆、親が離婚しており、従妹も親の離婚を機に家出をし・・・と、よくある「複雑な家庭もの」に見えるかもしれないが、「ただ困ったのは 母の彼氏も父の彼氏もどちらもあたしのタイプだということです そこだけは許せません」というまゆこのモノローグにあるように、世間的には「デブ」で冴えない「おじさん」たちに対して、「太った男の腹がすき 肉の布団に顔をうずめて眠りたい」というフェティシズムも混じり合った複雑な感情も示されており、これぞ志村貴子の真骨頂。

 オムニバス形式によって様々な人物の視点から家族をめぐる様々な人間模様を描く手法を通して、とりわけ思春期の高校生女子の屈折した微妙な心の揺れ動きを描くのが巧い。こちらの作品のサブタイトルは歌謡曲縛り(「時には母のない子のように」「男の子女の子」)で、「あとがき」では出版社の垣根を超えて『こいいじ』との連動「リレーまんが」となっており、壮大に遊んでるなあ。まさにノってる感じ。

 そんな志村貴子の出世作は何といっても『放浪息子』(2002-13)であり、米国図書館協会(YALSA)が選出する2012年度「ティーンズ向けグラフィック・ノベル」に選出されるなど海外での評価も高く、2011年には定評ある「ノイタミナ」枠でアニメ化もされている。「女の子になりたい男の子」と「男の子になりたい女の子」の2人の小学5年生の物語。「性同一性障害」という言葉を意図的に作中で使わず、「男の子らしさ/女の子らしさとは?」、「人を好きになるとはどういうことか?」などを探りながらじっくり描いているところが何よりも素晴らしい。小5から高校生までの「思春期」とされる期間をゆったりと描いており、まさに10年以上にわたる連載マンガならではの成果。「うつろいやすさ」とうつろいゆく/変化していく自分に対する思春期の戸惑いが丁寧に描かれている。これだけ繊細に思春期の心の揺れ動きを描いた作品はどのようなメディアであれ珍しいだろうから海外での評価は当然だが、時代を超えて読まれうる可能性を秘めている。

 「異性装」はある種の物語の中では「異性装キャラ」として定番で登場するものであるのだが、「異性装」に焦点を当てた近作に鳥野しの『ボーイ★スカート』(祥伝社、2015)がある。突然、スカートを履いて登校する男子高校生が主人公。

「おれは女の子になりたいのでもないの おれのままで スカート穿いて歩きたかっただけ」
「着たいからって着ないでしょ ふつうは そこはふつう こう… 飛び越えないもんだろ」

 優等生男子の突然の行動に皆が戸惑い、周囲は理由を探そうとする。「ふつうとは何か?」を探る物語になっており、「ふつう」をちょっと超えたところに不思議な解放感がある。

 ふと突然思い出したのは、私自身も学生時代の創作でそういえば、女の子の服を着る男の子について書いたことがあったような。ははは。
「しょうもな」(『味園ユニバース』の二階堂ふみの口調で罵られてみたい[笑])。

 それはともかく、ふみふみこ『ぼくらのへんたい』(2012- 、徳間書店)は現在、8巻まで刊行中。様々な事情で女装している中学生男子(「男の娘」)3人をめぐる物語で、異性装に加えて、思春期による身体の変化と性愛にも踏み込んでおり、「へんたい」は身体の変化と性的嗜好をも含意している。どうしても「異性装」とそれに基づく倒錯した性愛(異性装を踏まえた同性愛)にばかり注目されがちであるが、この作品が長期連載化していることにより、思春期特有の異性に対する嫌悪感や、身体の変化に合わせて変化していく同性の関係性にうまく溶け込めない違和感、声変わりなど自分自身の身体の変化に対する戸惑いなどを様々な形で描いている点でなかなかの野心作になっており、成長物語の趣も出てきた。もはや中学生と思えないぐらいの成熟ぶりだが、ジェンダー、性、恋愛、思春期などについて哲学的に考えさせられる。『女の穴』(2010)、『めめんと森』(2011)などオムニバス短編で評価をあげてきた作家にとっても新境地。
















2015年8月13日

 広島での学会参会の後、両親の実家の墓参りへ。うちの地域では墓参りの際に「灯籠」(盆灯籠)と呼ばれるカラフルな色紙細工を墓に備える風習があるのだけど(初盆の際には色紙を使わずに白)、広島全土で行われているものでもないらしい。紙細工の一面に名前を書くことで誰が墓に参ったのかわかる仕掛けになっていて、なんか出席をとるみたいで嫌だなあとも思うものの、墓参りの御礼や挨拶などを考えると便利な面もある。最近はこの灯籠の風習も廃れつつあって、軽量な木札を置いて帰る習慣に変わりつつあるようだ。何せ灯籠は大きくてかさばるし、お盆過ぎにもらった側が処分せねばならず、これがかなり大変な作業。

 両親とも同じ町の出身なので30分もあれば2軒分まわれて楽なのですが、誰が将来、墓の管理を継承するかを考えると暗澹たる気分に。私有地内に墓があるので最低限の管理すら誰かに託せるわけではなく、伯父や伯母の世代がいつまでも世話ができるわけでもなく・・・、こんな問題は全国どこででも共有されているものではあるのだろう。

 『お墓がない!』(1998)というコメディ映画がかつてあって、映画としての評価は決して高いものではないが、日本社会においては現代的で切実なテーマ。いかに様々な社会的要素が旧来の家制度の中で継承されてきたかが実感される。私自身も今住んでいる家の近くで墓探しをしてみた時期もあるので他人事ではなく、「現在ある墓を誰がどうする?」、「自分の親の墓をどうする?」というのも結構、面倒で厄介な問題。

 定点観測的に数十年にわたって夏の時期に同じ瀬戸内海の景色を見てきたわけで、現在の「地方消失」の問題もあわせて高齢化は進む一方だし、主要駅前のそごう閉店後も店が入らないままだし、問題は山積なのですが、「帰る場所」がなんとなくでも存在し続けてくれるのはありがたいことです。

 仙台出身・在住の直木賞作家・熊谷達也の最近作が図抜けてすごい。リアス式海岸沿いの架空の港町・仙河海市を舞台に、それぞれの作品は独立して完結したものでありながら、ゆるやかに登場人物が重なり合って世界が構成されている。こうした手法はウィリアム・フォークナーによる「ヨクナパトーファ・サーガ」と称される連作に代表されるもので目新しい手法ではないけれども、東日本大震災の「以前」「以後」「未来」の世界の光景や人々が生きる姿を精力的に描き続けており、より一層、凄みが増してきている。

 最新作『潮の音、空の青、海の詩』(NHK出版、2015)ではいよいよ震災から60年後の世界も挟み込まれ、防潮堤や放射能廃棄物をめぐる問題や「その後」を生きる次世代の人々の生活などにも目が向けられ、「以前」「以後」「未来」を壮大な視野で展望するまさに小説ならではのダイナミズムを感じることができる。

 震災「以前」の2010年4月から2011年3月10日までを描いた『微睡みの海』(角川書店、2014)のゆるやかな帰結(3月11日以後)がまさか『潮の音、空の青、海の詩』にこのような形で繋がるとは思わなかった。また、『リアスの子』(光文社、2013)は埼玉県と宮城県気仙沼の公立中学校で8年間、中学教師をつとめていたという著者ならではの中学教師を主人公とした1990年を舞台にした物語。問題を抱えた女子の転入生をめぐり、主人公の教師が奮闘し、生徒の心を開いていくという今どき「ド直球な」教師の青春物語であるが、震災「以前」のおだやかな日常や光景が「その後」すっかり変容してしまうことを知っている読者にとっては、懐かしい青春物語以上の意味を帯びるものになる。どうしても主役級となる不良(死語?)タイプの転入生・早坂希にばかり目がいきがちになるけれども、先行する『微睡みの海』の主人公である優等生タイプの昆野笑子の中学時代の様子も読みどころの一つ。笑子は教師の一家に育ち、中学時代から美術教師を目指していたけれども、『微睡みの海』では生徒との関係でうまくいかず心を病んでしまい休職した後、地元の美術館に学芸員として過ごしている35歳(2010年)の姿が描かれている。優等生タイプであるがゆえの脆さと危うさが連作となることによってより引き立つ効果を挙げている。

 さらに、『ティーンズ・エッジ・ロックンロール』(実業之日本社、2015)では2010年現在の高校生が町にはじめてのライブハウスを作ろうと立ち上がる青春物語で、これもまた読み進めるうちに「あの日」へのカウントダウンを読者は意識せざるをえず、また、若い主人公たちだからこその活力も大いなる希望を与えてくれる。

 同じ町を舞台にした連作だからこそ、そこに生きる人々の人生模様が様々に浮かび上がってくる効果があり、一つ一つが独立した作品なので、どの作品から読んでもいいのだけど、次の作品を読むときっとまた前の作品を読み返したくなるはず。

 熊谷達也といえば、何と言っても直木賞受賞作となった『邂逅の森』(2004)をはじめとする「マタギ三部作」や「古代東北歴史絵巻」となる『荒蝦夷』(2004)などの歴史ロマンで定評ある作家であるが、「仙河海市」連作は今後もライフワークとなるにちがいない。

 現在、注目されている「災害文学」の観点のみならず、現代日本の「ヨクナパトーファ・サーガ」として、一つの町を舞台に「過去」「現在」「未来」の人間模様を描くきわめて野心的で卓越した試みとなっており、60年後の未来にまで目を向けた『潮の音、空の青、海の詩』は現時点での到達地点となる作品に位置づけられるだろう。「以後」の世界を今後どのように書き継いでいくのかますます楽しみな連作である。











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2015年8月7日


 中学時代の同級生女子と大学時代の同級生女子(配偶者)と3人で「女子会」。違うか(笑)。
将来、こちらの配偶者を紹介したり、相手の配偶者についての話を聞いたり結婚写真を見せてもらったり、という未来は中学生の頃はさすがに想像しなかったなあ。次に会うのが27年後になるということももちろん想像できなかったけど。中学生時代に過ごしていた町を車で案内してもらいながら昔話をしていると、長い間、過ごしたはずの町なのに景色がまったく違って見えるのがとても新鮮。

 お互いの話をすればするほどこれまでまったく違う世界で生きてきた「遠さ」が浮き彫りになり、学区再編で別れてしまったぐらいなので当時であっても生活文化圏も異なるので、だからこそ27年もの間交錯することもなく過ぎてしまったわけで、「ほんの一時期、教室という同じ空間で同じ時間を過ごしていた」ことさえもが今となってはかえって不思議なぐらいなのですが、「ほんの一時期、同じ空間で同じ時間を『偶然たまたま』過ごしていた」「だけ」のことで、30年近い歳月の隔たりやまったく異なる世界での人生の「遠さ」を乗り超えて、こんなに「近く」話ができるのが本当に不思議な感じ。幼なじみと言えるような密な関係とも違うんだけど、同級生というのはありがたい存在ですね。

 その会合の前日に「THE 世界名作劇場展~制作スタジオ・日本アニメーション 40年のしごと」(東京・池袋東武百貨店にて2015年7月30日~8月18日開催中)に行ってきました。キャラクター設定の原画、中でも高畑勲が演出・脚本、宮崎駿が場面設定を担当したことで知られる『赤毛のアン』(1979)の宮崎駿直筆レイアウト約30点の展示が壮観。『世界名作劇場』は一年かけてじっくりと一つの物語が描かれていったところに最大の特色があって、登場人物たちとそれこそ同じ時間を一年かけて共有し、共に成長してきたような不思議な「同級生」感覚にとらわれる。「いつ」それぞれの作品が放映されていて、「いつ」それぞれの作品と向き合っていたのかもきっと作品の印象を大きく左右するのだろう。

 前述の中学時代の同級生とも大学時代の同級生とも、このたびはじめて交わす話題であるにもかかわらず、またその時住んでいた地域がまったく異なっていたとしても、クラスメートについての話の続きをするように、『南の虹のルーシー』(1982)や『不思議な島のフローネ』(1981)の話ができるのが不思議。

 僕にとっての「世界名作劇場」は何といっても『赤毛のアン』(1979)で、リアルタイムでこの番組を見始めた最初の作品。『トム・ソーヤーの冒険』(1980)よりも、空想好きで本好きで、孤児(ひとりっ子)であり、将来は教師になるアンに圧倒的に親近感があり(でもどちらかといえばダイアナに惹かれるけれど[笑])、原作小説、映画、そして今でも時々観に行く舞台版も含めて、『赤毛のアン』はこの「世界名作劇場版」版が原風景に。『赤毛のアン』のファンであれば鉄板の見所というか泣き所があるはずで、孤児院から男の子と間違えられてやってきたアンをマシュウとマニラ兄妹が養女として「受け入れる」ことを決断する場面など何度観ても感動してしまう。辻村深月の小説『オーダーメイド殺人クラブ』(2011)では主人公の14歳女子は『赤毛のアン』の熱烈なファンである母親の影響でアンと名づけられ、その熱狂ぶりは娘の視点から見ても少女趣味でイタい母親として描かれており、日本で特に絶大な人気を誇る『赤毛のアン』ファンのあり方が端的に示されている。『フランダースの犬』(1975)が舞台となっているベルギーではほとんど知られておらず、日本独自の人気であることは有名な逸話であるが、日本の大衆文化における海外イメージ受容の観点も含めておもしろい現象/幻想と言える。

 『トム・ソーヤーの冒険』に関しては、先月、作品のモデルとなった町ミズーリ州ハンニバルでの「マーク・トウェインの洞窟」を訪問した際にも思ったのだが、子どもの頃にこの洞窟を訪れていたとしたら、きっと「早く家に帰りたい」と思っていたにちがいない。とはいえ原作の世界観を大事にした丁寧な仕上がりは感嘆するほかなく、もちろん原作と異なる要素もたくさんあるのだけど、青木和代が声優として演じるハックの、おっとりして(おばさんぽい?)いつ訪ねて行っても断らず、つきあいよく応じてくれるハックのキャラクターは独特の魅力を持っている。

 その後も『ふしぎな島のフローネ』(81)、『南の虹のルーシー』(82)と続く漂流・異文化移住路線を楽しんだが、やがてこちらが子ども向け作品を卒業したがり敬遠する時期にもなり、しばらく途絶えてしまった時期もある。『小公女セーラ』(85)、『愛少女ポリアンナ物語』(86)、『愛の若草物語』(87)は熱心に観ていた。『風の谷のナウシカ』(1984)以降、「『ナウシカ』の監督が『赤毛のアン』の作画やってたんだよ。『世界名作劇場』ってすごいらしいぜ」(実際には宮崎駿は作画で関わった作品を評価していないが)といういかにも知ったかぶりのやりとりを周囲で交わしていた背景による。

 『若草物語』以外は「辛気くさい」内容で好きになれなかったが、アメリカの児童文学研究書ジェリー・グリズウォルド『家なき子の物語――アメリカ児童古典文学に見る子どもの成長』(92/翻訳95)で、極貧の生活の中でも一日一つ幸せを探そうとする『ポリアンナ』の宗教的な物語がやはりアメリカの子どもたちにとっても辛気くさく嫌な思い出として回想されることが多いことを知った時は思わず大笑いしてしまったものだ。『家なき子の物語』は19世紀後半をアメリカ児童文学の黄金時代とみなし、その中でも孤児をめぐる物語が多いことに文化史研究の観点から注目した好著であるが、その多くの作品に最初に触れることができたのも「世界名作劇場」を通してであった。

 プリンス・エドワード島では2年に一回、「『赤毛のアン』学会」が開催されているようで、シリーズ連作ものとはいえ一つの作品に限定した学会がしかも2年に一回の頻度で成立することがすごい(次回は2016年の予定で、テーマはジェンダー)。











2015年8 月5日

 日生マユによるマンガ『放課後カルテ』第9巻(講談社『BE・LOVE』にて連載中)刊行。産休の女性養護教諭に代わり、学校医(保健医)として赴任することになった男性主人公による物語。学校医はどこの学校にも存在するものの通常、学校内で常駐することはない(近隣の開業医が兼務することが多い)のだろうが、主人公の牧野は研修医を終え、大学病院で小児科医として数年間勤務した後、小学校に学校医を常駐させるモデル校の導入(専門医の試験配置)により赴任することに。

 単行本に付されている著者あとがきによれば、この作品はもともと編集者主導で進められた企画であったようで、現在、活況を呈している医療マンガの領域においても、病理医を描く『フラジャイル』(『アフタヌーン』)、産婦人科を描く『コウノドリ』(『モーニング』)、あるいは過去には看護師の成長物語『Ns’ あおい』(『モーニング』、2004-10)なども併せて、講談社の雑誌が「医療マンガ」ブームを牽引してきた。専門性が高い領域であり、「情報マンガ」の側面に魅力があることを考えても、綿密な取材に基づいた実証性が医療マンガ作品の生命線であり、現場を繋ぐ編集者の役割は想像以上に大きいのであろう。また、あとがきを通して作者の人柄の良さが伝わってくるのだが、主人公を含めて保健室という「磁場」に引き寄せられる「はみ出し者」の繊細な心情のあり方を描くのが巧い。

 主人公の牧野は大学病院で小児科医として医師のキャリアをスタートさせていたが、無愛想で口も態度も悪く、「問題ドクター」として厄介払いされる形で大学病院を追われ、小学校の常駐「学校医」として送り込まれることに(第5・6巻で「病院編」として赴任前の「前日談」エピソードが語られる)。前任者の女性養護教諭の代わりに、男性の学校医が保健室に入ることで、それまで保健室を恒常的に利用してきた女子生徒たちからは当惑と反発で迎えられ、また、小児科医でありながら子どもとのコミュニケーション・スキルに大いに難がある主人公の性質からも、混乱の中、物語ははじまる。

 新米学校医・牧野が学校という現場で生徒たちと接することで劇的に成長を遂げていくという類の物語ではなく、牧野はある意味で子どもっぽいまま大人になったような人物であり、生徒たち相手でもムキになって張り合ったりもすれば、大人げなく本気でケンカごしでやりあったりもする。保健室に生徒たちが牧野を慕って賑やかに集まることはないが、集団生活の中でふとはみ出してしまう生徒たちを邪険に突き放すでもなく、「誰であれ公平に無愛想で無礼に接する」牧野に少しずつ心を開く者たちが現れてくる。医者/病院の世界から「はみ出し」、学校の現場でも、「普通の保健室の先生」の枠にも収まらず、「共通の感覚(common sense)=常識」を共有する立場ではないからこそ「見える」側面もあるわけで、牧野は他の誰もが気づかない生徒たちの異変に逸早く気づくことができる。また、生徒だけでなく、教員も共同体の枠の外側にいる牧野の前だからこそ素の自分をさらけ出すことができるのだろう。

 学校医を物語の軸に据えることで、複雑で多様化している生徒たち(やその家族)の事情や問題のみならず、近年、社会の要請がますます厳しいものになってきている教育現場をめぐる状況が浮かび上がってくるという点でも、学校を舞台にしたドラマの側面からも新しい視座を提供できる魅力的な題材になっている。男性学校医といえば、男子進学校の学生寮を舞台にした、那須雪絵のマンガ『ここはグリーン・ウッド』(白泉社『花とゆめ』初出、1986-91)にて、母校に学校医(保険医)として勤務していた主人公の兄が登場していたことが思い起こされるが、「医師免許を取得しているにもかかわらず、何が悲しくて男子校で学校医なんてやってるんだ」とくりかえし揶揄されていた。おもしろい設定ではあったものの『ここはグリーン・ウッド』の事例はあくまで脇役のキャラクターにすぎない存在であり、学校医に焦点が当てられた『放課後カルテ』の独創性は多くの可能性に満ちている。

 ちなみに私は物心ついた時からずっと教員志望だったこともあり、教師については将来のロール・モデルとして、あるいは「こういう教師にはなるまい」という反面教師としてよく観察していた方だと思う。今から思えば傲慢にもほどがある話であって、自分のコミュニケーション・スキルを考えれば特に中学教師なんてつとまるはずがなく憧れと敬意が増すばかりなのだが、「養護教諭」の存在に対してはまったく想像の範囲外で、「どういう職務内容」であるのかすらいまだに正確には把握しておらず、自分の学生時代の養護教諭の先生についても申し訳ないぐらいまったく記憶にない。

 その点はもちろん私の思慮のなさであるのだが、学校という空間の中での保健室の特異な位置を示しているものでもあり、保健室を軸にすることで学校や社会を別の角度から見るおもしろさもあるのだろう。最新刊(9巻)では、教師の心の闇がテーマとして扱われており、昨今の教師を取り巻く厳しい状況やストレスの多い教師の苦悩の面にも目が向けられている。「保健室もの」として考えうる逸話や要素をやり尽くしてしまうぐらいのサブジャンルの代表作にぜひなってほしい、ますます期待が高まる意欲作。










2015年8 月4日

 研究会参加のために大宮・高崎経由で前橋(群馬県)へ。夏は研究会・読書会の季節ですね。佐野元春「コヨーテ、海へ」(2007)を聴きながら、「目指せよ、海へ」のリフレインに後押しされるように海のない前橋へ。

 「路線情報」に言われるがまま動いていると、「ん? 金沢行きの新幹線に乗る?」「え? 一般指定席がすべて埋まってる?」というので(自由席がない全席指定の特急や新幹線も最近多いので)、いや、しかしグリーン車はとてもじゃないけど高いしなあと思い、「グラングラスシート」なら空いているという表示が出てきて、よくわからないまま時間も迫っており、一瞬の判断ミスが命取りになるので(帰りは2分差で乗り遅れて高崎宿泊に)、ちょっとだけ座席がゆったりした「のびのびシート」のようなものかなと思って選んだら、なんとグリーン車よりはるかに高い「新幹線に導入されたファーストクラス」シートだった(笑)。
 高い高い! 赤ちゃんをあやす状態。
 もー、こんなことやってるからお金がなくなる一方。

 お昼の移動だったので珍しく駅弁も買って乗り込んだら(ふだんは昼食とらない)、なんと車内で昼食も出る! 大宮から高崎まで25分なので、「明らかに間違えて買った客」にファーストクラスのサービスを慌しく強要してしまうことに。
 ワインも出る!(飲まなかったけど)
 飲み物のおかわりもできる!(おかわりしました) 
 お帰りの際はお見送りまで!(お見送りされました)
で、結局、買った駅弁は在来線の車内で食べることに。なんのこっちゃ。

 しかし、この「ファーストクラス」サービス必要だろうか? 格差社会は確実に進行してるのか?「誰かがツケを払ってる」(佐野元春「キャビアとキャピタリズム」)のか?

 選択肢が多いのはいいことだし、勝手に間違えた私がもちろん悪いのですが、突然「グラングラスシート」と言われてもわけわからんですよ。事前の準備なく移動してるのがそもそも問題なんでしょうけど、気分は「来た列車に飛び乗るホーボーのつもり」(絶対違う)。

 そんなこんなで研究会会場の共愛学園前橋国際大学に。現在、FD(大学の授業改革)の取り組みにおいてもっとも高い実績を挙げていると注目の大学ですが訪問させていただくのは初めて。まだ授業(学期末テスト)期間中とのことで学生食堂+共有スペースも賑わっていて、ちょっと垣間見ただけでも学校の雰囲気のよさが伝わってきます。

 研究会では、「猫を十二支に入れる会」の村上猫先生による「ヒッピー世代と音楽」に関する2時間におよぶ熱のこもった報告を聴衆3人のみで堪能しました。11月のシンポジウムの打ち合わせ企画だったのですが、縦横無尽に話題は展開し、確たる答えがあるわけでもなく、予定調和ともまったく無縁で、皆でああでもない、こうでもないと自由に討論・意見交換ができ、文字通りの「饗宴(シンポジウム)」となり本当に楽しかったです(課題も多く出ましたが)。打ち合わせによるものなので内容に関してはまた本番を経た後に改めて。しかし、この少人数でしか共有できなかったのはもったいないというか、あまりに贅沢というか。打ち合わせで喋りすぎてしまうと本番の時に新鮮味がなくなってしまうということは実によくある話なので、当日の構成についてはまたあらためて考えたいですね。 

 共愛学園前橋国際大学副学長・大森昭生先生のお世話で、萩原朔太郎の詩で有名な広瀬川の風情が感じられる前橋市内の店でその後懇親会。「薬師丸ひろ子の偉大さについて」から、「男女共同参画社会の現状と課題(感銘を受けました)」や「60年代ローリング・ストーンズの政治性と南部音楽への傾倒」、「なぜ最近の合衆国ロード・ムービーはアラスカを目指すのか?」などなど、様々に話は展開し、楽しく過ごさせていただきました。

 で、研究会参加の中味とはまったく関係ないのですが、佐野元春のニューアルバム『ブラッド・ムーン』を聴きながら翌日、帰宅。佐野元春&ザ・コヨーテバンド名義では3枚目で『コヨーテ』(2007)、『ゾーイ』(2013)に続く3部作的位置づけ。

 レビューではすでに絶賛の嵐で、どうせファンしか聴いてないからだろうと思われるかもしれないが、熱心なファンほど厄介な存在はなく、勝手に幻影を追い求めては「幻滅した」とわめきたてるものであり、アルバム『サムデイ』(82)を、『VISITORS』(84)を、『Café Bohemia』(86)を、『ナポレオンフィッシュと泳ぐ日』(89)を・・・、聞き手それぞれがてんで勝手に求める幻影の期待のほぼすべての要求に応えつつ、年齢を重ねたリスナーの人生経験にも寄り添いながら、「今現在」の佐野元春による音楽世界を提示できているところが素晴らしい。単なる「懐かしさ」ではなく、年齢を重ねることの円熟味を存分に感じさせてくれる。

 かつてライオンと呼ばれていた由来となるその髪もすっかり白くなってしまい、歌唱法や声質、パフォーマンス、初期の字余りで言葉がほとばしるような詩作のスタイルなど、「何もかもがすっかり変わってしまった」けれども、表現方法が大きく変容してしまっているにもかかわらず、ある種の精神性のようなコアになる要素や姿勢が変わらないところが魅力であり、「らしさ」なのだろう。近作に見られる詞の「ことば」はどちらかといえば、クリシェ(決まり文句)が多くなっているように思うのだが、クリシェをクリシェと思わせないだけの説得力がある。ストレートに衒いなくクリシェをも使いこなせるところが清々しい。

 「夢は破れて すべては壊れてしまった」(「紅い月」)、「あれから何もかもが変わってしまった」(「優しい闇」)、「世の中は不公平だ ますますきびしくなっていく」(「バイ・ザ・シー」)という歌詞に端的に示されるように、アルバム『ブラッド・ムーン』は現在の世界に対する厳しい認識が基調を成しているが、淡々とことばを紡いでいく現在の歌唱法もあいまって、「厳しく」、「不確か」で、「不公平」な現実にも押し潰されないたくましさに溢れている。

 しかし、サザンオールスターズのアルバム『葡萄』と同じ年に佐野元春のニューアルバムが出て(しかも両作品とも好調な出来)、中日ドラゴンズの山本昌が先発投手として一軍にあがってくる(それにしてもドラゴンズ弱いな)2015年というのは、『バック・トゥ・ザ・フューチャー Part 2』(1989)で『ジョーズ』がシリーズ19作まで制作されているようなシュールな未来像に近いような不思議な時間感覚にとらわれますね。いつまでも元気でタフだなあ。本当に。













2015年8月2日

 医療マンガ『フラジャイル――病理医岸京一郎の所見』(原作・草水敏、漫画・恵三郎、講談社『アフタヌーン』連載中)第3巻刊行。一度読んだだけでは内容が頭に入ってこないぐらい情報量に富み、活況を呈している医療マンガの中でも、「直接患者と会うことなく病気の原因過程を診断する病理医」の世界は通常知りえない世界なのでおもしろい。変人で傲慢でエラそうで他の科からは煙たがられている存在ではあるけれども、主人公の岸は病理医としてのプライドを持ち、周囲からいかに嫌われようとも、病院の経営原理にとらわれず、職業意識をまっとうするという設定なのだが、回を追うごとに意外に情にあついところもあり、高い専門能力と意識に裏打ちされている分、「変人」というよりも「偏屈だけど信頼される同僚」といった立場に落ち着きつつあるようにも思う。

 病院の経営原理もあるだろうし、綺麗ごとばかりではすまない世界だろうから、敵にまわすと厄介だろうが、昨今の医療過誤をめぐる厳しい状況などを考えれば、「私たち臨床医が不安で押しつぶされそうになる時、彼は航海図になってくれる」(同期の女医)、「この商売やってるとなあ どうにも診断に悩むことが年に何回かあるんだよ。で、そういう時のために病理医ってのは結構横につながってんだ」(上司の医師)などという言葉が示すように、優秀で職務に誠実な病理医を同僚に持てるならそれにこしたことはないだろう。ただし、ここに製薬会社が入ってくると話がややこしくなってくるのだが(製薬会社の功利主義・開発途上の製薬に関する副作用の問題など)、3巻までを読むかぎりだとむしろ岸の方がよっぽど情にあつく倫理観もあり、「今どきまっとうなハードボイルド」。陳腐な恋愛の要素が入ってこないところもよい。しかし、なんでタイトルが「フラジャイル」(もろい/壊れやすい)なんだろうな? これまでのところはすべてが「盤石な」印象なんだけど。 

 病理部に集うのは、医学部に進みながら経済的事情で医者の道を断念し、現在は優秀な臨床検査技師として周囲から高く評価されている青年・森井と(通常、技師1人はありえないが現在欠員中)、患者の症例を通して岸と関わったことを契機に岸を慕って神経内科から転科してきた卒後2年目の女性ドクター宮崎の2名。禅問答のような岸の厳しい教えを受けながら彼女が成長しようとしていくところもこの物語の魅力の一つ。彼女の葛藤を通じて、医療に携わる現場の戸惑い、問題ややりがいなども見えてくる。医療マンガでは「どうして医療に携わる道を選んだのか?」という問いが本当に必ず入ってきていて、責任も重くやはり独特の世界なんだろうなあ。

 病理部が大きく関与してくるということは判断に迷う症例や終末医療関連が多くなってくるわけで、必然的に暗く重い話になりがちなのだが、シリアスとコミカルのバランスも絶妙で、基本、天然キャラの岸と宮崎のコンビであればこその、すっとぼけたやりとりなど緩急のつけ方が巧い。産婦人科医を舞台にした『コウノドリ』(2013- )のどことなく慈愛に満ちた雰囲気とは対照的なのだが、科による気質の違いを反映しているようにも思う。

 もちろん細かく見ていけば、現実の世界と異なって描かれていることなんていくらもあるだろう。幻想で誤解が多い描かれた方は別に医療の世界だけに限った話ではない。綿密な取材に基づいて構成されている方が迫真性を増すものであるけれども、物語/フィクションは別に現実の正確な反映である必要はない。物語の中の人文系研究者/大学教員なんて「世捨て人」か「変人」か「ヒマ人」か、ある程度、時間の自由がきく職種の特性を活かしてフィクションの中でミステリーの探偵役に駆り出されることはあるとしても、いずれにしても世間知らずでまともではないという扱われ方ばかり。そりゃまあ確かに現実でも同僚の浮いた話一つ聞かず、仕事の職能で人をうならせたり、感動させたりできることもなく、ぱっとしないんでしょうけどね。

 しかしそれはそれとして、人文系研究者が「憧れられない職業」となってしまっている現実はもうすこし何とかした方がいい。90年代末の大学院重点化の「失敗」で高学歴ワーキングプアーなる現象を生み出して以後、教え子が大学院に進学したいと言いだせば、まずは総出で「やめた方がいい」と言わざるをえない状況が続いており、さらにここにきて人文系廃止論までもが浮上してきて追い打ちをかけている。確かに大学院を経て時間もお金も投資する労力に見合うかどうかがまったくわからないのでは職業の選択肢としてはまったく機能していない。せめて人文系でも大学院修士課程修了ぐらいは一般就職においてももっと評価されるように働きかけるべきではないか? 一つのテーマを掘り下げて研究し、まとめる能力と経験はどんな領域においても有効に活かされるべきものであるはず。
 
 それはさておき、「定時で終わる『麻・放・病』」とマンガ中で揶揄されている麻酔科・放射線科・病理部であるが(実態はもちろん知りませんけどね)、なかお白亜(監修・松本克平)によるマンガ『麻酔科医ハナ』(2012- 、双葉社)もすでに5巻まで刊行されており、評価も人気も高く、あと「放射線科マンガ」が出てくればコンプリート! 

 は冗談として、『麻酔科医ハナ』は男性読者しか基本的には想定されていない雑誌『漫画アクション』が初出ということもあってか、当初はいかにも男性向けコメディマンガの趣が強かったが、第5巻では、ICT(Infection Control Team/感染制御チーム)による「スタンダード・プリコーション」(感染症予防策)がとりあげられており、あくまでコメディの素材の域を出ないものではあるものの専門性に関する情報面も読みどころとなってきている(情報が古いようではあるが)。

 病理部も麻酔科もこれまでは少なくとも物語の中では光があたってこなかった領域で、なおかつ感染症のリスクや、激務の割に地味で待遇が悪いことなども含めて、やはり専門性が高いだけあって細かく見ていくとおもしろい。こうしたマンガ/物語の受容を通して、医学部生、看護学生をはじめ、医療現場を志す人の流れも確実に変わってくるだろうし、人はどんなに避けようとしてもいつ関わるかわからないのが病院の世界であるわけで、一般の読者にとっても興味深い世界であると思う。







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