借りてきた猫のように

――フィクションの中で生きる~映画・小説・音楽・マンガなどの日常――

2015年09月の記事

2015年9月30日

 広義の「青春小説」を得意とする畑野智美の新刊『みんなの秘密』(新潮社、2015)は、友達を失いたくないあまり意に添わぬ万引きに加担してしまう「普通の」中学2年生女子の物語。小説すばる新人賞受賞作『国境沿いのファミレス』(集英社、2011)、続く『夏のバスプール』(集英社、2012)と、男性主人公の視点で展開する物語からキャリアをスタートしていることからも、女子の視点による思春期女子の物語世界をどのようにこの作者が手がけるのかが読みどころとなる。
 スクールカーストと称される学園内ヒエラルキーで上位にいるわけでもなければ、下位にいるわけでもない「普通の」中学2年生女子が主人公で、特別にものすごいことが起こるわけでもないのだが、クラスの女子の人間関係の構図はちょっとしたきっかけで、あるいはきっかけがなくとも、めまぐるしく入れ替わる(「先週の月曜日と今日の光景を並べても、どこが違うかすぐにはわからない。でも、よく見ると、それぞれのグループにいるメンバーが違う」)。
スクールカーストなどという大仰な言葉を使わなくとも、友達づきあいをめぐるそれぞれの動きにより、刻々と関係性が変化していく様子がシビアにクールに分析されている。

「沙耶ちゃんが理想とする中学校生活に私は入っていない。私と奈々ちゃんより、かわいくてお洒落な女子といたいのだろう。そして、そういうグループの中心と周りから見られたいと考えている。そのために愛菜たちのところに入ろうとしたのに、願っていたような立場にはなれなかった。だから、自分で新たにグループを作ろうとしている」

 中2女子がこれほど明晰に状況分析を言語化できるかどうかはともかく、本能的/直感的に微妙な動きを察知してふるまっているであろうことは想像に難くなく、ことさらに序列意識を強調せずとも、学校空間は女子にとって人間関係の繊細な機微を学ぶ場として機能しているのだろう。
 「中2病」としばしば称されるように、第二次性徴期に伴い、心と身体がアンバランスになってしまい、自意識過剰で情緒不安定になりがちなこの年代は、特に性に対する好奇心で頭が一杯な男子の側から描かれることはよくあるけれども「普通の」女子の側から捉えられることは意外に少ない。

「『えっとね、首のここを押さえると』自分の首を触り、愛菜は説明する。男の人だったら、咽仏がある辺りだ。『スッと意識が飛んで、イクより気持ちいいんだって』
『イク?』(略)
愛菜だけではなくて、由依や凜も彼氏がいるのだろうか。そして、セックスをしているのだろうか。そういうことをした人がいるとかいないとか噂には聞いたことがあるが、わたしにはまだまだ遠い話だと思ってた」

 「普通の中2女子」の性に対する好奇心と不安や戸惑いが表れているおもしろい箇所ではあるけれども、お互いの首を絞め合ってる中2女子ってなんだかなあと思わされるのも事実。そして気がつくと、はたしてこれって「普通の女子」の姿なのか、あるいはもはや「普通ではない」のかその境い目がだんだん曖昧になってくる。

 内田春菊の初期作品に『幻想(まぼろし)の普通少女』(マンガ、全3巻、1987-92)があり、80年代ぐらいまでの学校空間に特有な「普通の女の子」像がいかに幻想であり、虚構であるかを突きつけ、お互いがお互いを縛りつけるようなその呪縛を乗り越えていく方向性を示唆している。
 畑野智美の物語もまた、そもそも「普通とは何か」、「青春小説とは何か」、「恋愛小説とは何か」といったふだんあらたまって立ちどまることがないような根源的な問題を考えさせてくれる。 
 いわゆる「中2病」的な男子の姿が「普通の女子」の側からどのように映っているのか。性に対して潔癖な傾向や嫌悪感もあるけれども、この年代では女子の方がはるかに成長が早い側面もある。

「男子がいやらしいことしか考えていないというのは間違っていないのだろうけど、それを汚いと言えるほど女子はキレイなのだろうか。
わたしも沙弥ちゃんも、いつか彼氏ができてセックスをする。
いつまでも、キレイな子供ではいられない」

 永遠に純粋で潔癖でいられるわけではないことも充分に承知しているはずであり、そのあたりの微妙で繊細な感情を淡々と描くのが巧い。

 デビュー作『国境沿いのファミレス』の文庫化にあたり、ベテランの文芸評論家・北上次郎氏が異様に力のこもった解説を寄せていて、「私はいま将来の読者に向けて書いている」と未来の読者を想定し、解説執筆時点で3作しか発表していない「新人」作家としての畑野智美のどこに、世代が全く異なるベテラン文芸評論家が魅了されたのかを熱く語っている。ここでもやはりそもそも「青春物語とは何か」が根源的に問い直されている。ベテラン文芸評論家にとって青春物語は今さら身近な物語にはなりえないと言う。ではどうしてこの新人小説家による若者をめぐる物語に心を揺さぶられるのか。
文庫化されたばかりの『海の見える街』(講談社、2013/講談社文庫)の解説者である吉田大助氏も同様に「そもそも恋愛小説とは何だろう?」という問いかけから説き起こしている。比較的、評論家受けが良い反面、一般読者のレビューでの評価が低い傾向にもあるようで、既存の読書観、ジャンル認識を揺さぶられるところに起因するのではないか。

 また、北上氏の慧眼として「畑野智美が書き続けてるのは、友達のいない人間の物語なのではないか」ということを初期3作品から喝破しているのも見事であろう。近年の女性作家や女性をめぐる物語において、「友達がいないことに対する飢餓感/親友の存在を望む渇望感」がトレンドとして挙げられるが、『国境沿いのファミレス』では幼なじみの親友が物語の中で重要な役割をはたしているし、『みんなの秘密』では、仲良し3人組とされる中2女子の人間関係に焦点が当てられていて、親友同士の間での「ちょっとした」悪意、「ちょっとした」嘘、「ちょっとした」嫉妬などを通して、つまるところ、「普通の中2女子」の「友達とは何か」をめぐる物語であるとも言える。

 郊外の地方都市を舞台にした作品が多く、サクライというショッピングセンターが複数の作品で出てくるなど、郊外版「ヨクナパトーファ・サーガ」(架空の土地を舞台にした連作群)とでも称すべき、ゆるやかな作品世界の連関もおもしろい。しかも著者は東京出身であり、であればこそ郊外文化の特色が際立って見えるということもあるのだろう。
強いて課題をあげれば、特別にものすごいことが起こるわけでもない物語の展開に特徴があるとして、いかにもなクライマックスでもアンチ(反)・クライマックスでもない物語のしめくくり方を今後どのように創出することができるか。ジャンル認識に揺さぶりをかけるぐらいなのだから、むしろ壮大に失敗するぐらいの大胆な試みをぜひ読んでみたい。小説の尺度が「よく書けてます」しかないとしたらつまらない。
 一見、「青春小説」らしくないスタイルをとりながら、畑野智美の物語は「青春とは」「恋愛小説とは」「普通とは」「思春期とは」「友達とは」、そして「小説とは何か」を問い直させてくれる。













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2015年9月25日

 大野裕之『チャップリンとヒトラー』(岩波書店)は、チャップリン研究者として、英語による共著書も含め、すでに複数の著書を持ち、脚本家などとしても活躍している著者による『独裁者』に関する本格的な作品論であり、同時にメディア論にもなっている。この著者がユニークなのはチャップリンの映画『ライムライト』(一九五二)を原作とした「世界初の舞台化」という触れ込みによる音楽劇『ライムライト』(石丸幹二主演、二〇一五年七月初演)にて上演台本・訳詞・作詞に携わり、また、オリジナル脚本による映画『太秦ライムライト』(2014)では脚本・プロデューサーを担当するなど実作への関与をも通して研究対象であるチャップリンの作品と思想とを掘り下げる試みを実践している点にある。サイレント期のチャップリン初期作品のDVDセット『チャップリン・ザ・ルーツ 傑作短編集・完全デジタルリマスター』(イレブンアーツジャパン/ハピネット、2012)に監修者として携わり、声優・弁士口演の収録や、音楽劇『ライムライト』ではチャップリン未完の映画プロジェクト『フリーク』のための楽曲や舞台化作品のための書き下ろし曲の導入を正式に認可されるなどチャップリン家との信頼関係も篤く、国際的にも日本のチャップリン受容は独自に発展しており、その牽引役を担っている。

 本書の醍醐味は、(1)同時代の反応・批評・言説史の整理、(2)「ナポレオン・プロジェクト」を含むチャップリン自身の創作過程の詳述(とりわけ『独裁者』の構想メモ/制作日誌/メイキング・フィルムについて)、(3)作品およびチャップリンの思想に関する洞察力あふれる解釈にある。
 チャップリンによる放浪者のキャラクターは登録商標としてのキャラクタービジネスを代表する存在であり、一方、髭のモチーフを媒介にわずか4日違いの誕生日を持つヒトラーとの奇縁を巧みに重ね合わせていくところから本書は説き起こされる。ヒトラーをパフォーマーの観点から捉え、チャップリンと比較考察しながら、明と暗の対称性を浮かびあがらせていく。チャップリン/ヒトラーのそれぞれの生育背景、第一次世界大戦との関連と歴史の流れを辿っており、根強い「チャップリン=ユダヤ人説」をめぐる言説史の整理は今後、折に触れて参照される基礎資料となるだろう。
 チャップリン研究者としての著者の姿勢は壮大な構想と実証性に特色があり、現在、アーカイブ研究を進めているイタリア、ボローニャのチャップリン・プロジェクトを中心とした最新の研究成果を共同で進めながら、『独裁者』(1940)の着想経緯を詳細に再現していく。ヒンケルの妻がユダヤ人であったという初期アイディアや、日本人スパイ「ノグチ」、複数のエンディングのアイディアなど捨てられた構想から作品を逆照射し、分析する手法は、「アウトテイク」研究(『チャップリン未公開NGテイクの全貌』日本放送出版協会、2007)で知られる著者ならではであろう。
 多くの読者、とりわけ若い世代にとっては『独裁者』は「まぎれもない傑作」であって、実はぎりぎりの緊張感の中で成立しえた孤高の作品(「荒唐無稽な」ほど超越したプロジェクト)であったことは、もはや実感を持って伝わりにくい要素になってしまっているのではないか。丹念な傍証に基づき、『独裁者』の成立過程と時代背景を再現する本書は、『独裁者』を根本から捉え直す契機となるにちがいない。

 『独裁者』論を構想することが、必然的にメディア論になっているのも興味深い。チャップリンもヒトラーもまさに20世紀メディアの中でこそ登場、成立した存在であり、チャップリンについて語ることは、喜劇映画史はもとより、政治と歴史について語ることにもなる。本書で注目されている『独裁者』のラストシーンでのラジオの導入は様々な意味で示唆的であり、現在なおもチャップリンからサンプリングすることにより、広告や音楽が新たに生成されているのも必然と言える。
 本書の試みをさらに進めていくならば、チャップリン自身の戦争・政治観の変遷を、第一次世界大戦下、兵役拒否のレッテルを貼られ、否応なく政治に関与せざるをえなかったプロパガンダ映画「公債」(1918)とその後の戦争喜劇『担え銃』(1918)の成立に遡って辿り、比較参照することで、『独裁者』、『殺人狂時代』におけるチャップリンの孤高の姿勢をより深く理解することができるのではないか。
 実はチャップリン研究は没後30年を超えてようやく様々な資料が開示されるに至り、現在活況を呈している最中にあるのだが、本書は最先端の国際的な研究動向の成果であり、いくつもの連想やテーマの連関を実証的に繋げていく著者のその手つきからは、すぐれたドキュメンタリー映画を観終わったような心地よい読後感に浸ることができる。
(初出『週刊読書人』2015年9月25日付)













2015年9月11日

「実際のところ、ティーンの女の子なんて、そう簡単に笑ったりしないものだ。キラキラと笑顔でいる方がおかしい」(『ポップ・カルチャーが描く「アメリカの思春期」』)

 長谷川町蔵・山崎まどか『ポップ・カルチャーが描く「アメリカの思春期」――ヤング・アダルトUSA』(DU BOOKS、2015)はまさに待望の一冊。
 同じ2人による『ハイスクールUSA――アメリカ学園映画のすべて』(国書刊行会、2006)の続編・応用編ということになるのだが、『ハイスクールUSA』ではアメリカの学園映画(ティーン・フィルム)のジャンルが形成されていった1980年代から説き起こし、それ以前のたとえば『アメリカン・グラフィティ』(1973)などの青春映画とどこがどのように違うのかにも目配りして、その後のティーン・フィルムのジャンルの発展と多様な展開について対談形式で縦横無尽に語り合う構成。たとえば、学園映画につきものの「プロム」と称されるダンス・パーティなどについても、コラムなどで歴史的展開から現在の状況に至るまで詳述してくれていて、単なる学園映画ガイドとしての側面だけではなく、学園映画からアメリカ文化全般を学ぶことができる。文字通り「語り尽す」ということばがふさわしいほど対象に対する愛情が伝わってくるのが魅力。
 実際に、私が担当している「現代文化における思春期の表象(アメリカ文化編)」では長年にわたり、教科書として指定していて、全学対象のクラスということもあり、アメリカ文化について詳しくなること以上に、身近な大衆文化を広く深く掘り下げることで文化論になりうることを示すための格好の教材に。
 すでに『ハイスクールUSA』は刊行から十年近く経ってしまっていることもあり、本書の価値はそれで減じることはまったくないものではあるけれども、増補改訂版の登場をかねてから待ち望んでいたのだが、新著『ポップ・カルチャーが描く「アメリカの思春期」――ヤング・アダルトUSA』は、『ハイスクールUSA』以後の学園映画の展開を補いつつ、映画だけでなく、YA小説、テレビドラマ、リアリティTVなどさらに多岐にわたる観点からアメリカの思春期文化を捉える試みで、アメリカの思春期文化の深みと厚みを実感できる。

『ハイスクールUSA』が刊行された2006年から現在までの大きな変化は、もちろんサブプライムローン以降の大不況も重要であるけれども、学園映画(ティーン・フィルム)の原型を作り上げた映画監督ジョン・ヒューズが2009年に突然亡くなってしまったこと(満59歳)。『ハイスクールUSA』においても、『ヤング・アダルトUSA』においても第一章はジョン・ヒューズから必然的にはじめられている。すでに故郷シカゴでの隠遁生活に入ってしまっていたヒューズを慕ってカナダから彼を訪ねに行くドキュメンタリー映画_Don’t You Forget About Me_ (2009)が象徴するように、サリンジャーのように、あるいはサリンジャーのあり方をもしのぐほどこの領域では神格化された存在で、長谷川町蔵氏も指摘するように、ヒューズは「思春期を描いた映画どころか『アメリカの思春期』を創造した」と言えるかもしれない。

 第2章では『ハイスクールUSA』以後、2006年から今現在の学園映画の最前線について触れ、早くも「懐かしのEarly 00’sティーンムービー」など確かにティーンネイジャーのファッションや文化は回転が早く、ゼロ年代を回顧し、総括する。キーパーソンとなる役者や裏方(キャスティング・ディレクター)などについてコラム形式で情報がおさえられているのが本当に便利で貴重。
 第3章はテレビドラマに焦点が当てられていて、ティーンネイジャーの文化表象において重要な領域であるのはまちがいなく、しかもDVDであれば一気に観てしまうところだが、ケーブルテレビなどで定期的に観ることができるならば、実際のクラスメートのように共に一定期間の時間を共有できるのもテレビドラマの醍醐味。3章の章題は「『Glee/グリー』とは一体、何だったのか?」とされているように、アメリカ思春期文化における『Glee/グリー』の革新性にまつわる様々な角度からの示唆に満ちていて、『Glee/グリー』のファンである人ももう一度観てみたくなるはず。
 第4章は「リアリティTVとインターネット」がとりあげられていて、現在のティーンネイジャーにとってSNSやネット文化は欠かすことができないものであるし、日本ではLINEや匿名性メディアに人気が集まることからもおのずから比較文化論の趣も帯びる。

 5章・6章ではYA小説、音楽の最先端の状況について触れられていて、ある程度、定点観測的に見ていないと最新の潮流についてはつかみにくい領域なのでコンパクトにまとめられていてありがたい。
 第7章・第8章はこの2人の著者ならではの、ほかの著者では及ばない領域であろう。第7章では小学校高学年から中学生ぐらいまで、10歳から12歳の女の子に焦点を絞った「トゥイーン」文化について詳述されていて、早く大人になりたがる彼女たちにとってのロール・モデルとなる現役ティーン・アイドルやディズニー文化受容など。
 第8章は「プレッピー」ファッションの再評価の動向について。「プレッピー」とは、プレップ・スクールと称される名門私立高校出身者のファッション・スタイルを指すが、まさにプレッピーの文化史として、アメリカの女性作家イーディス・ウォートン『エイジ・オブ・イノセンス』(1920)、フィッツジェラルド『華麗なるギャッツビー』(1925)、映画『ある愛の詩』(1970)、『いまを生きる』(1989)から現在まで名門校文化の文化表象談義が続いた後、その勢いのまま、第9章では「アメリカ大学進路相談」として多様なアメリカの大学のスクールカラー(校風)や学生生活の話に。日本の偏差値的な序列とも異なり、アメリカの大学は多様さが魅力。

 最終章は「永遠にヤングアメリカン」と題して、思春期が延長しているかのように、20代、30代以降の年齢を描いた物語においても、思春期と成長物語のテーマが継承されている最近の傾向について。日本でも同様の傾向はあるが、早く大人になりたがるアメリカのティーンネイジャーの志向性と相反するような傾向であり、また日本の傾向との比較文化的見地からの分析など掘り下げてみるとおもしろいテーマ。「ブロマンス」(brother+romance)と称される男性同士の緊密な間柄を描いた物語や、「恋愛未満の恋愛映画がヒットする」などの近年の流行について触れながら、「主人公が成長するビルディングス・ロマンにこだわること自体が、アメリカの子どもっぽさを露呈している気がする」と山崎まどか氏が指摘するように、成長物語へのこだわり自体がある種の「アメリカの病」として脅迫観念のようにとらわれている面は確かにあり、「思春期」「ナイーブで若くあらねばならないという意識」の観点からアメリカ文化全般を読みかえることもできるだろう。

 私自身がこの本から多くを学ぶことができるのはもちろん、対談形式であることにより、相当にコアでマニアックなトークであるにもかかわらず、初心者にも入りやすいのが素晴らしい。おびただしい数の固有名詞についても、合いの手で解説が入る上、主要人物や作品についてはコラムで要領よくポイントがまとめられているので、いちいち困惑したり、検索したりする必要もない。アメリカ文化になじみが深い人にとっては親しんでいる作品がどのように分析されているのかを楽しめるし、これから触れてみたいと思う人にとってはこの本で紹介されている作品の中からおもしろそうと思うものに手を伸ばしてみればよい。とりわけ英文科でアメリカ文化に興味がある学生に読んでほしい。卒論の素材がたくさんあふれているまさにアイディア集。この本があれば「何をテーマに選んでいいかわかりません」という反応はないはず。そして何より対象に対する情熱をこの本から少しでも学んでほしい。







2015年9月9日

『ある十代少女の日記』(_The Diary of A Teenage Girl_)というタイトルではうまく伝わらないので邦題はカタカナ表記になりそうだが、フィービ・グロエックナー(1960- )によるグラフィック・ノヴェル作品(2002)が映画化(日本未公開)。「日記的」とも「半自伝的」ともされるスタイルで、実際にはグラフィック・ノヴェルというよりは、日記体小説に一部、イラストやコミックスを差し挟んだ形式。主人公の女の子がアーティストを目指していることからも日記にちょっとスケッチを描いてみましたというものではなく本格的なアート志向で、しっかりしたコミックスも挟み込まれており、主人公の大人びた側面の現れでもあるのだろう。映画版では手書き風アニメーションを挟み込むことで、原作における小説とイラスト、コミックスの融合を再現するとともに思春期女子の心象風景を描いている。

 物語は1976年のサンフランシスコが舞台で、15歳のヒロイン、ミニーは母親の彼氏とこっそり性交渉を続けており、日々の気持ちや出来事をテープに日記として吹き込み続けている。自分の容姿を醜いと思っており、セックスに興味はあるが、一方で自分のルックスに対するコンプレックスもあって同級生男子とまともに話すこともできないなど、様々な点で心と体のアンバランスさをもてあましている。
 サンダンス映画祭などですでに高い評価を得ている映画版は女性監督マリエル・ヘラー(1979- )のデビュー作であり、ヘラー自身によるオフ・ブロードウェイの舞台化企画を経ての映画化。「ティーンネイジャーの女の子の性を表現したい」、「女の子版ホールデン・コールフィールド(J.D.サリンジャー『ライ麦畑でつかまえて』の主人公)を創出したい」とヘラーも述べているように、従来のティーン・フィルムとは大分異なる味わいに。アメリカのティーン・フィルムにはコメディ映画としてのジャンルのパターン(約束事)が確立していて、その中での細かい差異化によりサブジャンルも多様に発展を遂げてきているのだが、群像劇が多かったり、コメディ要素が強かったりなど、恋愛や性に対してテーマの深まりに欠ける傾向があり、その点でもこの女性監督による姿勢は際立って映る。

 アメリカ人の友人にこれからこの映画を観に行くということを話したら、「ああ、あのフランス映画みたいなやつか」と言われたのだが、インディペンデント系(非メジャー)の作品ということもあり、また、主演女優がアメリカ人でないこともあるのか、アメリカ映画「らしくない」ところが新鮮。
 ヒロイン役をつとめたイギリス出身の若手女優ベル・ポウリー(1992- )はイギリスでは舞台やテレビですでに演技派女優として定評を得ているが、本作ははじめてのアメリカ映画作品となる。23歳となる実年齢から考えても、15歳の女の子の不安定な様子を違和感なく表現しているのが凄い。母親の彼氏を挑発するかのような大胆な側面と、自分の容姿に対するコンプレックスから同級生男子に話しかけられないような内気で脆い側面などを同時に表現する難しい役どころ。アルコール依存症の母親とその彼氏との性交渉など暗く重い話になりがちなところを、笑いも交えて成長物語に仕上げられており、映画版の方が原作よりも明るい印象になっているのは主演女優のポウリーによるところも大きいはず。
 原作の書評においては、ウィリアム・バロウズやチャールズ・ブコウスキーの「思春期の女の子版」という言及もあるほど頽廃的な雰囲気も魅力の一つであり、70年代サンフランシスコに特有の開放的かつボヘミアン的な文化風土が当時のファッションや音楽、オルタナティヴ・コミックスなどの状況もあわせてどのように再現されているか、また、ティーンネイジャーの女の子が性の要素も含めてどのような感情を抱きながら日常を送っているのか、という観点が映画版の大いなる見どころ。映画監督自身、1979年生まれであり、70年代を実体験としては有していないわけで、憧れや幻想も含め、若い世代にとっての70年代西海岸文化の表象も注目したいポイントの一つ。
 映画版にあわせた原作の新装版に寄せられた原作者グロエックナーによる序文では、この作品に描かれている逸話が彼女の本当の体験であるのかどうかを何度も聞かれた経緯に触れながら、確かに自分はヒロインであるミニーの素材にはなっているけれども、あくまでこの作品は「私の物語ではなく、私たちの物語であること」をくりかえし強調している。母親の彼氏と性交渉を持つ展開が普遍的に起こりうるものではないだろうが、10代の女の子に関するセクシュアリティの表現の可能性を拡げたいという監督ヘラーの意欲的な試みは新たな潮流になりうるのでは。

 1960年生まれのグロエックナーによる15歳の女の子の物語が、79年生まれの女性監督マニエル・ヘラーの手により現代映画として映像化され、さらにそのヒロイン像が92年生のポウリーにより演じられることで、1976年のサンフランシスコを舞台にした局地的/個人的な物語が3世代の女性の表現者のいわばコラボレーションを通して、より幅広い層に届きうる新たな息吹を注ぎ込まれている。もともと過去を舞台設定にしていることからも今後も古びることがないだろう。
 女性脚本家(でもあり役者でもある)ティナ・フェイによる『ミーン・ガールズ』(2004)など女の子の世界に焦点を当てた物語ももちろんあるが、とりわけ性に力点を置いた「女の子版『ライ麦畑』」のような成長物語は意外に少ないのが現状。アメリカ映画ではまだまだ女性監督が少ない中、期待の新鋭であり、アメリカのティーン・フィルムにも大きな影響を及ぼすのではないか。







2015年9月7日

 遊びに来ているはずの訪問先で小さな学会が開催されていて、いろいろな奇縁も重なり、米国地理言語学会(American Society of Geolinguistics)という学会の年次国際大会で「2.5次元ミュージカル」について発表してきました。

 言語学の学会は参会自体ほぼはじめてで、方法論があまりにも違いすぎるので本来は発表など到底できるものではないのだが、「地理言語学」というゆるやかな概念による国際学会であり、様々な国や地域の言語と文化にまつわる研究発表が可能であるとのことで、多彩な顔ぶれが集っていておもしろい。
 大いなる奇縁の一つは、勤務先の大学で、学部が異なるアメリカ人の同僚がこの学会と長年、強い連携を保っており、毎年、大学院生がこの年次大会で研究発表をしていること。彼の指導院生が今年も何人かニューヨークまで発表に来ていて、モンゴル、上海、ロシア、ネパールなどからの留学生。多彩な留学生がいると噂には聞いてたけど、学部が異なることもあり実際に接するのははじめて。せっかく異文化理解の生きた教材が同じ大学にいるのになかなか他の学生と交流する場がなくてもったいない。

 今年の年次大会のテーマは「言語・科学と新しいテクノロジー」。「言語」「テクノロジー」と絡めて何ができるかなと思案した結果、最近の「2.5次元ミュージカル」の流行について話をすることに。「日本のコンテンツビジネスを海外に」というコンセプトで日本2.5次元ミュージカル協会が設立され、専用のシアターもできて、専用メガネ(他言語対応字幕システム「Zimaku Air」)では4か国語の字幕翻訳により観劇を楽しむことができる。英語以外の外国語文化の流通というのはどうしても難しく、近年の日本のマンガ/アニメにしても基本は翻訳・吹替を通しての受容。日本国内と海外での両方の興行展開を視野に入れたプロジェクトであるようだが、やはり言葉の壁は大きく、役者が英語で演じるかどうかという問題が焦点になってくる。
 この専用メガネでは字幕が浮き上がって見えるので、舞台上の字幕装置を見る時のように注意力を妨げられずにすむし、日本語によるパフォーマンスということで「本場らしさ」を魅力として売り出すことができる。日本語日本文化に対する興味を広げてもらえる期待ももてるし、観光がてら日本で2.5次元ミュージカルを見てみようという層も出てくるだろう。出版社の垣根を超えた連携も重要で、版権などの権利関係の手続きもシステム化され簡便になり、ビジネスモデルとしての可能性を広げることができる。

 「2.5次元ミュージカル」の主な観客層は女性で、舞台化される作品として、男子の部活青春ものが多い傾向がある。このたびの発表で具体的に取り上げた作品は『テニスの王子様』(原作は『少年ジャンプ』)と『弱虫ペダル』(『少年チャンピオン』)で、前者は現在に至るブームの下地となった作品。今ではチケット確保が困難であるが、2003年にミュージカル化をはじめた当初は3分の1しか席が埋まらないこともあったという。『弱虫ペダル』はロードレース部の話であるが、パントマイムによる実験的な表現手法(「パワーマイム」)など先鋭化された演劇表現の観点からも注目されている。
 若い役者を積極的に起用し、若い観客が多いことからも、マンガ/アニメ/演劇をジャンル横断する場としても機能している。ファン・コミュニティとしてSNSを通じた共時性も魅力であり、さらに、ブログなどを通して生身の役者自身に対する関心を広げられる楽しみもある。
 2.5次元ミュージカル以外にも、学校を舞台にした女子高校生のアイドル活動を描いた『ラブライブ!』(2012- )のように、アニメ化される時点から声優によるライブ・パフォーマンス、CD化などのマルチメディア展開を想定したプロジェクトもあるわけで、こちらは主なファン層は男性。こうした2.5次元の様々な展開にジェンダーによるファンカルチャーのあり方の違いを読み込むことができるのかどうか?

 唐突に古い例になるが、私でいえば、『うる星やつら』については原作(新装版も含めて)はもとより、アニメ・コミック版、小説版、英語版まで公式出版物はすべて所持していたし、小5から高校ぐらいまではペンケースや下敷きなども概ね学期毎に『うる星』で新しいものに替えていたぐらいなので(『めぞん一刻』や『らんま』の時期もあったけど)、今も当時もミュージカル版があれば確実に観に行くだろうが、私は高橋留美子原理主義者の立場ということもあって(アニメ版・映画版の世界観を基本的には認めない)期待はまったくしないだろう。
 ラム、しのぶ、ラン、弁天、おユキ、竜之介、サクラなど女性キャラがたくさん出てくるが、意外に「キャラ萌え」の作品ではないという認識でいるのだが、読み手によるのかな? ペンケースや下敷きなどを学校で使ってたので、「あんたもラムちゃんとか好きなのか?」と女子に小ばかにされることもあったが、あくまで全体で世界観が成り立つものであって、誰か特定のキャラが好きというわけではないと力説していたものだ。今から思えば、「物語派」と「キャラ萌え派」の断絶というよくある図式にすぎないのかもしれないし、コタツネコ好きは公言してたけど。
 一方で『うる星やつら』はコスプレなどの先駆的素材でもあるし、ファンカルチャーの親和性が高いこともあり、男女ともにファンが多い作品でもあり、これが「現役の作品であったとしたならば」はたして2.5次元化でどのような客層を見込めるのだろうか? あるいは古典となる作品で上の年齢層を狙う戦略は成立するのかどうか? 『うる星』の場合、部活などのように何か共通の目的に向かって邁進するような話ではないし、やっぱり題材としては不向きかも。

 さらに話を広げて、「2.5次元ミュージカル」が次の段階に進む際にどのように男性客を取り込むことができるのか、できない(想定しない)のか、性別に特化した戦略が今後も有効なのか、など引き続き考えてみたい。
 なおこの領域にまつわる研究動向に関しては、『ユリイカ 2015年4月臨時増刊号 総特集◎2・5次元――2次元から立ちあがる新たなエンターテインメント』の特集が多彩な面からの情報量かつ示唆に富んでいて便利。










2015年9月6日

 アメリカ演劇最大の祭典第69回トニー賞にて5部門(「ミュージカル作品賞」・「脚本賞」・「主演男優賞」・「演出賞」・「楽曲賞」)を受賞した話題のブロードウェイ・ミュージカル『ファン・ホーム』を観てきました。

 原作は、アリソン・ベクダル(1960- )のグラフィック・ノヴェル『ファン・ホーム――ある家族の悲喜劇』(椎名ゆかり訳、小学館集英社プロダクション、2011年)で、翻訳を通して日本でも第15回文化庁メディア芸術祭マンガ部門優秀賞を受賞するなどすでに高い評価を得ている。「グラフィック・メモワール/回想録」として位置づけられている作品で、アメリカの女性コミックスの新潮流としてコミックス文化に留まらない幅広い層に受容されている点に特色がある。

 もし、英語が得意ではないけど観光がてら評判のこのミュージカルを観てみたいということであれば、原作の翻訳を一読されておくとよいでしょう。ストーリーはそれほど難しくないですが、父娘の屈折した関係性や心情がどのように繊細に表現されているか、また、2時間程度の舞台化作品として原作をどのように再構成しているかという点に注目して観劇できればこの作品の魅力がより深く伝わるはず。
 と言いながら翻訳の出版状況をチェックしてみたらなんと「品切れ」? いやいや、ブロードウェイ・ミュージカルとしての成功を祝した帯でぜひ増刷をお願いしますよ。「ミュージカル新装版」を出してもいいぐらいの絶好のタイミング。

 『ファン・ホーム』は自殺が疑われる事故死によって世を去ってしまった父親の秘められた過去「同性愛の嗜好」について、同じく同性愛者であることを意識しはじめた作者自身の少女期の日々と重ね合わせながら追憶/探究していく物語。
 家業として葬儀場(タイトルの『Fun Home』の由来は「楽しい家」と共に「funeral home/葬儀屋」の略称から)を営みながら高校の国語(英語)教師もつとめていた亡き父親に対する違和感と共感を手がかりに、追憶を通して理解しようと試みる「父娘の絆」と「家族の喪失と再生」がテーマになっている。実はセクシュアル・マイノリティとして共調できる可能性があり、共に愛好する文学を通して深い精神的な結びつきをもちながらも、微妙にすれ違いを続けながら対話の可能性を永遠に失ってしまった父親に対する追憶を、「文学的」とされる手法を駆使しながら表現している。
 実際に原作では、父親と作者自身が共に大学で英文学を専攻していたことから、ジェイムズ・ジョイスやヴァージニア・ウルフ、プルーストなどの文学作品が父娘を繋ぐ絆として重要な役割をはたしており、『ファン・ホーム』の翻訳版刊行にあたっては私自身、英米文学の領域に関する注釈作成のお手伝いをさせていただきました。

 原作者アリソン・ベクダルはレズビアン・コミュニティの日常を描いた、『レズビアンに気をつけて』(_Dykes for Watch Out For_)を1983年から2008年まで25年にわたって継続してきた記念碑的作品の書き手として再評価されており、すでに伝説的な存在に。『ファン・ホーム』の後で今度は母親にまつわるグラフィック・メモワール(_Are You My Mother?: A Comedy Drama_, 2012)を刊行し、ベストセラーに。『レズビアンに気をつけて』と併せて日本での翻訳刊行を期待したい。
 セクシュアル・マイノリティの問題をテーマの一つとしていることからも、ワークショップを経て、もともとは2013年9月にオフ・ブロードウェイから出発し、円形劇場(Circle In The Square Theatre)にて2016年6月まで公演予定が延長されている。

 「回想録」であり、コミックスによる視覚芸術を原作にしている特性をどのように舞台で表現するかが注目点であったが、過去を回想する主人公がストーリーテラーとして物語に介入し、注釈を差し挟む構成に。360度どこからでも観客の視点が注がれる円形劇場を舞台としていることにより、時間軸と空間を縦横無尽に展開している。主人公は、「回想している現在の作者」(アリソン・ベクダル)と、「子ども時代の作者」(スモール・アリソン)、「青年期の作者」(ミディアム・アリソン)との3人の役者によって演じられており、しかもこの3人を含めてもキャストは全員でわずか9名。トニー賞「助演女優賞」部門にノミネートされた5名中3名が『ファン・ホーム』から選出されていることも含めて、自分自身と家族をめぐる密な物語であることを象徴している。
 作者自身の姿を視覚化して表現することでグラフィック・メモワールが成立しているわけで、一人称語りでありながら客体化されるところに最大の特色があるのだが、その視覚化された「回想する現在の作者像」を演劇版として再現するそのあり方は、現在、日本で話題になっている「2.5次元」に近いと言えるのだろうか?(あるいはそれ以上の複雑な次元?)原作の作者像にそっくりでまさに本から飛び出して出てきたような不思議な感覚。パンフレットには作者のアリソン・ベクダルによる書下ろしコミック・エッセイも加えられていて、実際の人生をもとにした回想録に、自身によるコミック化、さらに演劇化を経た上で、さらにその演劇化について作者本人が自己言及するという複雑なメタ構造に。

 作者からすれば本当に不思議で特別な感覚なのだろう。新たな書下ろしコミック・エッセイにて、もともと彼女の両親が学生時代の演劇活動を通して知り合った背景を回想しながら、「両親がこの舞台を観たとしたらどう思っただろう?」という空想に想いを馳せつつも、しかしながら、父親が謎の死を遂げなければ原作となる回想録自体も成立しなかったわけで、「両親がこの舞台を観たとしたら」という仮定自体がありえないというパラドックスに行き着いてしまう。
 このように、アリソン・ベクダルは淡々と醒めた視点による筆致でありながら不思議な抒情性があるところが魅力。その一方で父親のブルース役の役者マイケル・セルヴェリスがトニー賞主演男優賞を得ているように、原作のおとなしい雰囲気とは大分異なり、ブルースが感情を発露させる演出などが舞台化の過程で大きく書き加えられている。

 回想は必ずしも時系列的に規則的に繋がるものではなく、時に螺旋(らせん)的に/恣意的に連鎖していくものであって、原作自体が回想と思索のゆるやかな繋がりをコミックスの表現手法によって視覚化していくところに実験性があったわけだが、舞台化作品として時系列をさらに再構成し、3人の本人がかわるがわる出てくる特性を活かして、少女時代(スモール・アリソン)の無邪気な姿をくりかえし描くなど父親との関係性を重層的に描く効果をあげている。
 コミックス・アーティストとしてのアリソン・ベクダルを考える上で、セクシュアル・マイノリティをめぐるテーマは避けることはできないのだが、同時に、父と娘の間の気持ちのすれ違いを細やかに描きながら、追憶を通して家族を「承認」しようとする物語であり、時間と空間を伸びやかに開放する「新感覚ミュージカル」の手法を通してさらに幅広い層に届きうる上質のエンターテインメントに仕上がっている。










2015年9月3日

「とりあえず明日は一緒に、身の丈にあわない、大きめの夢をみようね」(大森靖子ブログ「あまい」2013年5月12日)

 映画版『女子の事件は大抵、トイレで起こるのだ。』の全国劇場公開(10月~)も決まり、14歳限定ユニット「蒼波純×吉田凜音 ずんね from JC-WC」からデビュー曲『14才のおしえて』もリリースされた。14歳限定ということで12月までという限られた時間での活動ということになるようだが、「デビュー曲」ということは今後も展開があるということか?
 楽曲プロデュースは大森靖子(おおもりせいこ)で、「じゃあ『あみん』みたいな曲作っときますわ!」ということでできたのがこの曲らしいのだが、蒼波純によるリコーダー演奏が間奏で入るなど(編曲のサクライケンタのアイディアらしいが)不思議な世界観で、背景についての逸話を聞かされないとあみんの連想はないかな。そもそも1987年生の大森靖子にとってあみん『待つわ』(82)は完全にクラッシック(歌謡曲の古典)の域だろうが、意外なほど音楽の幅も広く、かつ歌謡曲やJ-Popの系譜に対しても自覚的で、「歌謡曲」(13)、「ノスタルジックJ-Pop」(13)などのタイトルの楽曲もある。「呪いは水色」(15)という曲は、「松任谷由美と松田聖子と中島みゆきを足して3で割ったような感じで作った」と、パロディソング芸人で『すべてのJ-Popはパクリである――現代ポップス論考』(2014)の著書もあるマキタスポーツとの対談で語っていたが、それでいて大森靖子の世界観以外の何物でもない作品として成立しているところが素晴らしい。大体、松田聖子が「呪いは水色」なんてタイトルの曲を歌うわけない(笑)。中島みゆきですらない。今気づいたが、大森靖子版「赤いスイートピー」が、「呪いは水色」になるのか?

 「大森靖子の一生道重」という雑誌連載があるほど、低迷期のモーニング娘。を支えた道重さゆみの熱烈なファンとしても有名で、大森の代表曲「ミッドナイト清純異性交遊」(13)など道重さゆみをモチーフとしたとされる曲も多い。歌謡曲、J-Popの流れを引くような王道のアイドル・ポップスの曲調に思春期の捻りを加えた歌詞による「子供じゃないもん17」(14)を自身で歌っていることからも、今後、アイドルへの楽曲提供も増えていくとおもしろい展開になると思う。
 「子供じゃないもん17」は17歳の高校生女子が「ややこしい私ほんとは好きでしょ?」と男性教師を翻弄する内容の歌詞で、間奏でセリフまで入っていて「あの大森靖子がこんな曲を歌うのか!」と驚きの新境地だったのだが、最後にぼそっと「傷ついてよ」というセリフで落とすところが彼女らしいというか、女子特有のたちの悪さというか残酷さがよく出てる。なんて言ってよくわかんないけど(笑)。「ずんね」には合わないだろうが、思春期女子のややこしい感じを明るくポップスに仕上げるのもきっと職人的に巧いのではという期待がある。

 大森靖子といえば、言葉がほとばしるようにあふれ出る独特の歌詞の世界観に、椎名林檎、川本真琴、JUDY&MARYのYUKIから、銀杏BOYSの峯田和伸まで、それぞれのリスナーがそれぞれの音楽遍歴を彼女に読み込むことができるような音楽の幅に対する貪欲さもあり、ギター一本で弾き語りのスタイルだった初期の活動の印象から、私の第一印象は「鳥居みゆきが憑依した中島みゆき」みたい(笑)。エイベックスからのメジャーデビュー以降、今でこそポップな印象もあるが、第一印象はたいてい、「またやばいのが出てきたなあ」であっただろうし、深みと歪みのある歌詞に凄みのあるパフォーマンスと第一印象のキワモノ感との落差に、気づけば気持ちをもっていかれてしまったというのが私も含めて多くのパターンではないか。

 誤解を恐れないというか、あえてというか、アイドルやフェミニズムの領域で物議をかもしたり、ライブ中にファンとディープキスをして話題になったり、ようやくメジャーデビュー(しかも意外な組み合わせのエイベックス)したと思ったら突然、結婚・出産の発表や、長年活動していたバンド(ピンクトカレフ)でもようやくアルバムを出すと思ったら解散発表など、相変わらず先の展開が読めないのだが、最近は根本宗子(『女子の事件は大抵、トイレで起こるのだ。』脚本)による演劇「夏果て幸せの果て」に関与したり、松居大悟による映画『ワンダフルワールドエンド』自体が大森靖子の音楽にインスピレーションを受ける形で成立していたりと、隣接する他分野の表現者の想像・創造力を喚起する存在であるようだ。中でも映像との相性が良いようで、発表されているプロモーションビデオはどれも素晴らしく、最新作「マジックミラー」(番場秀一監督、15)のPVはわずか6分半ほどであるにもかかわらず、様々な人間模様が織り交ぜられて描かれていて、西川美和の長編映画をも想起させるほどの奥行きを感じさせる。
 もともとPVの企画から起こされた映画『ワンダフルワールドエンド』は、大森靖子のファンとしても知られる女優・橋本愛と、大森靖子がフェス部門で出演し、その後選考委員もつとめる「ミスiD」コンテスト2014年グランプリの蒼波純(ユニット「ずんね」)の2人が主演をつとめており、一見、まったく交錯しない橋本・蒼波・大森という3者の少女像がゆるやかに繋がっており、それぞれがたくましく生きようとしている姿が、はかなさも含めて、清々しく描かれている。
アルバム『絶対少女』(13)にて、「とにかく全ての女子を肯定しようと思いました。わたしはずっと普通の女の子になりたかった、だから私は全員の女の子になろうと思いました」と大森自身が語っているように、「私たちはいつか死ぬのよ 夜を超えても」(「呪いの水色」)などネガティブな歌詞が多い印象と裏腹に、多様な生き方をあるがままで肯定してくれるような包容力とたくましさとふてぶてしさに満ちているのが魅力。

 というわけで、私の担当している「現代文化における思春期の表象――少女像の探求(現代日本文化論編)」で、今学期は大森靖子の少女像を取り上げる予定。「ミッドナイト清純異性交遊」、「ノスタルジックJ-Pop」、「呪いは水色」、「マジックミラー」、「絶対絶望絶好調」、「愛してる.com」あたりの楽曲に、映画『ワンダフルワールドエンド』の一部をとりあげてみたい。本当は教室で扱いにくい歌詞の方が受講生と一緒に深く考えてみたいんだけど、さすがにまあ無理だろうな(笑)。
 受講生には自分で素材を選んでもらって分析してもらう課題を毎年、課しているのだが、音楽を選択したレポートはいつも西野カナばっかりということもあって、大森靖子がどう響くのか(響かないのか)楽しみ。















2015年8月32日

 31年半続いた『笑っていいとも!』が2014年3月に放送を終えて以後、メディアの転換期としてテレビ文化自体をも総括する流れとも重なり、戸部田誠(てれびのスキマ)『タモリ学 タモリにとって「タモリ」とは何か』(イーストプレス、2014)をはじめ様々な形でタモリ論が出された。そうした動向を包括する形で、近藤正高『タモリと戦後ニッポン』(講談社現代新書)が戦後70周年を回顧するという絶妙のタイミングで発表された。1945年8月22日生まれのタモリにとって戦後70周年は彼自身の70年の生涯と重なるものである。
 本書は本格的なタモリ論であり、同時にユニークな戦後文化論でもある。コメディアンとして「なりすまし芸」を得意とするタモリの代表作に中洲産業大学(助)教授というレパートリーがあり、また、ミュージシャンとしての彼の活動にサンプリングの先駆的作品『タモリ3 戦後日本歌謡史』(81)があるように、偽史であったり、フェイクの講義であったりをいかにも本物らしく、それでいてデタラメにおもしろく聞かせるのが「タモリらしさ」となるわけであるが、本書もまた、序章は「偽郷としての満洲」から説き起こされるなど、壮大なスケールでメディアアイコンとしてのタモリの生成過程を戦後史と重ね合わせながら捉えようとする野心的な試みとなっている。

 タモリの祖父は満鉄(南満州鉄道)に勤務しており、祖父母に実質、育てられたという複雑な生育背景からも、幼年時代のタモリの原風景に家族の満州体験が大きな影響を及ぼしていたようだ。なお「偽郷」という語は著者の造語であるらしく、実際にタモリは福岡生まれであって満州で育った体験はないわけであるが、タモリの後見人となった赤塚不二夫も満州生まれであり、満州で生まれ育った経験を持つ人物たちに共通して現れる「物事を相対化する見方」に注目し、タモリのなかにある「都市的なものへの志向と田舎への冷めた見方」の源を読み込んでみせる。「偽郷としての満州」はわずか13頁ほどの短い「序章」であるのだが、タモリ論および戦後文化史の導入部として興味深い示唆に満ちている。
 著者は1976年生まれであり、タモリがテレビに登場したばかりのもっともアクの強かった時期については体験としては共有していないはずであるが、だからこそ巻末の5頁におよぶ詳細な参考文献表が示すように、資料をもとにメディアにおけるタモリ像を実証的にあぶりだしていく手法がとられている。あくまでメディアの言説史の中でのタモリこそがタモリにとっては「実像」なのであって、メディアの言説史を通してその姿を浮き彫りにしていくことが肝要なのだろう。

 大学を除籍後、郷里の福岡に戻ってから再び上京するまでは「謎の空白時代」とされており、保険の外交員をしたり、ボーリング場で支配人をつとめたりして30歳近くまでを過ごしている。このあたりの消息についてはタモリ自身のインタビューから詳細に辿ることは難しく、タモリ自身が福岡時代に世話になっていた人物に新たな取材をすることで「謎の空白時代」をあとづけている。
 30歳前後で上京し、赤塚不二夫宅での不思議な居候時代を経て、深夜の密室芸人期から、テレビに徐々に出演をはじめていく中でどのようにタモリというキャラクターが形成されていったのか。普通のメガネに七三分けだったという風貌から、顔に特徴がないという理由で、アイパッチ姿を経て定番のサングラスになり、髪型もオールバックで真ん中分けというスタイルが確立していく。第6章の章題に「『変節』と『不変』」と付されているように、「誰もがテレビ向きではないと思っていた」存在から、やがて「国民のオモチャ」を自称する存在に変容していく。
 結果的に31年半、通算8054回続いた『笑っていいとも!』であるが、1982年10月4日の最初の放送の視聴率は4.5%であり、決して期待されていた番組ではなかった。30年を超える長寿番組はその後も盤石であったわけではなく、90年代初頭にはマンネリと批判され、「つまらないものの象徴」と揶揄される低迷期を経た後、90年代後半からはナインティナインやSMAPらに代表されるリスペクトとパロディ化を通して、「まるで風景のようになってしまった」「みんなが見ているけれども、誰も見つめてはいないというある意味『テレビタレント』の一つの到達点」(ナンシー関、2002)に達するに至る。
 最終章「タモリとニッポンの『老後』」が示すように、戦後70年と同時にタモリは70歳を迎え、テレビ文化もメディアの転換期の中、新しい境地を迎えつつある。本書でも引用されているように、「自分の番組の中でおじいちゃんになりたがってる」とおじいちゃん願望を逸早く指摘したのはナンシー関だったが、『笑っていいとも!』終了後のタモリは『ヨルタモリ』(2014-15)、『ブラタモリ』(2015- )とますますマイペースで悠悠自適にテレビに出続けている。森繁久彌との比較による老境のあり方の考察もなかなかおもしろい。

 本書のまとめにあるように、高度経済成長期に伴い、社会の均質化・平均化が著しく進む中で、それに対するカウンターとしてアングラ演劇などが70年代人気を集め、タモリもまた1975年にラジオの深夜放送をふりだしに芸能活動をはじめていった。そして消費社会が進む1980年代にタモリは「お昼の顔」に変貌を遂げ、「国民のオモチャ」を自称するまでにテレビタレントとしてアイコン化されていく。
 志賀重昴『日本風景論』(1894)なども引き合いに出しながら思想史の枠組みの中でタモリを位置づけようとする壮大な試みであるが、メディアでの言説史を丹念に辿っていることにより、文化的アイコンとしてのタモリの特性が浮かび上がってくる。タモリ自身が一貫してしがらみの多い日本の精神風土に由来する関係性や過剰な意味づけを拒んできたように、常に無責任で通りすがりの「他人」でありたがっていたことからも、本書で語られる現代史はあくまで「もう一つの/オルタナティヴな現代史」となるのであろうが、こんな現代史もあっていいし、とりわけ70年代から90年代頃までの時代思潮の推移がよく見えてくる。
 著者は雑誌『Quick Japan』などの編集者アシスタントなどを経てライターとして活動しているらしく、本書はウェブサイト「ケイクス」にて1年間連載された「タモリと地図――森田一義と歩く戦後史」に基づく。本書の他に『私鉄探検』(08)、『新幹線と日本の半世紀』(10)の著書があるようで私は未読だが、もともとサブカルチャー、ミニコミ誌から出てきた人らしくいろいろな領域で書けそうな人で今後が楽しみ。













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