借りてきた猫のように

――フィクションの中で生きる~映画・小説・音楽・マンガなどの日常――

2015年12月の記事

2015年12月30日

ここ数年、海外マンガの翻訳受容がきわだって伸びていて、「ガイマン賞」や「海外マンガフェスタ」などをはじめ様々な方々によるご尽力の賜物であるのだが、学生からも直接的・間接的に(人の紹介などを通して)、特にアメコミ(アメリカン・コミックス)に関する話を聞く(聞かされる)機会が増えた。

「周りに話し相手がいないのかな?」と思わされるいじましい感じもなきにしもあらずだが、最近のアメコミを含めた海外マンガの翻訳はそれだけ飛躍的に進展していることを示す動きでもあるし、とりわけアメコミに関してはハリウッド映画の翻案ものの影響は絶大で、若い世代にも着実に浸透していることを実感させられることが多い。

とはいえかくいう私が「男の子カルチャー」がどうも不得手でアメコミは苦手な領域であり続けているのでしっかり勉強しなければいけないなと思いつつ、ポピュラーカルチャーは勉強してどうなるものでもないので少しずつ広げていくしかないんですけどね。

「海外マンガフェスタ」は2012年以降、毎年11月頃に東京ビッグサイトで開催され、2015年は16か国80名を超えるアーティストが来訪。米国の「コミコン・インターナショナル」、フランスの「アングレーム国際漫画祭」といったイベントをモデルにしているそうで、直接、作家に話しかけることができたり、サインをしてもらえたりできる催しも多く、アーティストとの距離が近いのが最大の利点。コミコン・インターナショナルは米国サンディエゴで開催されているイベントで2016年12月3・4日には東京(幕張メッセ)でもはじめて出張開催が予定されている。

加えて「ガイマン賞」(読者が選ぶ海外マンガアワード/2011年度)もすっかり定着してきており、2015年度の受賞作品もすでに発表されている。受賞作品のラインナップからは海外コミックスの多様性と読者層の拡がりが見えてくる。

得票数1位はオーサ・イェークストロム『さよならセプテンバー(全3巻)』(ヨナタン・ヘードチャーン・平田悠果訳、クリーク・アンド・リバー社/スウェーデン)でスウェーデンの女の子が日本のマンガに憧れてマンガ家を目指して日本にやってくるという話。ありがちな話に映るかもしれないが、男女共用のシェアハウスにマンガ家志望者が集い、恋愛や悩みなどが交錯する青春物語になっていて日本のマンガに近い要素もありながら、スタイルも展開も青春の描かれ方も独特で、そのハイブリッドな性質はまさに海外コミックスならでは。

また、マンガ評論家の小野耕世氏による「小野耕世特別賞」として選出されたのは、ラット『タウンボーイ』(左右田直規訳、東京外国語大学出版会)で、これは確かにありがたい翻訳紹介。マレーシアおよびアジアの古典的名作コミックス(オリジナルの刊行は1981年)で昨年に同じ訳者によって刊行されている『カンポンボーイ』の続編。少年の成長物語を基調にしながら、多文化社会マレーシアの複雑な社会・文化状況も見えてくるもので、解説「多文化空間における出会いと別れ」もとても参考になる。こうした異質な古典作品が同じ時代の年度別収穫として並列されるのは外国文化の翻訳受容の醍醐味。

好調なアメコミ(DCコミックス)からは、【第2位】『シャザム!――魔法の守護者』、【第9位(同率)】『フォーエヴァー・イービル』、【第10位(同率)】『クライシス・オン・インフィニット・アース』がノミネートし、ほかにもアメリカの最新潮流として「青春ハードボイルドもの」【第8位】『デッドリークラス』や、なんだかよくわからない不思議な「SFファンタジー」【第4位】『サーガ』も「こんな変わった作品、はたして日本で受けいれられるのだろうか?」と刊行前に話題になったものだが、届くべき層には届いているようでまずまずの好評価が嬉しい。

BD(バンドデシネ)の豊饒なコミックス文化の伝統を誇るユーロマンガ(ヨーロッパ)からは、【第5位】『ブラックサッド 黒猫探偵』(フランス/ベルギー)、【第9位(同率)】『ラディアン』(フランス/ベルギー)が入賞したが、登場人物が皆動物による異色のハードボイルドものと少年マンガである2作品がまったくタイプが異なっていることもおもしろい。

他メディア/ファン・カルチャーとの連動もますます目立つ傾向にあり、【第3位】『トランスフォーマー――オール・ヘイル・メガトロン』(アメリカ)や「テーブルトークRPG」から【第7位】『マウスガード 1152年 秋』(アメリカ)、ディズニーチャンネルアニメから【第9位(同率)】『フィニアスとファーブ 最強ゴキゲンコミック』(アメリカ)などが並び、それぞれのファン層の厚みを感じさせる。

ほか、5人目のビートルズとしてマネージャー、ブライアン・エプスタインを描いた物語【第6位】『ザ・フィフスビートル ブライアン・エプスタインストーリー』(アメリカ)や、児童文学の領域でも高い評価を受けるにちがいない【第10位(同率)】『ジェーンとキツネとわたし』(カナダ)などは、海外マンガのみならず、マンガにふだんなじみのない層での受容も期待される。

カオスなパワーに改めて圧倒されるもので、海外マンガ好きと一口に言っても、同じクラスに集められたとしても何を話していいのかわからないぐらい好みがまったくバラバラ(笑)。また、日本のマンガ文化だけでもありとあらゆる嗜好やテーマにあわせた作品があふれているわけで、そこに飽き足らずあえて異質な要素を求めようとする海外マンガ受容/需要の動向がかつてよりも見えやすくなってきているのはおもしろい動きだと思う。

「ガイマン賞」HPでは、BD(ユーロマンガ)翻訳を牽引されている原正人氏、海外マンガ研究者・深民麻衣佳氏やマンガ評論家・小野耕世氏による動画をとおして受賞作品の紹介もなされており、海外マンガで過ごすお正月もきっとよいものでしょう。










スポンサーサイト

2015年12月29日

「突然、女の子が15センチほどに小さくなってしまったら・・・?」

そんなありえない仮定の物語が時代を超えてくりかえし描かれ、現在放映中の『南くんの恋人~my little lover』(全10話)は4回目の映像化作品となる。

内田春菊によるマンガ(『南くんの恋人』1987/『ガロ』初出)を原作にしたもので、このたびも「新装オリジナル版」が刊行されている。新たに加えられた文章やエッセイマンガなどもなく、そっけない表紙はやや残念だが、原作と映像化作品のトーンの違い、エンディングの解釈などをめぐり、作者を巻き込んで議論になってきた経緯もあり、刊行から30年近くたってもはや「古典」の域に達しているということでもあるのだろう。

1990(TBS/2時間ドラマ)石田ひかり・工藤正貴
1994(テレビ朝日/10話+スペシャル編)高橋由美子・武田真治、岡田惠和脚本
2004(テレビ朝日/11話)深田恭子・二宮和也、中園ミホ脚本
2015(フジテレビ/10話予定)山本舞香・中川大志、新井友香脚本

25年におよぶ映像化作品のファンもそれぞれあり、注目度も高いはずなのだが、月曜深夜2:35~3:30の放映でしかも関東ローカルとは一体何なのだろう? 朝型派も夜型派もさすがに交錯しえない「月曜から夜ふかし」どころじゃないド深夜で、潜在的な視聴者層をも一切拒むような時間帯に、学園ドラマの王道のような作品はシュールにしか映らない。そうはいってもテレビの見方も変わってきているわけでネット上での「見逃し再生」も充実しており、届くべき層には伝わっているのだろう。

しかも11月スタートでようやく軌道に乗ってきたところで年末年始の特別編成が入り、全体で10話中現在は6話までで中断。既発表分までをDVDで発売するなど途中で話題を盛り上げる期待も見込まれているのかもしれないが、効果としてはどうなんだろうな。個人的にはものすごくリズムに乗りにくいサイクル。放映開始前の特別番組もバレーボール中継の延長に伴いしょっぱなから「放映が流れる」など試練続きではあったのだが、現実離れしたベタな設定に対して、家族や地域(千葉県館山市)の詳細、主要人物の葛藤などを丁寧に描き込んでおりメリハリが巧く効いていて回を追うごとにおもしろくなっている。

もともと原作は1巻本であり、長編作品ではないのだが、その分、作り手の想像力をふくらませる余地があるところが複数の翻案作品を生み出す土壌となっているのだろう。「『いたずらなKiss 2』(フジテレビ系列、2014-15)のスタッフ(小中和哉監督)が結集」という触れ込みだが、私としてはドラマ『祝女』(2010-12)の脚本家・新井友香の作品という印象で、芝居がかったコミカルでテンポのいい演出や、女子のめんどくさい感じがこれまでの版と比べて際立つ特色と言えるように思う。

個人的にはヒロインのちえみ役を演じている山本舞香のベスト・パフォーマンスはドラマ『13歳のハローワーク』(2012)なので、もう少しツンとしたクールな感じのキャラの方が彼女には合っているように見えるのだが。こんな騒がしくてめんどくさそうな女の子役でいいのかな?(中川大志ファンからウケが悪そうでちょっと心配)。三井のリハウスガール(14代目、2011)、JR東日本SKISKIキャンペーン、映画『桜の雨』(2016)主演・・・と着実にキャリアを重ねてはいるものの、もう一歩という感が残るのでぜひとも代表作になってほしいのだが(だいたい三井のリハウスガールは14代で終わったのか? 何となく打ち切りだとしたらひどすぎないか?)。

それはともかく、くりかえし映像化されている古典マンガ作品ということもあり、原作と異なるオリジナル・エンディングが用意されることは企画発表時から示されており、作品の世界観が一番現れるところなので今後の展開が楽しみ。

『南くんの恋人』は内田春菊の初期作品に位置づけられるもので、思春期女子の疎外感をテーマにした『物陰に足拍子』(1988-91)、「普通の女の子(らしくしなさい)」という規範に対する不自由とそこからの解放を描いた『幻想の普通少女』(1987-92)などと並ぶ代表作であるのだが、「突然、女の子が15センチほど(原作は16センチ」に小さくなってしまったら・・・?」という仮定の設定をもとにした寓話形式の物語で、後年、作者が「小美人ポルノ」と言及しているように、十代男女の異性の身体に対する関心なども主要なテーマとなっている。ドラマ化の変遷の中で南くんのキャラクターは変化(進化?)していくことになるが、もともとの原作の南くんは平凡でおとなしい高校生男子で、それぞれの家族もほぼまったく描かれず2人だけの世界になっているために、恋愛や学園ドラマの要素などはほぼ入ってこない。

これがドラマ化となると、ド深夜の時間帯であったとしても、当然のことながら「小美人ポルノ」の展開をたどることはないわけで「純愛」の要素が強調される。プラトニック・ラブ・ファンタジーと「小美人ポルノ」的寓話という相反する要素が同じ物語を軸に成立しうるのもおもしろい。

「小さくなってかわいい女の子を守ってあげる男の子」という家父長的な構図もなんとなくドラマ版ではぼかされるのだが、2013年に内田春菊によって発表されるマンガ『南くんは恋人』(女性向けマンガ雑誌『Cocohana』にて連載)では、小さくなる男女が逆転し、南くんの方が小さくなってしまう。『南くんの恋人』刊行25周年を記念しての企画であり、ドラマ版も含めた往年の作品のファンが期待する中で、身体が小さくなった南くんは「かわいい」どころか自信を失い、心までもが小さくなり、すっかりわがままで嫌な奴になってしまっている。誰の気持ちをも幸せにしない25周年記念企画となっているところが何といっても素晴らしい。翻って、「女の子が小さくなってかわいいよね」と思ってしまうとしたらそれは一体何なのだろうと考えさせられる。十代の身体や心についての捉え方、性別による社会や人間関係のあり方についてなど、内田春菊の初期作品はもう少しちゃんと評価されてもいいのにな。

2015年のドラマ版は主人公の二人に子どもの頃からの幼なじみという設定を加え、「一寸姫」のおとぎ話を踏まえた上に、ヒロインのちよみが小説を書くのが趣味という人物造型を施すことによってファンタジーが成立する背景を下支えしている点も巧い。







2015年12月28日

『僕とアールと死にゆく少女』(Me and Earl and the Dying Girl, 2015、日本未公開)は、ジェシー・アンドリューズ(1982- )によるデビュー小説(2012)をもとにしたティーン・フィルム(監督はTVドラマ『glee/グリー』などを手がけるアルフォンソ・ゴメス=レホン)で、「幼なじみの女の子が白血病を患って・・・」という設定だけ聞くといかにもありがちな恋愛の感動物語になりそうなところを想定されるパターンをずらしていくところがおもしろい。

主人公の男子高校生グレッグは映画オタクで幼なじみの友人であるアールと一緒にパロディ映画を製作し続けている。『靴下じかけのオレンジ』(オリジナルは『時計じかけのオレンジ』)などしょうもないと言えばしょうもないパロディなのだけど、映画好きとして少年時代を送った者にとっては、ああこんな夢想もあったなという微笑ましいような、ほろ苦いような不思議な感慨にとらわれるはず。40本を超えるパロディ映画作りを何年も共有してきた親友であるはずのアールは「友達」というよりも「(仕事の)同僚」の関係性という説明がなされていて、グレッグはアメリカの高校におけるジャングルのような厳しい人間関係の中で一つのカテゴリーに属することなく、誰とも深い関係にならないようにつとめながら、表面上、誰とでもうまく交流しようとふるまっている。深く関わることによって傷ついてしまうことを過度に恐れていることの裏返しであるのだが、そういった自意識過剰や傷つきやすさもまた十代特有の性質であって、それなりにルックスも良く、快活でユーモアもあり社交的に見えるのだが、ネズミみたいに見える自分のルックスを気にするなど本人の自己評価は必要以上に低く、親友と呼ぶことがふさわしい関係性であるはずのアールや幼なじみの女の子に対してすら微妙に踏み込めないでいる。

アフリカ系のマイノリティで家庭環境も複雑なアールの方は、子どもの頃からグレッグとは家族ぐるみの友達づきあいを続けてきており、彼のことを「親友」と思っているはずで、主人公の自意識がもたらすこうしたすれ違いももどかしいところ。グレッグのお父さんは社会学を専攻する大学教授で「ヒマだったから」アールも交えて子ども時代のグレッグとよく遊んでくれたことにより、お父さんの外国映画好きの影響がアールに継承されていったという。人文系の大学教員が今もヒマであるかどうかはともかく、アメリカでマイノリティとして生きるアールのことを自分の子どもと分け隔てなく接し、アールが外国映画の中にロール・モデルを見出していく過程などは説得力がある。

幼なじみの女の子レイチェルは、幼稚園が一緒で母親同士はその後も長年にわたってつき合いが続いているものの本人同士は疎遠という実はどこでもよくある話で、学校が一緒でもクラスが違えばそんなものだし、アメリカの場合、つるむグループが異なればまず接点はないものだろう。そんな中、「幼なじみのレイチェルちゃんが病気で大変だからお見舞いに行ってあげなさい」と母親に強く言われ、「いやあレイチェルとは話したことないし、何話していいかわかんないし」などとぶつぶつ言いながら渋々連絡をとるところから物語は展開する。この展開もいかにもありそうな話で、しかもアメリカは高校までが義務教育だから、地元の公立学校に通う場合、そんな「何となく顔見知り」の関係性が高校まで続くことが多い。

レイチェルは白血病にかかっており、死を意識した状況で当然シリアスな展開になるはずであるのだが、最初はぎこちなかった2人が次第にうちとけてきて「友達」になっていく過程がユーモアを交えながら丁寧に描かれていく。「恋愛」関係ではなく「友達」というところが幼なじみの関係性特有でもあり、また、この主人公のダメさかげんをよく表しているのだけど、傷つくことを過度に恐れるあまり人間関係の深まりを避けてきた主人公が「友達とは何か」を同級生の女の子に教えてもらう話でもあり、かといって人間はそんなに簡単に変わるものでも、劇的に成長できるものでもなく、そのウダウダとした感じにリアルさを見るか、つきあいきれないとするか、好みの別れるところになるのだろう。

「大学に入ったら高校よりも人間関係が複雑になって、他人とルームシェアをしなければいけなくなるから大学になんて行きたくない」と駄々をこねて進学を拒否するグレッグを諫め、「地元の州立大学なら実家から通えるでしょ」と進学を勧め続けるレイチェルの方は余命も意識せざるをえず将来のヴィジョンも持てないわけで、観ているこちらの方が申し訳なさにいたたまれない気持ちになるぐらい、2人の成熟の度合いがかけ離れている。女の子にはかなわないなあという実感。

この物語の印象を決定づけるのは何といってもレイチェル役によるもので、恋愛映画ではないからものすごく綺麗でかわいいというよりも、むしろ「隣の女の子」っぽい身近な感じが必要で、病気の影響で髪の毛も抜けてしまうわけだけど感動ものを強調する作品ではないから痛々しい感じになってもよくなくて、コメディを基調とした物語だからキュートで明るい雰囲気が求められる。「そんな無茶な要求に一体誰が応えられるんだよ?」というところをイングランド生まれのオリヴィア・クック(1993- )が好演している。女の子が丸坊主になる姿なんて大変な役どころにちがいなく、感動ものをずらすことが大事なこの物語において「悲壮感を与えない」ということはとても重要で、しかしとても難しい。レイチェル役を演じる女の子次第で物語の印象は大分異なるものになるはずだ。

男の子の成長物語のためになぜ少女が死に瀕する必要があるのかという問いは相も変わらず残るのだが、あらすじだけ聞いてしまえばよくあるベタな感動ものや成長物語に回収されてしまいそうなところを、さすがサンダンス映画祭受賞作(審査員大賞・観客賞)だけあってなかなかの佳品。映画好きの主人公による物語だけあって、小説よりも映画版の方がこの物語の魅力が良く伝わると思う。ティーン・フィルム『ウォールフラワー』(2014)は友だちを求めながらその関係性をうまく築けないことに悩む男子高校生の物語であったが、必要以上に人間(友達・恋愛)関係に気をつかう傾向が強くなっているとされる日本の若い世代でも強く共感を得られるのではと見込まれる。とはいえ感動ものに仕立ててしまったらこの作品の魅力は半減してしまうので売り方が難しいかも。










2015年12月13日

TVバラエティ番組『あいつ今何してる?』(テレビ朝日系列、土曜夜0時~0時30分)がなんてことない企画なのに結構おもしろい。

まずゲストが小中学校の時の卒業アルバムなどを見ながらカメラに向かって同級生にまつわる想い出(「エピソードVTR」)を思いつくままに喋る。そしてその中から何人か昔、繋がりが深かった「今何をしてるか知りたい」同級生を番組スタッフが取材調査し、実際にVTRを介して登場してもらい、彼らの仕事や家庭生活の現況や中学卒業後の遍歴を紹介する。その後、ゲストによる「エピソードVTR」を同級生に見てもらって彼らからも想い出話をしてもらう。ゲストと同級生が直接会うのではなく、VTR越しに想い出話を交わしてもらうことで、微妙に(あるいは劇的に)記憶が違っていたり、ゲストの意外な側面が浮かび上がってきたりするところに不思議な味わいがある。

同じ時間を同じ空間で過ごし、同じ体験をしていたはずであっても、視点が変われば印象が異なることはよくあることであるし、時間が経てば記憶が変容してしまうこともある。また、中学生時代を回想の軸に置いていることもあり、上は40代から20代半ばまでゲストの年齢によっても、昔の想い出に対する距離感や「あいつ今何してる?」の現在の仕事や家庭の状況も変わってくる。20代半ばは昔をふりかえるにはさすがに早いような気がするけれども、年代の違いによるライフコースのあり方も見えてくる。一時期とはいえ、学校にいる間、毎日、過ごしていた親友と呼べる存在であってもその後、進路が細分化していく中で、その後の様子がまったくわからないままになっていることも現実には多いのだろう。

公立中学の進路は本当に多様で、ありとあらゆる職業にそれぞれが従事している(一方、私立は私立で人生を楽しむ余裕が随所に現れていてそれはそれで社会の一側面を示すものではあるのだが)。医者になりたいといっていた同級生がその後、夢が叶って医者になっているという初志貫徹型もあれば、家業をついでボクシングジムの会長やパン職人、バイク屋になっていたり、あるいは、吹奏楽部で人気のあった女子がトラックドライバーになっていて、離婚後、シングルマザーとなり現在は12歳下の彼氏と一緒に暮らしていたりするなど(一番意外性があって驚いた)、生き方もそれぞれながら皆、地に足が着いていてたくましく生きている様子が伝わってくる。一般の人たちの人生をただ辿るだけの企画がこれほどおもしろいものになるとは! しかも皆、話がうまくてメディア慣れしているのがすごい。きっと昔も今も人生が充実している人たちならではなのだろう。

いわば、「13歳のハローワーク 応用編」といった趣で、ライフコースとキャリアについて考えさせられる。テレビならではのおもしろさであると思うのだが、ビデオを介して当事者が直接会って話をするのではなく想い出話をそれぞれの立場から語る構成も効果を挙げている。ゲストの人選も巧みで、いじられるタイプが多いのもバラエティ番組として絶妙なキャスティングなのだろう。いわゆる二本撮りによるものなのか前後の回に出ていたゲストも一緒に登場し、視聴者と同じ目線で他人の想い出話にツッコミを入れてくれる。卒業アルバムやビデオを観ながら回想することで突然昔の記憶がよみがえってくる瞬間を捉えているのもおもしろい。

他人の同級生の昔話なんて、しかもそれほど思い入れのないゲストの回であれば興味をもてないように見えるかもしれないが、土曜の深夜というゆるい時間帯ということもあり、隣のクラスの友達の繋がりを垣間見るようなリアルな感覚にとらわれる。ゲストの気恥ずかしさがダイレクトに伝わってくるのも魅力になっている。ゲストで登場しているSHELLYが「みんなちゃんと大人になってるんだ!」と感慨深く吐露していたように、中学までしか知らない相手が途中経過を飛び越えていつのまにか大人になっている様子を見るのは確かに不思議な感慨をもたらすものであろう。

ちょうど朝比奈あすか『自画像』(双葉社、2015)を読んでいたところだったので、『あいつ今何してる?』の明るい昔話との落差に慄然とさせられる。クラスの中心で楽しく過ごしている連中がいる一方で、思い出されることもないような、中学時代を思い出したくもないような孤独を抱え、絶望していた人たちもひょっとしたらいるのかもしれない。

ニキビなどの容姿をめぐるコンプレックスはとりわけ女子にとっては男子の想像をはるかに超えて根が深いものであるかもしれず、女子同士の序列や心無い男子の言動、指導力のない教師に対する軽蔑や恨みなど、『自画像』はどす黒い怨念のような回想がひたすら続くにもかかわらず、その暗い闇の力に引きずり込まれてしまう。

デビュー作『憂鬱なハスビーン』(2006)以降、女性の虚栄心やコンプレックス、面倒な人間関係を描き続けてきた作者ならではの筆力で、読み進めれば進めるほど嫌な気分にさせられるのに一息に読まされてしまう。タイトルになっている「自画像」は実に象徴的で、表現の世界では自分の姿に向き合うことは確かに大事な過程となるものであろうけれども、思春期に美術の授業で取り組まされる課題としては酷なのかもしれない。

30代後半の語り手「わたし」が中学教師をしている婚約者に対して自身の中学時代の回想をするところから物語ははじまり、後半からは友人2人の視点も組み合わされていく。

多くの人たちにとってはそれぞれなりにいろいろな形で濃密であった時期であっても、中学時代なんて通過点にすぎないものであるはずだが、主人公たちにとっては中学時代の記憶が根深い傷として今もなおその傷が癒えていない。だからこそ30代後半の主人公たちが中学時代から回想する意味がある。しかし、80年代の学校空間は大雑把に扱われていた時代であったとはいえ、中学教師の指導力不足に対する怨念の深さがいかに凄まじいものであるか。

また、再び逢って言葉を交わしたい、謝りたい/御礼を言いたいと心残りがある相手がいたとしても、絶対に叶わぬ夢となることもありうるのかもしれない。いじめや自殺未遂、教師への密告や陥れなどちょっとしたかけ違いが永遠の亀裂を生み、二度と修復できないこともある。「あいつ(あの子/あの娘)今何してるんだろう?(元気で幸せでいてくれてるといいけど)」。その想いは永遠に直接届けられることは叶わない。

『あいつ今何してる?』の明るい回想と並行して読んでしまったために、食べ合わせの悪さから闇の想像力にあてられバッドトリップ気味になってしまったが、両者の対照性も際立つもので、だからこそ通過点だけど人生の中で大きな意味を持つ思春期の奥深さを実感させられる。





2015年12月11日

「胎児はエタノールにはいると 鮮やかな朱色になって光り輝く」

――『透明なゆりかご』

「輝く命と透明な命」が行きかう場所。出産だけが産婦人科の扱う領域ではないけれども、こうしている今もきっと様々なドラマが日々くりひろげられているのだろう。

沖田×華(おきたばっか)によるマンガ『透明なゆりかご――産婦人科医院看護師見習い日記』(2014- 、2巻まで刊行中)は淡々とした筆致であればこそ、生とは何か、命とは何か、といった根源的な問題について考えさせられる。幸せな出産が感動的であるのはもちろんとしても、出産がうまくいった場合であっても夫婦や家族が抱える、ふだん表に見えてこない問題や関係性が露わになる。その一方で出産を取り巻く様々な試練の過程で、人は時に急激に成長を遂げ、優しくなれたり、強くなれたりできることもある。赤ちゃんを待ち望みながら得られないでいる人たちがいる一方で、人工妊娠中絶によりひっそりと消えていく命もある。

高校の看護学科在学中の17歳の夏休みにアルバイトとして産婦人科に勤務していた体験に基づく自伝的物語で、TVドラマ放映中の原作マンガ『コウノドリ』と類似の話題(ローティーンの妊娠や「野良妊婦」、新生児遺棄、家庭内暴力、性虐待など)を扱っていることも多いのだが、産婦人科医を主人公にした『コウノドリ』と比しても、看護師、それも准看護師資格取得以前という、いわば「看護師の卵の卵」からの視点により、『コウノドリ』とも異なる新鮮な印象をもたらしてくれる。

『透明なゆりかご』の舞台となっている「1997年夏」頃の、日本における死亡要因の一位は実は人工妊娠中絶であったと言及されているのだが、私が担当している「現代文化における思春期の表象」というクラスでちょうど今週扱った、村上龍原作・庵野秀明監督『ラブ&ポップ』(1998)の時代で価値観の激変期にあたる。現在は廃止されたというナースキャップが存在していた時代でもあったために、資格取得前の主人公は戴帽を認められず三角巾を頭に巻いて勤務しており、高校生の女の子が様々な臨床の経験を経て看護師見習いとして成長していく側面もこの物語の魅力。注射などの医療行為はできず、介助や補助的な仕事しか任せてもらえない見習い看護師としての彼女の最初の主な仕事は、中絶された胎児の「生命のかけら」をケースに入れて業者に引き渡す準備であったようだ。

見習い看護師の主人公の視点を通して映る先輩看護師たちのプロフェッショナルな仕事ぶりが凄い。非常事態が起こっても沈着冷静に現場を取り仕切り、様々な「ワケアリ」の問題を抱える妊婦に対しても、たとえわがままにふるまったり、心を閉ざしたりしている相手であったとしても、常に患者の心が平穏になる環境を整えようと尽力する。中でも、性虐待の疑いのある小学5年生の女の子に対し、決して大ごとにせず、しかし、「もし(将来)裁判になった時、このカルテが重要な証拠になる。これが病院にできる精一杯のこと」として黙々とカルテに記録をとり続けていく看護師長の姿がかっこいい。

決して楽な仕事ではなく、実際に主人公と一緒にアルバイトしていた看護学生は、妊婦の死亡事故の現場にかかわったことで大きな衝撃を受け、アルバイトを辞めるどころか、自信を失って看護学校までも退学するに至っている。作者も看護師資格を取得後、3年勤務した後に退職している。

産婦人科を通して様々な人生模様や社会の問題が見えてくるのだが、社会問題や感動的な人間ドラマを描こうとするものではなく、あくまで作者の半自伝的な「看護師見習日記」の体裁で、淡々と綴られた日誌のような筆致ゆえの凄みがある。

「自分が親になるのが想像できない」という作者の今の関心は「母性とは何か」というところにあるようでまさに文学的/哲学的なテーマ。2巻まで密度の濃い逸話が続いてきているだけに今後どのように展開していくのかわからないが、さらに深く掘り下げられていきそう。

発達障害を抱える作者は他人とのコミュニケーションがうまくとれないことに悩み、自殺未遂を起こしたり、家族や友人の風変わりな側面を赤裸々に描いて周囲から絶縁されたりするなど、今どき珍しいぐらい実存を賭した表現者として知る人ぞ知るカルト作家
(『こんなアホでも幸せになりたい』[2008]、『蜃気楼家族』[2010- ]など)であったわけだが、『透明なゆりかご』刊行後はインタビューなどの取材も相次いでいる。

TVドラマ『コウノドリ』(TBS系列放映中)の方も相変わらず好調で、新生児の赤ちゃんをドラマに実際に登場させたり、公式HPで「撮影日誌」を掲載し、作り手の狙いや熱意を示したりなど丁寧なドラマ作りが際立っているが、『透明なゆりかご』と併せて読む/観ることでさらに両作品の味わいが増すことだろう。一般にはあまり存在を知られていない病理医を主人公にしたマンガ『フラジャイル』も2016年1月よりフジテレビ系列でドラマ化(長瀬智也・武井咲主演)が発表されており、医療ドラマも新しい局面を迎えている。

医療現場をめぐる様々な立場の視点を「物語(想像力)」を通して疑似体験させてくれることは「医療ナラティヴ(医療をめぐる物語)」の重要な役割であろう。小説家もジャーナリストも突然、病院や医療問題をとりあげることがあって(東野圭吾『使命と魂のリミット』[2006]や、堤未果『沈みゆく大国アメリカ――逃げ切れ日本の医療』集英社新書[2014]など)、その背景として家族の入院や死別が転機になることが多いようだ。病院は一般的には「非日常」の世界。一方で当然のことながら医療従事者にとっては病院を平常運転することが職務であり「日常」業務。このギャップは想像以上に大きいように思う。

医療ナラティヴの可能性を感じるのは、それぞれの医療従事者や患者、家族の視点から「想像力」によって状況を展望することができること。保険や制度上の不備、不合理も見えてくるし、それぞれの立場のギャップを「超え」て問題があれば共に対応しようとする現実的な効用も示されている。

さらに、医療を取り巻く啓蒙活動や、場合によっては行政を動かして問題改善に繋げていくことができるかもしれないのも「物語の力」ならでは。妊娠中にかかると危険とされる風疹の予防接種に対する啓蒙活動をTVドラマ『コウノドリ』の番組出演者が行ったという展開も、マンガ原作の物語が映像化によって注目されたことによる効用の一つ。一方、『透明なゆりかご』では「母性とは何か」をさらに掘り下げる方向に向かっており、看護師見習いの視点を通して、時に妊婦が「母になる瞬間」を捉え、あるいは母性を見出せない葛藤の様子を探っている。「物語の力」を通してこそ見えてくる側面が示されている。





上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。