借りてきた猫のように

――フィクションの中で生きる~映画・小説・音楽・マンガなどの日常――

2016年02月の記事

2016年2月29日

 とっくに3月に入っておりすっかり時期を逸してしまいましたが、今年は閏年(でしたね)。4年前にはじめて本を刊行させてもらった際に出版社の方から「奥付どうする?」と、こちらに選ばせていただいたので、「じゃあせっかく閏年なので2月29日でお願いします」というやりとりから早4年。次の閏年となる今年に至るまで複数の企画書がまったく実を結んでいない現実を思うとなさけないかぎりですが、「閏年=リープ・イヤー」といえば、現在、来日中のアメリカの小説家スティーヴ・エリクソンによるノン・フィクション『リープ・イヤー』(1989)が表しているように合衆国大統領選挙の年でもあり(一体どうなることやら?)、あるいは、『リープ・イヤー――うるう年のプロポーズ』(2010)なんていう映画もあって、「女性が男性にプロポーズしてもよい」というアイルランドの習わし(?)をもとにしているそうですが、今の時代でも「女性が男性にプロポーズしてもよい」ということが特別なことになりうるんですかね?

 そんなわけで2月29日は特別な感じがする一日で、作家の赤川次郎(1948- )、辻村深月といった人たちがこの日を誕生日としていて、生まれもって物語性を付与されているようでかっこいいなといつも思う。今年で作家デビュー40周年となる赤川次郎は角川映画『セーラー服と機関銃』(78/映画版は81)、『探偵物語』(82/映画版は83)を頂点に80年代にとにもかくにも大変な人気があったので、世代の差はもちろんあるだろうが、私の世代にはとても身近な存在だった(登場人物が読者と共に年齢を毎年重ねていく『杉原爽香シリーズ』[1988- 、現在までに29冊刊行中]の主人公も私と同じ年齢)。
 伊坂幸太郎(1971-)も『マリオネットの罠』(1981)を「印象深い一冊」として挙げているし、湊かなえ(1973- )も赤川作品の影響を公言している作家の一人で、ストーリー・テリングの手法を系譜として辿っていくと見えてくることもありそう。辻村深月(1980- )も、赤川作品から大人向けの文庫本に手を伸ばしていったという少女時代の読書遍歴を回想しており、本の世界への導き手としての役割にも大きなものがあったと思う。

 私自身が赤川次郎作品を熱心に読み始めたのは小児喘息やら身体が弱かったこともあってスイミング・スクールに嫌々通わされていた頃で、そこにどんな人がいたかまったく覚えていないのだが、その近くにあったスーパー内の本屋で文庫本を毎週火曜日に一冊ずつ買ってもらっていたことだけはよく覚えている。眉村卓からはじまって文庫本を読めるようになったのが楽しくなっていた頃で、まだ赤川作品の文庫の出版点数はそれほど多くなかった。
 赤川氏はオペラやクラッシック音楽に造詣が深いのだが、そちらは私はさっぱり吸収できなかったものの、「懐かしの名画ミステリー」と銘打たれたシリーズなど、主にヨーロッパの古典映画や古典ミステリーを認識する最初のきっかけをもたらしてくれた。スティーブン・キング『呪われた町』(1975/翻訳は1983)などの同時代作家もリアルタイムで紹介してくれたし、「モダン・ホラー」(『魔女たちのたそがれ』[84]、『遅れてきた客』[85]、『白い雨』[85])や「サスペンス・ホラー」(『夜』[83])などのジャンルの存在も赤川作品を通して最初に知った。田村正和が小学校教師をつとめるコメディドラマ『うちの子にかぎって・・・』(84-85)が短編集『充ち足りた悪漢たち』(82)から派生してもたらされていることなどもあり、80年代文化全般にわたって連関も強い。

 ユーモア・ミステリーで打ち立てたイメージとはおそらく対照的に、政治に対する積極的な姿勢・発言でも知られていて、『プロメテウスの乙女』(82)、『世界は破滅を待っている』(82)などの初期作品から、吉川英治文学賞受賞作となった近作『東京零年』(2015)まで、体制や監視社会に対する反骨精神が一貫して示されており、私も含めて若い世代を主たる読者層としてきたことからも影響力は意外なほど大きいのではないかと思う。
 「申し訳ないが、おまえの家も盗聴されてるかもしれないからせいぜい気をつけてくれ」と学生時代に同人仲間から告げられ絶句したことを唐突に思い出したが、それはまた別の話。「学費値上げストライキ」として定期試験がボイコットされるような大学だったもので・・・。すでに90年代だったんですけどね。「みんな何処へ行った 見守られることもなく」。

 『東京零年』は本当に久しぶりに手に取った新作で、良くも悪くも「懐かしい」感じを抱くことができたのでこのたびの吉川英治文学賞受賞は嬉しい。
 はたして、角川映画40周年記念事業となる橋本環奈版『セーラー服と機関銃――卒業』(2016)はどうでしょうかね? オリジナル版がそもそも奇跡みたいな作品でプロットだけ聞いてもおもしろいものではなく、原作自体は荒唐無稽な話を巧みなストーリー・テリングで、映画版はなんだかよくわからない力業で押し通して成り立っているわけで、アクション映画の下地が揃いながらアクション映画でもなく、アイドル映画にしてはむちゃくちゃさせられている挙句、基本ロングショット。しかしなぜか主題曲まで大ヒットして、すべてをひっくるめてその時代がよく表れているというべきか。
 一方、反社会的勢力に対する昨今の風潮を考えても新作版は厳しい感じもしますが、40周年記念事業として古典作品を見返す(見比べる)機会になるとしたらおもしろいし、時代の変化をどのように写し取れるかが新作版の見どころに。若い世代も相米慎二監督によるオリジナル版のなんだかよくわからない凄みに触れる機会になってほしい。

 ところで、この2月にも芳林堂書店倒産のニュースなどもあり書店が街から根絶されてしまいつつある。スイミング・スクールの帰りに通っていたスーパー内書店がスーパーごとなくなっているのはやむをえないとしても、この十年ほどで2回引越しをした際に「近くにこういう本屋があるならいいかも」と住まい選びの決め手になったはずの最寄りの書店も引越早々に姿を消してしまった。自分の関心外の情報にも目が届くようになるのは店舗型書店の何よりの効用になるものなので寂しい限り。新刊書の類は極力、店舗型書店で購入するようにしているのだけど。
 アメリカでは大型書店「ボーダーズ」が2011年に倒産後、街から本屋が消えて久しいと聞いていたのだが、バークレーはさすがに大学街だけあって魅力的な本屋がたくさんある。映画『卒業』(1969)にも写り込んでいる「Moe’s Books」は映画関連が意外に少ないもののさすがに圧巻の品揃え。「Half Price Books」はアメリカン・コミックスも豊富な上、CD・レコード・DVDなど音楽や映画も充実していて楽しい。「Netflix」に代表されるストリーミング・サービスやダウンロード一辺倒になってしまっている中で、バークレーにはCD/レコード店(「Vinyl Underground」)もあり、いつも賑わっている。
 大学出版局の書籍を主に扱う「Ten Thousand Minds on Fire」はまるで学会の書籍展示の常設展みたいで多彩な研究書を一望できる。ジェンダー・スタディーズ関連の書籍が充実しているヴァージニア・ウルフの小説名を冠した「Mrs. Dalloway’s」、SF/ファンタジーの「Dark Carnival」、コミックスの「The Escapist: A Comic Bookstore」など個性的な専門書店も目立つ。夜十時まで営業している「Pegasus Bookstore」には二匹猫がおり、UCバークレーからの帰り道いつも眠っている猫を愛でるのが日課に。
 とはいえこうしたアメリカの書店と日本の書店をめぐる状況には、再販制度や古本の扱いなど様々に大きな違いがあり、そもそもアメリカでの店舗型書店の方が現状、生き残りは厳しいと言えるぐらいなので店舗型書店を存続させていくのは簡単なことではないのだろうが、新しい世界に出会える交流の場であり続けてほしい。 






















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2016年2月27日


 2月27日は作家ジョン・スタインベック(1902-68)の誕生日。ということで突然思い立ってスタインベックの郷里サリーナスにあるスタインベック・センターおよびスタインベック・ハウス(現在はレストラン)に行ってきました。サリーナス訪問は3回目ですが、これまでは誰かに随行させていただく形だったので、はたして独力でいけるものだろうかと半ば諦めていたのですが、実はバークレーから近隣の「オークランド・ジャック・ロンドン広場」駅から「サリーナス」駅までアムトラック鉄道で一本、直通乗り換えなしでした(ワシントン州シアトルからロサンゼルスまでを繋ぐ便は一日一本、計36時間)。ジャック・ロンドンからスタインベックを文字通り繋ぐ沿線というのも「放浪者/ホーボー」文化の観点から示唆的に映るもので、そうくれば映画版『エデンの東』(1955)のジェームズ・ディーンの如く列車の屋根の上に飛び乗りたいぐらいの気持ちですが、私にそんな器用な真似ができるはずもなく、車掌に導かれるまま、いびきが暗闇に響き渡る車両で4時間半。干潟や農村風景がはてしなく続く車窓を楽しむことができました。

 ナショナル・スタインベック・センターはスタインベックの生家からもアムトラック駅からも徒歩十分以内で行ける町の中心地に位置する。昨年12月にはコミックス文化の祭典「コミック・コン」のサリーナス出張版がスタインベック・センターで開催されたらしく、グッズにはスタインベック自身の言葉「コミックが我らの時代の文学になるかもしれない」が記され、文学とポップカルチャーとの関係性を探るパネル・セッション「『怒りの葡萄』から『カーンの怒り(スタートレックII カーンの逆襲)』まで」なども展開されていた模様。
 さらに今年2月には「放浪詩人」のフォーク・シンガー、ウディ・ガスリーに関する新しい伝記(Woody Guthrie LA: 1937 to 1941)刊行にあわせた講演+討論会なども催されている。ポピュラーカルチャーの表現者に与えた影響力には多大なものがあり、ロード/移動の文化の原風景を確たるものにした『怒りの葡萄』の、とりわけ映画版(1940)は「ルート66」を描いたもっとも初期の大衆文化表象。役者を志していた21歳頃(1955)の筒井康隆が演じたことでも知られる『ハツカネズミと人間』(1937)の舞台版は、30年代大不況の時代の渡り労働者を描いた古い物語であるはずなのに、時代を超えて、国や言語をも超えて21世紀になってもくりかえし再演が続いている。
 主要な作品世界を立体化した常設展示は出色の出来で、ほぼすべての作品展示に映画版の映像が添えられており、大衆文化との相性の良さもよく、作品世界に自然に入り込むことができるのが魅力。短編「赤い仔馬」(1933)の展示にある馬にせよ、『怒りの葡萄』の車にせよ、そこに乗り物があれば何の逡巡もなく乗ってしまう子どもたちの姿も微笑ましく、親しまれている様子が伝わってくる。
 スタインベックの生誕114周年を記念するこの日のメインイベントは、地元の子どもたちによる「ハッピーバースデー」の合唱とケーキ。ほか、子どもたちによるスタインベック作品のキャラクターのコスプレ大会など。このスタインベック・センターでは毎年5月に「スタインベック・フェスティバル」が開催(今年は5月6~8日)されており、さらにスタインベック研究の拠点となっているサンノゼ州立大学では今年5月4~6日に国際学会も予定されている。

 「サザン・パシフィック鉄道がなかったらこの町の発展は大きく変わっていただろう」と郷土史においてくりかえし記されているように、サリーナスの街に鉄道が走った起源は1872年に遡る。アメリカ史の概説などで「大陸横断鉄道の建設が1869年で・・・」などと大雑把にざっくり触れているものの、いつ、どこをどのように走っていたのか、今だとすればどこまで鉄道で移動できるのかを探ってみるのも楽しいし、勉強になる。さらに、アイゼンハワー大統領期(1956年)に構想された「インターステート・ハイウェイ(州間高速道路)」計画や、ケネディ大統領期(1963年)の「ナショナル・スーパーソニック・トランスポート(国産超音速輸送機)計画など、移動交通機関におけるテクノロジーの発展・整備が国策と密接に繋がっている点なども視野に入れて「移動の文化史」を捉え直してみたいという思いを新たにする。
 4時間のアムトラック鉄道の旅が思いのほか楽しいものだったので、当初、未定にしていた帰りの旅程もアムトラック鉄道を選択。「アメリカでも意外に鉄道で移動できるものだな」などと思ってたら、やはりそれほど簡単に事は運ばず。駅でチケットを購入した際に、「今日は30分ぐらい遅れてるよ」と言われていたものの、結局、予定の一時間遅れで我々を出迎えてくれたのはなんとバス! おいおい。サンノゼで鉄道に乗り換えて4時間の鉄道の旅のはずが1時間に。しかもバスの方が早そうで、実際に早かった。

 スタインベックゆかりの地モントレーにも足を伸ばし、「17マイルドライブ」と呼ばれる美しい海岸線沿線をイメージしながら徒歩で周辺を散策。現地でもらったマップではじめて知ったのだが、新聞漫画『わんぱくデニス』(1951-94/伊藤武志訳文芸社版もある)の原作者ハンク・ケッチャムがモントレーを終の棲家としていたらしく作品を記念する公園がある。『わんぱくデニス』は1959年のテレビドラマ版も有名だが、私の世代には何といっても、ティーン・フィルム映画で知られるジョン・ヒューズ脚本による映画版(1993)。などというとさぞかし思い入れがありそうだが、ヒューズがティーン・フィルムから完全に訣別したことを示すような作品で発表当時は幻滅したものだ。
 文化研究を専門としていること自負もあって、3か月のアメリカ滞在中にしかできないことをできるだけやっておこうと思いつつ、大きな心残りになりそうなのは、ジョン・ヒューズのティーン・フィルムの代表作『プリティ・イン・ピンク』が1986年2月28日に公開開始されていることから、公開30周年記念イベントとして主演女優モリー・リングウォルドが随行する上映会ツアーが東海岸で行われているにもかかわらず参加できていないこと。音楽と異なり、1980年代の中途半端に古い映画の主演女優を肉眼で見られる機会なんて今後ないだろうなあと残念に思っていたところだったので、偶然、『わんぱくデニス』に出会うのも運命的に映る。
 男の子のわんぱくものといえば、フランスの児童文学に『プチ・ニコラ』(1959)シリーズがあって(大学院の受験にフランス語が必要だったこともあって原書で読んだ)、映画版『プチ・ニコラの夏休み』(2014)などを通じて今でも人気がある。日本だと時代はずれるが、大林宜彦映画(『転校生』[1982]ほか)の原作者として知られる山中恒(1931- )の『あばれはっちゃく』(1970)など、そのドラマ版(1979-85)も含めて、今読み返す(見返す)と社会派のテーマもあっておもしろいかも。山中恒については学生時代に図書館司書資格の授業で研究テーマとしてとりあげたことがあるのだが、『ハックルベリー・フィンの冒険』の日本版として発表した『とべたら本こ』(1960/1972年に「NHK少年ドラマシリーズ」としてドラマ化)などもあり、「わんぱく」もすでに死語になってしまっているかもしれず、児童文学観(山中は「児童読み物作家」を自称)の変遷や比較文化の観点から興味深い論点になりそう。

 ところで、2006年にこの公園から盗難被害届が出され、昨年におよそ十年の時を超え、1700キロ離れたフロリダ州オーランドで発見されたというのはこの銅像なのですかね? さすがわんぱくデニスらしい大冒険(?)として話題になったようですが。




















2016年2月25日


 SF(サンフランシスコ)ジャズ・センターにてテレンス・ブランチャード(1962- )作曲による<オペラ・イン・ジャズ(ジャズの中のオペラ)>『チャンピオン』を鑑賞。ブランチャードはニューオーリンズ出身のジャズ・トランペット奏者であるが、スパイク・リーの監督作品における映画音楽で知られ、デンゼル・ワシントン演じる架空のトランぺッターの半生記を描いた『モ’・ベターブルース』(1990)にて「演奏場面の吹き替え」「演技指導」などに関与して以後、『ジャングル・フィーバー』(91)、『マルコムX』(92)、『クロッカーズ』(94)、『25時』(2003)など「アメリカでマイノリティ(アフリカ系[黒人])として生きること」の意味を問い続ける作品群の中でその音楽は重要な役割をはたしており、音楽の連想が強いスパイク・リー作品にとって欠かせない存在になっている。
 また、ニューオーリンズ出身であることからも、2005年のハリケーン・カトリーナ災害の追悼・復興を支える活動に表現者として積極的に関与しており、自身のリーダー・アルバム『神の意思の物語――カトリーナへの鎮魂歌』(2007)を発表。同じニューオーリンズ出身の若いジャズ・トランペット奏者クリスチャン・スコット(1983- )『アンセム』(2007)などともあわせて「ジャズの街ニューオーリンズ」ならではの音楽文化伝統の厚み、凄みを実感させられる。ハリケーン・カトリーナ災害のその後を追ったスパイク・リーによるテレビドキュメンタリー番組『堤防が壊れる時――あるアメリカの悲劇』(2006)や、女性キャスター、ロビン・ロバーツによるテレビドキュメンタリー『カトリーナ――嵐の十年後』(2015)においてもブラチャードは音楽を担当している。アフリカ系のルーツ・文化伝統を継承することに対しても自覚的であり、弱者・マイノリティに寄り添う姿勢が貫かれている。スパイク・リー作品以外にも、未見だがアフリカ系女性作家ゾラ・ニール・ハーストン『彼らの目は神を見ていた』のテレビ映画版(2005)の音楽なども手がけているようだ。

 スパイク・リー作品の要として、また、ハリケーン・カトリーナ災害のその後を辿る数々作品に大きな関与をはたしていることからも、サンフランシスコでの公演情報を知り、私にとってはまったく不案内な世界ながらSFジャズ・センターに足を運んでみました。

 公演『チャンピオン』は「オペラ・イン・ジャズ」と銘打たれた手法によるもので、「ジャズ・オペラ」ではない点に特色があるらしく、確かにミュージカルのようでありながらミュージカルでもなく、演奏家が前景に位置づけられる会場配置が強調されており、芝居の舞台は後景とされている。いつもは音楽監督の立場から映像の表現者の作品を引き立てることに専心しているであろうことからも、歌詞・台詞による「言葉」や「物語」、「演劇」による表現を添えながら自らの作品世界を構築していく試みは、穿った見方かもしれないが、音楽家にとってある種の理想の具現化であると言えるのではないか。
 この公演が再演となる『チャンピオン』(2013年初演)は二幕もので、実在のボクサーで世界王者(二階級制覇)であったエミール・グリフィス(1938-2013)を主人公にした物語。晩年のグリフィスが重度の認知症に苦しんでいたという実際の史実を踏まえ、過去の記憶が混濁した状態であることにより、プロボクサーになる前の「青年時代」、ボクサーとして絶頂期を迎えていた時期に起こった1962年の「伝説の悲劇」、そして要介護状態である「今現在」とが交互に描かれる。「プロボクサー/世界王者」エミール・グリフィスのベスト・マッチであり、キューバ出身の好敵手ベニー・パレットとの伝説の試合にて、グリフィスの連打を浴びたパレットはコーナーで昏睡状態に陥った挙句、試合の十日後に命を落としてしまう。グリフィスはKO勝ちを収め王座を得るも、この悲劇により、生涯、不眠症にわずらわされたという。
 試合前にパレットからゲイを表すスラングで挑発されていたこと、晩年にグリフィスがバイセクシュアルであることをカミングアウトしたこと、同性愛者に対する差別が高まっていた1992年にゲイ・バーを出てきたところを暴漢に襲われ瀕死の重傷を負っていることなど、セクシュアリティをめぐる問題や、母親、妻、息子(養子であり物語上の現在、介護人でもある)を交えた家族をめぐる要素も重ね合わされ、「音楽」(演奏)と「演劇」双方による身体表現により、哀切の情感がホール全体を重苦しく満たす。
 ブルース・スプリングスティーンが主題曲を提供した、ミッキー・ローク主演映画『レスラー』(2008)をも想起し、「オペラ(演劇)/映画」「ボクシング/プロレス」「ジャズ/フォークロック」との違いを何となく感じながらも、私自身は「ジャズ」も「オペラ」も「ボクシング」も不案内であるためになおも未消化なままであり続けているのだが、ジョイス・キャロル・オーツによるノン・フィクション『オン・ボクシング(ボクシングについて)』(1987)を今読めばもう少しわかるだろうか。生をまっとうしたボクサーの物語が充分に表現されていて、その重たい余韻も不思議と悪くない。これが「ジャズの中の歌劇」であるゆえんなのだろう。













2016年2月22日

 チャップリンの世界的コレクター・大久保俊一さんにご紹介いただいた、サイレント映画研究者・映画史家のジョン・ベングトソンさんにさらにご紹介いただく形で、ナイルズ・サイレント映画博物館へ。とんでもなく辺鄙な田舎町で一生たどり着けることはないだろうという印象を勝手に抱いていたのですが(失礼ですみません)、大久保さんからも直々に「西海岸に滞在しているならチャップリンの初期作品を制作したエッサネイ・スタジオが存在していたナイルズにある映画博物館をぜひ一度は訪問しておくべき」というご示唆をいただいたことが強い後押しに。何といってもチャップリンの放浪紳士のイメージを決定づけた『チャップリンの失恋』(The Tramp, 1915)のロケ地でもあるので、さながら聖地巡礼の趣を持つ訪問となりました。

 エッサネイ・スタジオは映画プロデューサーのジョージ・スプア(「S」)と「ブロンコ・ビリー」アンダーソン(「A」)と呼ばれた西部劇スターの頭文字「S and A=エッサネイ」に由来して命名され、1907年にシカゴにて創設。その後、西部劇を得意としていたことからその舞台にふさわしいカリフォルニア州フレモントのナイルズ渓谷の麓にスタジオを構え、チャップリンが在籍していた1915年から16年頃を全盛期とした。チャップリンのエッサネイ期は退社後にチャップリンの許諾なしに編集されたものを含めても14本。きわめて短い期間にすぎないのだが、前述の『チャップリンの失恋』や、『街の灯』(1931)に繋がるボクシング・モチーフの原型ともなる『チャップリンの拳闘』(1915)に加えて、模索期として女装もの(『チャップリンの女装』)や、大衆自動車(T型フォード)によるカーチェイス場面(『チャップリンの駆落』)、さらに酔っ払い芸+初期専属女優エドナ・パーヴァイアンスの初出演作品『アルコール夜通し転宅』などもあり、チャップリンの作品への親しみが増すほど味わい深い時期となるように思う。
 ちょうど百年前に映画産業で脚光を浴びたナイルズの町はチャップリンの退社後、衰退し、1925年にワーナー・ブラザーズに吸収され、再び、小さな田舎町に戻る。百年前の光景(建物)があたかも時間が止まったかのように随所に残っている。

 ジョン・ベングトソンさんにナイルズ・サイレント映画博物館のデイヴィッド&リーナ・キーンさんご夫妻をご紹介いただいたことにより、館内および町めぐりの特別ツアーをしていただき、昔の写真と重ねながら『チャップリンの拳闘』のロケ現場などを巡ることができた。デイヴィッド・キーンさんは『ブロンコ・ビリーとエッサネイ社』(Broncho Billy and the Essanay Film Company, 2003)の研究書で知られる映画史家であり、映写機などサイレント映画時代のコレクターでもある。映画博物館には専用シアターも併設されていて毎週末に上映会が開催されており、キーンさん自身によるフィルム映写により古典映画鑑賞を楽しむことができる。私の訪問時は、『チャップリンの移民』(1917、エッサネイ期ではない)、『キートンの空中結婚』(1923)、チャーリー・チェイス(His Wooden Wedding, 1925)、ハロルド&ローディ(Do Detective Think?, 1927)のサイレント喜劇映画特集上映。弁士が入るわけでもなく、サイレントのしかも喜劇なんて要求されるリテラシーも高く、場面状況を認識するだけでも時間がかかるはずであるのだが、百名を超える観客は最初から大爆笑の連続でよほど皆の目が肥えているのか、最初から笑う覚悟を決めてきてるのか、なんだかよくわからないなりに笑いの渦に引きずり込まれてしまうのも映画館で鑑賞する醍醐味。
 キーンさんご夫妻は平日は別の仕事をされているらしく、映画博物館を開館しているのは週末のみであるのだが、貴重なコレクションを開示し、フィルム/映写機コレクションによる上映会を行うなんてコレクターにとってまさに夢を具現化した境地なのではないか。
 毎年6月末には「ブロンコ・ビリー映画祭」も開催されていて今年で19回目を迎える。「ブロンコ・ビリー・シリーズ」は1912年にナイルズ地区にスタジオを構えてからのわずか4年ほどの黄金時代の中で300を超える数の西部劇作品をもたらした人気作。馬の曲乗りによる大道芸「ワイルド・ウェスト・ショー」の大衆文化の伝統と、後に発展することになる西部劇映画との間を繋ぐ位置づけにあり、クリント・イーストウッドによる映画『ブロンコ・ビリー』(1980)に体現されているように古き良き西部イメージの源泉にもなっている。「ブロンコ・ビリー」アンダーソンは、初期映画の『大列車強盗』(1903)の出演者の一人でもあり、アメリカ映画の黎明期/大衆文化における西部イメージの生成過程を探る上で重要な存在。

 訪問時、博物館に入るとすぐに品のよさそうなおばあさんがちょこんと座っていて、実はサイレント映画時代の子役女優「ベビー・ペギー」として名を馳せたダイアナ・セラ・キャリーさん(1918- )だそうで、チャップリンの『キッド』(1921)で知られるジャッキー・クーガン、「ベビー・マリー」と並び、サイレント時代の三大有名子役の一人。子役の常というか、伝説の子役女優シャーリー・テンプル(1928-2014)の登場よりも十年ほど先駆けているわけでその元祖となるわけだが、自伝(What Ever Happened to Baby Peggy: The Autobiography of Hollywood's Pioneer Child Star, 1996)からは、「ベビー・ペギー」の子役イメージからの脱却に苦しみ、人気の絶頂、社会的・金銭的成功からの転落など波乱万丈の人生が伝わってくる。出演作の多くは残存していないのだが、近年のアーカイブ化の流れの中でいくつかの作品の修復・保存作業が進んでおり、パブリック・ドメインとされていることからもYoutubeで閲覧できるものもある(The Family Secret[1924]など)。
 特別ツアーをしてくれたリーナさんが西部劇やサイレント映画時代の女優の役割を強調していたのが印象に残るものであった。さらに新たにハリウッドにあるハリウッド・ヘリテージ博物館とセメタリーツアーの主催者を紹介してもらう。不思議な縁がかすかに繋がっていくのもおもしろく、ありがたい。

 路線バスとBART(ベイエリア鉄道)を乗り継ぎながら帰る途中でふと思い立ち、放浪作家の先駆者ジャック・ロンドン(1876-1916)の郷里オークランドに立ち寄る。今年はロンドンの没後百周年になるが、チャップリンの放浪者連作の原型がもたらされた時期にも相当し、自伝的回想録『ジャック・ロンドン放浪記』(The Road, 1907)は大衆文化におけるホーボー表象の原風景となる作品。
日曜午後だったこともあって海に面したジャック・ロンドン広場はうららかな春の休日を過ごす人々でにぎわっていたのだが、なぜかジャック・ロンドンの銅像と小屋は標識を覗き込む人たちが列をなすほど。はて?(かくいう私も写真まで撮る観光客なわけですが)













2016年2月21日



 いつまでも旅行の余韻にひたっているのもどうかと思いながら、オーランド滞在からさらにいくつか追加で。
 ユニバーサル・テーマパークは日本のUSJも訪問したことがなかったためにフロリダがはじめて。ディズニー・ワールドと比しても、様々な要素が混在した印象で実のところ今に至るまでうまく掴みきれていないのだが、「ユニバーサル・スタジオ・フロリダ」(USF)は1990年の開園で、「映画文化の拠点ハリウッドエリア」「1930年代ニューヨークの街並みを模したエリア」「サンフランシスコのイメージで構成されるエリア」などで構成されている。これに加えて『ザ・シンプソンズ』(1989~ )の舞台「スプリングフィールド」や「ウッドペッカーズ・キッズゾーン」などもあり、なんだかよくわからないごった煮状態。アニメーション『快盗グルーの月泥棒』(2010)のキャラクター、ミニヨンの人気も目立ったが、何といっても『ハリー・ポッター』の人気が凄まじく、「ダイアゴン横丁」は大混雑で、パーク間を繋ぐ「ホグワーツ鉄道」も結構な待ち時間。ローブを身にまとった子どもたちが一杯なのは微笑ましい光景。
1999 年開園の「アイランズ・オブ・アドベンチャー」(IOA)はさらに混沌としていて、2つのランドを繋ぐ「『ハリー・ポッター』エリア」に加えて、「マーベル・スーパー・ヒーロー・アイランド」ではスパイダーマンやキャプテン・アメリカが気軽に写真撮影に応じてくれる。古いアメリカ文化好きに嬉しいのは「トゥーン・ラグーン」エリアで、アトラクションはあまりないのだが、『眠りの国のリトル・ニモ』、『クレージー・カット』、『ガソリン・アレー』といった「カートゥーン=古典新聞コミックス」の看板を掲げたグッズ売り場が並んでいる。『初期アメリカ新聞コミック傑作選1903-1944』(柴田元幸監修、創元社、2013)の世界に入り込んだかのような感覚に。ほかベティ・ブープ専門グッズ売り場もあって、筒井康隆『ベティ・ブープ伝――女優としての象徴 象徴としての女優』(1988)を熱心に読んだこともあり、はりきって売り場を周ったのだが残念ながらTシャツなどはすべて女性用。まあ私では着こなせないだろうけど。
 絵本作家で有名なドクター・スースをモチーフにした「スース・ランディング」もあり、テーマパークを通して若い世代がアメリカ文化に親しんでもらえるとしたら嬉しい(と思ったら、日本のUSJにはないみたいで残念)。ドクター・スース『キャット・イン・ザ・ハット』は伊藤比呂美訳もあるし、伝記『ドクター・スースの素顔――世界で愛されるアメリカの絵本作家』(彩流社、2007)も興味深く読んだ一冊。
 ほか『ジュラシック・パーク』の恐竜エリアや「ロスト・コンチネント」の古代遺跡探索エリアなど全般的に男の子向きの嗜好が中心となっているように映る。アトラクションの移り変わりも激しいようでオフシーズンとなる今現在も改装中が多く、これまでにもヒッチコック、『JAWS』、『ゴースト・バスターズ』、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』などがすでに姿を消してしまったようであるが、世代を超えて共有できる可能性も大いなる魅力であるので古典やちょっと古い作品関連も継承していってほしい。ここらへんにユニバーサルとディズニーとの大いなる姿勢の違いがあるのかもしれない。

 マンガ『宇宙兄弟』(2008- )好きの同行者の希望もあって、さらにオーランド近郊の「ケネディ宇宙センター」へ。思い返せば、父親の勤務先が宇宙事業に関与していたこともあって、父親の同僚から種子島宇宙センターの話を聞かせてもらう機会もあったわりには、私自身はまったく関心がもてないまま今に至っており、「宇宙のロマン」はどうもぴんとこない(『ふたつのスピカ』[2001~09]など好きな作品もあるけど)。その要因を考えてみると藤子・F・不二雄『21エモン』(1968-69)の影響は思いのほか大きくて、老舗のオンボロ旅館の後継ぎを期待されながら宇宙飛行士を目指す主人公がその道中ででくわす宇宙の話や過酷な冒険の顛末が真に迫っていて強烈に印象に残っている。医療が発達したある星では長生きすることにうんざりしてしまった老人たちがすべてを消去するゼロ次元に向かうためにベルトコンベアに乗る列を待っている。あるいは脳にとりつく寄生生物に乗っ取られてしまった惑星のエピソードなどふとした時に思い出してしまう。『21エモン』で宇宙や冒険が怖くなり、『タイムパトロールぼん』(1978-86)で歴史が嫌いになった。歴史/冒険マインドあふれる物語のはずなのに申し訳なさでいっぱい。ちなみに21エモンの主人公は2010年1月生まれの設定とのことで、へえ。まあ21世紀ですからねえ。
 そんなわけでふだんは積極的に接することがないアメリカの宇宙事業の歴史について触れることができ、冷戦構造を軸としたアメリカの政治・科学文化史を展望することができたのは収穫。
 
 さらに宿泊したキシミーのエリアには、「オールド・タウン」と呼ばれる遊園地があって散策しても楽しい。「チョコレート・キングダム」という菓子店では、チョコレートの歴史や製法を紹介してくれるツアーもあり、好みのチョコレートを作ってもらえる。オールド・タウンは1980年頃の開園で長い歴史を持つものではないようだが、てっきり年齢や身長制限などテーマパークでは制約が多い子ども向けなのかなと思い込んでいたらさにあらず、「逆バンジージャンプ」など過激なアトラクションばかりで真夜中まで悲鳴がこだまする。
 遊園地はどことなく物悲しいイメージがつきまとうもので、こちらはアニメ映画『うる星やつら3 リメンバー・マイ・ラブ』(1985)の影響が強いかも。どうしてこんな作品になってしまうのかという失望も含めて。印象深い場面もあるし、今となっては悪い作品でもないのだろうけど、当時、期待していた作品と違ったというか・・・。
遊園地の文化史も興味深いもので、中でもニューヨーク、ブルックリンにあるコニーアイランドのルナパーク遊園地は何度も断続しながら現在も存続しており、初期映画や『キートンのコニーアイランド』(1917)などのサイレント喜劇映画をはじめとする大衆文化の中でくりかえし描かれてきた。1893年のシカゴ万博において世界初の巨大観覧車が登場したとされており、万博と遊園地との結びつきも強い。日本では私鉄による開発が大きな役割をはたしており、阪急電鉄による「宝塚新温泉(宝塚ファミリーランド)、1911-2003」、京阪の「ひらかたパーク」(1912~ )や、東急の「多摩川園」(1925-79)、小田急の「向ケ丘遊園」(1927-2002)、西武の「としまえん」(1927~ )、「西武園ゆうえんち」(1950~ )など。東武鉄道による「兎月園」(1924-43)などというものもあって、「華族、財界や富裕層が多く利用した(?)」茶店や料亭、ボート遊びのできる池、テニスコート、動物園、運動場、映画館、露天風呂などを備えた総合娯楽施設であったそうだが、現在では「兎月園通り」という通りの名前と「兎月まんじゅう」を除いてまったく足跡を辿ることができない、もはやSFのパラレル・ワールドに近い感覚。
 老舗の遊園地の多くが姿を消し、存続しているものでもすっかり変容(としまえんもすっかり温泉とプール施設に)し、時代の遺物となってしまったわけで、そのあたりも物悲しさを感じさせる要因なのだろう。










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2016年2月18日



「ディズニーランドに行ったって 幸せなんてただの非日常よ」
――大森靖子「絶対彼女」(2013)

 アメリカ南部旅行、3ヵ所目で最後となる訪問地はフロリダ州オーランド。何のことはないディズニー・ワールド・リゾートで有名な地ですが、1月にサンフランシスコにあるディズニー・ファミリー博物館を訪問した際にディズニーの「エプコット」思想に興味を抱いたこと、また、同様にサンフランシスコにあるビートミュージアムにて出会った書物、Bob Kealing, Kerouac in Florida: Where the Road Ends (2011)に導かれたことによる。
 ビート・ジェネレーションを代表する作家であるジャック・ケルアック(1922-69)といえば、ビート博物館がサンフランシスコにあることからも西海岸の印象が強いだろうが、フロリダ州のオーランド(1956-61)および近隣のセントピーターズバーグ(1964-69)にて晩年(といっても享年47歳)を過ごしている。ニューヨークやモロッコ、出身地のマサチューセッツなどを様々に転々としながらも、ケルアックがオーランドで過ごした日々は代表作となる『路上』(1957)や、禅の思想への傾倒を示した精神的放浪記『ザ・ダルマ・バムズ』(1957)などを刊行・執筆していた時期とも重なる。今でこそオーランドといえばすなわちディズニー・ワールド・リゾートに代表される人工的な観光都市という印象が根強いが、オーランドの地にディズニー最初のテーマパークとなるマジック・キングダムが開園することになるのはケルアック没後の1971年であって、ケルアックとディズニーとの組み合わせは時期的には重なっていない。
 姉夫婦の移住にあわせてケルアックが母親と共に移り住むことになったオーランド時代の住居は現在「ケルアック・ハウス」という名称を付され、国家歴史登録財の指定を受けると同時に、創作活動を支援する「ケルアック・プロジェクト」(http://www.kerouacproject.org)の拠点となっている。小説家などの表現者がこの家に滞在することを通して創作・交流活動の源にしようとする発想は、現在なおも大きな影響力をもつケルアックにいかにも似つかわしい。ディズニーのリゾートエリアから車で40分ほど(オーランドのダウンタウンからは10分ほど)の距離にあるケルアック・ハウスは湖のほとりにある、のどかで閑静な住宅街の中にあり、自然に囲まれ暮らしやすそう。
 ケルアックのフロリダ時代については、ノンフィクション作家・檀原照和氏が『ケルアックの暮らした家――創作の現場を博物館にしないということ』(スタジオ天神橋、2013、電子書籍)として取材成果をまとめていて、日本のケルアック受容における偏りを指摘しつつ、「ライターズ・イン・レジデンス」という創作・交流活動への支援事業について日本での可能性をも含めて幅広く展望しており、読みごたえがある。
 「放浪者ケルアック」は車で移動するイメージが強くあるが、実は「生涯、運転免許を取得することはなかった」というのはおもしろい意外な事実。えー、私はタクシーでわざわざケルアック・ハウスに行きました。

 さて、ディズニー最晩年の主要な仕事に位置づけられる「エプコット」構想は「未来社会への実験的モデル」(Experimental Prototype Community Of Tomorrow)を志向するものであり、1964年のニューヨーク万博への関与の中で育まれ、ディズニーの没後、その意思を継いで1982年にテーマパーク「エプコット・センター」として完成し、今に至る。「エプコット」は「人類の過去と未来を映し出す『フューチャー・ワールド』」と「世界各国の伝統文化を紹介する『ワールド・ショーケース』」の2つのエリアに大別される。私の世代であれば、「つくば万博」(国際科学技術博覧会、1985)を想起させられるもので、当時、小学生だったこともあり、未来に対する(根拠のない)期待感や科学・テクノロジーに対する信頼感に加えて、バブル景気に向かう時代思潮なども重なり、不思議な明るい懐かしさにとらわれる。なぜか「日本館」に宮島(厳島神社)の鳥居があるのがよくわからないが、私の郷里である広島のシンボルにこんなところで出会えるのもシュールではあるけれど嬉しい。

 ディズニー・ワールド・リゾートを概観してみることで(と言いながらただ遊んでただけですが)、「科学テクノロジー」「歴史」「世界」を掌握しようとするディズニーの思想と意思が「万博」の世界観と密接に繋がっていることを改めて再認識することができた。1964年のニューヨーク万博にてリンカーン大統領を機械仕掛けで再生させようとした「アニマトロニクス」(1967年にディズニー・カンパニーによる商標登録)の手法は、アニメーションを立体化させる試みでもあり、人造人間を作り出そうとする欲望などをも感じさせるものでひときわ印象深く映る。
 「アメリカ館」の展示「The American Adventure」は、アニマトロニクスによるマーク・トウェインとベンジャミン・フランクリンが語り手となってアメリカの歴史をふりかえる構成。環境問題を軸に据えた2005年開催の「愛・地球博」(日本国際博覧会、愛知県)でも、避雷針の発明家でもあるフランクリンが「アメリカ館」の語り手となることによって、環境問題をめぐる様々な難局を、人類の叡智で乗り切ろうとする肯定的なメッセージを発することができ、他国のあり方と大きく異なる特色となっていた。マジック・キングダム内のアトラクション「The Hall of Presidents」においても、アニマトロニクスによる歴代大統領が勢ぞろいしてアメリカの歴史と未来を語るものになっており、良くも悪くもアメリカならでは。アメリカをめぐる言説史におけるディズニーの役割の大きさを象徴するものでもある。最後をオバマが締めくくるのはとても見栄えがするのだが、はたして次期大統領はどうなることやら?

 ディズニーランドなんてふだんはまったく縁遠いこともあり、また、日本と比してもさほど混雑していない(オンライン上で予約できるファストパスなども機能的)こともあって、開園前から真夜中0時の閉園まで(皆さんそんなにがつがつ遊ばないらしく帰りのバスはほぼ私たちだけ)満喫することができました。
 バークレーのアパートに深夜に帰宅してみると、ただごとでない妙な異臭がするので一体何ごとかと思ったら、なんと不在中に冷蔵庫が故障していたらしく冷凍食品などが全滅。いやあひどいもんでしたよ(通報される前に帰宅できて本当によかった)。「ディズニーランドの幸せなんてただの非日常」なんですね。一気に現実に引き戻され、そこからほぼ徹夜で大掃除。レイモンド・カーヴァーの短編「保存されたもの」(1983)は、冷蔵庫の故障以後、停滞していく夫婦をめぐる物語ですが、冷蔵庫の故障は本当にどうにもならないおそろしい悪夢であることを、五感(といってもさすがに味覚は外して)を通していやというほど実感できました。





2016年2月17日


アメリカ南部旅行、2ヵ所目の訪問地はアトランタ。社会人対象の映画文化論講座などで『風と共に去りぬ』(1936/映画版は1939)をくりかえしとりあげながら、これまでに訪問する機会をもたなかったために念願の訪問となりました。

アトランタは古くから鉄道の町として知られ、地理的・地形的要因により中継地点となることから、現在も鉄道自体は交通網として残存し、ニューヨークからニューオーリンズまでを結ぶ鉄道により移動することができる(ただしものすごく時間がかかる上に一日一便のみ)。また、航空会社デルタの本社があることもあり、アトランタ空港はハブ空港として機能しており、世界最大の利用者数を誇る。こうした利便性の良さからも企業の本社が多く置かれており、アトランタは「南部らしくない」商業都市としての側面も持つようだ。
中でもアトランタ発の世界企業として知られるのがコカ・コーラ社。「コカ・コーラ博物館(ワールド・オブ・コカ・コーラ)」では1886年の創設以来、イメージ戦略と広告展開に力点を置いてきた同社の足跡を辿る展示が圧巻。「もともと自然療法・代替医療の一環として薬剤師によって生み出された」「生成法(配合レシピ=フォーミュラ)は最高機密とされている」などトリヴィア的な知識に事欠かず、「コカ・コーラの原液に落ちた作業員が骨も残らずに溶けた」など、「コークロア」(コカ・コーラのフォークロア)と称される都市伝説化された逸話も数多い。
一企業の広告展開を辿るものにすぎない展示であるはずなのに、アメリカ大衆文化史のみならず、特許・商標登録を含めたメディア文化史の発展過程をそのままなぞるものになっている。知名度に乏しかった黎明期に積極的に女性モデルを広告に起用していたことから、『Coca-Cola Girls: An Advertising Art History』(2000)などをも参照すれば、「黎明期(1897-1919)」「イメージの発展期(1920-49)」「古典イメージの終焉(1950-69)」といった展開を通して、ヴィクトリア朝の女性観からフラッパー、ピンナップ・モデルといったアメリカ女性ファッション文化史の変遷を見ることもできる。さらに、「家族で楽しむコカ・コーラ」のイメージ形成に大きく寄与したのが画家ハッドン・サンドブロム(1899-1976)による「コカ・コーラ」サンタクロースであり、1931年から64年まで制作した広告における「赤い服を着た白髭で恰幅のよい陽気な老人」としてのサンタ表象はコカ・コーラ広告の枠を超えて現在に至るサンタクロースのイメージ形成(変容)にも多大な影響を及ぼしたとされる(コークロアの一つとする見方もあり諸説ある)。
19世紀末に創設されていることからも、大衆文化、消費文化、メディア文化の発展期と軌を一にしている。若者向けにエッジを効かせた広告戦略を得意とするペプシと好対照をなしているように、コカ・コーラは「皆で楽しく」という一貫したイメージを作り上げてきていることからもアメリカ文化のアイコンとして機能しており、太平洋戦争期の戦時協力(1941年に軍需品として正式認可)なども含めて、そのイメージ生成・発展過程を一望できるのが楽しい。日本でのコカ・コーラCMを年代順にまとめたDVD集(『The Coca-Cola TVCF Chronicles』2008)などをも比較参照するならば、はじめてコカ・コーラのTVCMが放映された1962年以後、80年代半ばぐらいまでアメリカ文化がまだ遠い存在であった時代の日米関係の距離感も見えてくるだろう。
 コカ・コーラ博物館では、コカ・コーラの企業戦略として「箱買い/まとめ買い」の景品なども様々に展示されており、そういえば昔は近所の同級生の家が営む酒屋で購入してよくグラスをもらっていたものだ。昭和の光景。さらに、1987年に桑田佳祐がコカ・コーラのキャンペーン企画でホール&オーツとジョイントし、そのプロモーション・ビデオとテレフォン・カードが非売品の抽選景品とされていたために、コカ・コーラ三昧で過ごした過酷な日々を思い出すだけでゲップが出そうになる。
 私自身、一頃、TVCMをめぐる異文化比較研究を進めていたこともあったので(2006年頃)、展示の数々を存分に堪能できたのだが、グローバルに展開しているコカ・コーラ社による世界のローカル・ドリンクを試飲することができるのも魅力。「中南米」「アジア」「ヨーロッパ」「アメリカ国内」など地域毎に設置されたローカル・ドリンクは約60種類に及び、それぞれの地域の味の嗜好も何となく見えてくる(ような気になってくる)。子どもたちと争うように全種類を制覇すべく挑んでいると、「そこは壊れてるよ」と親切に教えてもらう。そういえば、昨夏に水木しげるロードを訪れた際に妖怪スタンプラリーを周っていた際も、ふと気づくと競争相手は小学校低学年以下と目される子どもだけだったな。

 肝心の『風と共に去りぬ』関連では、「マーガレット・ミッチェル・ハウス記念館」「ロード・トゥ・タラ博物館」などをめぐることができ(残念ながらパノラマ画アトラクション「サイクロラマ」は移転改装中)、歴史博物館やニューオーリンズでのプランテーション見学、さらにキング牧師の生家を含む歴史地区などをも併せて歴史や文化史の学び直しをすることができた。南部料理を実際に体験できたのも得がたい。岩波文庫(荒このみ訳)、新潮文庫(鴻巣友季子訳)と『風と共に去りぬ』の新訳が昨年、相次いで刊行され、今年は原作刊行から80年を迎えることもあり、さらに話題になりそうだ。映画版の魅力も今なお絶大で、大学生の若い世代であっても、スカーレット・オハラを「わがまま」とみるか、「でも自由で個性的でかわいらしい」とみるかで議論が白熱する。そんなふうに率直な反応を得られる作品は本当に珍しいんですよ。メラニー役の女優オリヴィア・デ・ハヴィランドは東京生まれで今年100歳になるお年でご存命!
 このたびの米国研修で鍵としているのは「都市と万博」の観点なのだが、綿花博覧会をテーマにした1895年のアトランタでの万博では、アフリカ系の指導者・教育者ブッカー・T・ワシントンによる「アトランタ妥協」と称される演説がなされている。黒人の側から白人体制側への歩み寄りを指南する演説であり、批判されることももちろん多いのだが、今現在においてもアフリカ系が6割を占めるこの町にいると否応なく人種や歴史を意識せざるをえず、おそらくは軋轢を避けるように人々は生活している。電車に乗っていても、あるターミナル駅を境に乗客の人種構成ががらりと入れ替わる。

 あまり観光ガイドブックに出ていないお勧めスポットとしては、「APEX(African Panoramic Experience)博物館」と呼ばれるアフリカ系の歴史を伝える博物館。キング牧師歴史地区の近くにあり、ダウンタウンから歩いていける距離。奴隷船内の状況がいかに過酷で劣悪なものであったかということは比較的よく知られているが、奴隷船を立体的に再現した展示は迫力がある。また、箱の中に黒人男性が閉じ込められている立体模型がごろっと剥き出しのまま置かれていて、何ごとかとぎょっとさせられるが、これはヘンリー・「ボックス」・ジャクソンという逃亡奴隷をめぐる展示。奴隷の男性が自由を求めて、自らを箱詰めし、北部の反奴隷制支持者宛てに郵送手続きをとった実体験に基づく。ヘンリー・ジャクソンは北部に逃れ、奴隷体験記を発表し(1849年)、講演などを行いながら資金を貯め、英国に移住後、離れ離れに売られてしまっていた妻子を買い戻している。
 接する年齢によってはトラウマを植えつけてしまうことになるだろうが、「パノラミック・エクスペリエンス」に重きを置いた立体展示を通して歴史を学ぶことは効果的であろう。門も開いておらず、ブザーで呼び出して開けてもらうような小さな博物館だが、行ってみてよかった意外な収穫に。












2016年2月15日


 アメリカ滞在中にこれまでに行ったことがない地域も周ってみようと思い立ち、はじめてニューオーリンズを訪問することができました。
 訪問の第一の目的は、2005年8月下旬に多大な被害をもたらしたハリケーン・カトリーナの悲劇から十年経った今現在のニューオーリンズがどのような状況であるのか探ってみたいというもの。現在取り組んでいる科学研究費課題は、1906年のサンフランシスコ大地震から2005年のハリケーン・カトリーナ災害までのおよそ百年の間に映像表現が(フィクションも含めて)どのように災害を表象してきたのか、その問題点をも含めて展望する試み。ハリケーン・カトリーナ災害はもっとも甚大な被害を受けた地域が、アフリカ系を中心に生活条件の厳しい階層の居住区と重なった上に、救出・復興作業が尋常でなく立ち遅れたことにより、人種や階級をめぐる社会構造的な問題が指摘されてきた。土地勘もないし、車の運転もできないし、実際には被災地の様子を直に見聞することなどできないだろうと諦めていたところ、「ハリケーン・カトリーナ・バス・ツアー」が存在することを知り、参加することができた。
被災地跡を観光の見世物にするかのような動向に対して「ダーク・ツーリズム(ブラック・ツーリズム)」と称して賛否両論あり、災害を研究対象にすることに対する倫理的姿勢ももちろん問われることになるのだが、災害を風化させることなく歴史化して語り継ぎ、復興事業の現況と今現在の問題点とを顕在化させることによって学びの場として捉えようとしている。現場で何が求められ、何が問題となっているのか、マスメディアを通して災害直後には世間の関心が集中し、世論が高まり、チャリティ活動などに繋がり、様々な形で多くの貢献がもたらされる。もちろんそれはとても大事で有益なことであるけれども、それまでの日常が突然に分断されてしまった人たちや町の「その後」の様子や問題点などは時間をおかなければ見えてこない面もある。さらに災害を描いた物語がどのような形で現れ、どのような役割をはたしうるのか。そこに問題点がありうるとしたらどのような課題として受けとめればよいのか。十年経った今でも、救助や救援物資を求める人々のメッセージが壁に書かれたまま打ち捨てられた家の数々を見ながら厳粛な気持ちになると同時に、災害を観光地化することにより、語り継ぎ、復興の現況と今後の計画について周知、共有しようとするアメリカのたくましさをも実感することができた。

 ニューオーリンズといえばアメリカの中でももっとも古い町の一つであり、長い間、交通の大動脈としてミシシッピ川上の蒸気船が機能していたこともあり、文化や様々な人種が混淆する刺激的な町であり続けてきた。地名やクレオール/ケイジャン料理、大聖堂などを通して今でもかつてフランス領であった名残を随所に辿ることができるし、奴隷制度を背景に発展を遂げたプランテーション農園は良くも悪くもこの地域の文化を独自のものにする要因となった。ジャズの発祥の地(諸説ある)としても知られるように、町の至るところでプロ・アマ問わず、音楽に満ち溢れている。古い建物が多く残っていることからも、映画のロケ地としてもよく用いられているようで、くりかえし耳にしたのは、ニューオーリンズ出身の作家であるアン・ライスの『インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア』(映画版は1994)と『ベンジャミン・バトン――数奇な人生』(2008)の舞台であり、撮影が行われた場所であるということ。文学の領域でも作家たちにとって刺激的で、想像力を育む場所であり続けてきており、マーク・トウェインから、ウィリアム・フォークナー、地元出身であるトルーマン・カポーティ、劇作家のテネシー・ウィリアムズなどの足跡を様々に辿ることができる。ジャズにしてもブルースにしても、安価で気楽にトラディショナルなスタイルを楽しめるものが多く、敷居が低く、なおかつ奥が深い。
 さらに日本との関連でいえば、何といってもラフカディオ・ハーン(小泉八雲)が過ごした町でもあり、記者時代の1882年~87年に住んでいた家が現在、「国家歴史登録財」指定を受けている。この建物はアパートとして現在も居住者がいるようであるのだが、町の中心地からも歩いていける距離にある。ニューオーリンズは「幽霊ツアー」も人気があり、埋葬の習慣も独特で、ヴードゥー教などの宗教文化にも特色があることからヨーロッパ出身であるハーンがこの町でどのように怪談話に対する関心を深めていったのかを考えるのも楽しい。1884年のニューオーリンズ万博の時期にジャーナリストの視点からニューオーリンズ独自の食文化や風習を紹介する本を刊行していること(『クレオール料理読本』[1885]ほか)、また、万博を通して日本人と交流を得たことにより日本に対する関心を抱く契機になったことなどから、やはり万博が大きな役割をはたしていることも興味深い。ハーンが日本で過ごした町の一つである島根県松江市と友好都市交流がなされており、『ニューオーリンズとラフカディオ・ハーン――「死者たちの町」が生む文化混淆の想像力』(八雲会/今井出版、2011)など書籍や講演会、展覧会など松江のハーン研究が近年目覚ましい成果を次々に挙げている。

「マルディグラ」と呼ばれるお祭りと部分的に滞在時期が重なっていたこともあり、本祭当日(2月9日)の様子は見られなかったものの、一週間続く祭りの一部を垣間見ることができたのも収穫であった。もともとはカトリックに根差した宗教行事であるが、現在では宗教性が薄れてしまっているとのこと。フロートと呼ばれる山車から観客に向かって、ビーズのネックレス(のおもちゃ)などを力まかせに投げつけてくるのだが、当たると結構痛い。しかし、子どもたちは器用にキャッチしている。夜の7時ぐらいからパレードがはじまるのだが、終点近くで待っていてもいつまでもやってこない。結局、到着は夜10時から0時頃となり、今年は例年に比して早い2月9日が本祭であったために(2017年は2月28日)結構な寒さの中、大盛り上がりの後は繁華街(バーボン・ストリート)にくりだして酔っ払いばかりでぐじゃぐじゃに。

 余談としては、「沼地+プランテーション農園ツアー」に参加したものの、いざ現地に到着してみるとバスのドアが開かないというトラブルが発生。運転手の方も「こんなことは20年以上やってきてはじめてだ」と嘆きながら、私たちを除く(無能ですみません)観客も総出で協力しあい、ああでもないこうでもないと窓を開けてみたり、非常口を確認したりいろいろ試みたものの、最終的には工具でドア上部のパネルを外し、手動でスイッチを動かすことで30分以上閉じ込められた挙句、ようやく外に出ることができた。傍から見れば、バスに時限爆弾でも仕掛けられたのかと思われてもおかしくない結構な大ごとに。ツアー参加者の一人が私を見て一言。
「これでよくわかっただろう? くれぐれもアメリカ車など買わないことだ」。
 結局、ツアーの後半は時間切れとなり強制終了。This is America.

 ニューオーリンズ観光の意外な見所としては「オーデュボン昆虫館」がおもしろい。有名な鳥類研究者の名前を関したこの昆虫館は北米最大規模。のっけから珍しいゴキブリの一群がお出迎えしてくれる。虫は小さいので認識するのに時間がかかるもので、不意をつかれるのもスリルがある。なぜ大人になると昆虫が怖くなってしまうのだろう。怖いのに怖いものみたさでつい見てしまう。カップルがキャーキャー言いながら楽しんでたり、家族連れのお父さんが野太い声で「うお」とつい恐怖の声をあげてしまったりするのもご愛敬。「アリの視点を体験しようコーナー」では巨大化した昆虫の模型が暗闇の中で立ち現れ、まるで楳図かずお『漂流教室』(1972-74)に出てくる「巨大なサソリのような虫」を想起させるもので結構、不気味。

















2016年2月1日

 チャップリンの世界的コレクター・大久保俊一さんにご紹介いただいてサイレント映画研究者・映画史家のジョン・ベングトソンさんのお家にご招待いただき、特別講義を拝聴してきました。

 ジョンさんはチャップリン、バスター・キートン、ハロルド・ロイドといったサイレント喜劇映画にわずかに映し出されている手がかりからロケ地を探し出し、実証する研究をこれまで複数の書籍などを通して発表し続けている。いかに西洋では建物の耐久年数が長いとはいっても、百年近く前の、とりわけアメリカ西海岸の光景は劇的に様変わりを遂げており、映画は当時まだ新しい産業の勃興期であったわけで、制作過程の資料を保存する意識どころか、作品自体までもが消失してしまっていることが多い。実際にマーク・トウェインの初期翻案映画に目を向けても、「奇妙な夢」(1907)やD・W・グリフィス監督による「死のディスク」(1909)はもとより、『まぬけのウィルソン』(1916、50分)のフィルムも現存しない。当時32歳の女優マリゲリット・クラークが少年の一人二役を演じたという『王子と乞食』(1915、50分)など興味深い作品も多いのだが・・・。
ジョンさんが1995年にロケ地を特定する研究に乗り出した際にはまだDVD(ブルーレイ)もGoogleマップも存在せず、サイレント映画の修復/デジタル・リマスター化も本格化する前の時代で、VHSテープ、フィルムやレーザーディスクを素材に、UCバークレー大学図書館の古地図資料室と現地とを何度も往復することによって仕上げられた最初の本がキートンのロケ地をめぐる研究書(_Silent Echoes: Discovering Early Hollywood Through the Films of Buster Keaton_)で1999年の刊行。過去と現在の地図や写真を並置させながらロケ地や撮影所、当時の撮影方法などについて解説を加えていくスタイル。想像するだけでも気が遠くなるような地道な作業の積み重ねによるものだが、やがてテクノロジーの発展に伴い、サイレント映画のリバイバルブームと称すべきアーカイブ化の動きも追い風となって、その後さらに研究は進み、チャップリン版を2006年、ハロルド・ロイド版を2011年に刊行し、『Silent Traces』3部作が完結。
 自宅での特別講義は、「ベイエリア(北カリフォルニア)/エッサネイ期のチャップリン」、「ハリウッドのチャップリン」、「ロケ地研究を通して『キッド』(1921)・『街の灯』(1931)の世界を探る」の3コマ分の集中講義。パワーポイント+動画をもとにゆっくり拝聴させていただきました(約3時間!)。もともとは2014年にスイスで開催されたチャップリンの映画デビュー百周年を記念する国際学会などで披露された研究発表によるものだが、学会では時間が限られていることもあり、「8時間ぐらい喋りたかったんだけど25分しかもらえなかったので消化不良だった」そうで楽しい時間を過ごさせていただきました。 
三大喜劇王がハリウッドに拠点を移してからの時期には、チャップリンの『キッド』、キートンの『文化生活一週間』(1920)、『ロイドの要心無用』(1923)などがほぼ同じロケ地で制作されていたことを解き明かし、3作品を並べて鑑賞してみるとまるでパラレル・ワールドに迷い込んだような錯覚に陥ってしまうほど。
ロケ地探しにどこまで研究価値があるのかと訝る向きもあるかもしれないが、場所や光景から立ち現れる風土の感覚は視覚文化にとって大きな影響を及ぼしうるもので、とりわけハリウッド映画の生成期においては「アメリカ的なナラティヴ/場所の感覚」の原型が形成されつつあった時期でもある。現在のジョンさんの関心は、1940年代のフィルム・ノワール隆盛期に同じ場所の光景がどのようにしてまったく異なる世界観に変容を遂げていったのかを探ることにあるとのこと。そんなジョンさんの本職は実は法律家で、主にビジネス、知的財産権が専門。

 チャップリンがハリウッドに拠点を定める前の「エッサネイ期」とされる時期(1915-16)にサンフランシスコ近郊のナイルズという田舎町で映画製作に携わっており、その期間はきわめて短く、作品数も限られたものでありながらも、『チャップリンの駆落』(1915)と『チャップリンの失恋』(The Tramp, 1915)という放浪紳士のキャラクター形成を考える上できわめて重要な作品がまさにこの時期の産物。大野裕之監修『チャップリン・ザ・ルーツ 傑作短編集DVD-BOX』(ハピネット、2012)においても、アメリカの地方の光景に触れることで放浪者像が強調されていったのではないかと示唆されており、後の作品の萌芽も様々に散見される。サンフランシスコ近郊といってもエリアは広く、『駆落』はゴールデンゲート・パーク周辺で撮影されており、ナイルズからはかなり遠い。1906年のサンフランシスコ大地震から十年も経っていない時期であり、同じ1915年には「パナマ太平洋国際博覧会」と銘打たれたサンフランシスコ万博が開催されていて、震災復興への願いも込められていた。昨年2015年は万博百周年にあたり取り上げられる機会も多く、この時期のサンフランシスコ周辺の風土についてじっくり調べてみたいという気持ちを新たにした。
 「探偵のように」対象を掘り下げて地道に研究を積み上げていくジョンさんに比して、茫漠と関心が散漫に広がっていくだけの我が身を顧みるとなさけないばかりですが、ジョンさんに新たに「ブロンコ・ビリー(エッサネイ・スタジオで1910年代に人気を博した西部ものシリーズ)」研究者のデイヴィッド・キーンさんらを紹介してもらえることになり、月末にはナイルズにある「サイレント映画博物館」にも足を運んでみる予定。ジョンさんも関与している「サンフランシスコ国際サイレント映画祭」は1996年以降、すでに20回を超え、年々盛り上がりを増しているようです(残念ながら6月開催なので参加できませんが)。

 一見、話は唐突に変わりますが、サンフランシスコには「ビートミュージアム」というビート・ジェネレーション(1950年代後半から60年代にかけての文化芸術運動の推進者たちを指し、ジャック・ケルアックの小説『路上』[1955]などが有名)を特集した博物館もあります。ビートの拠点となったシティ・ライツ書店のすぐ傍にあり、パティ・スミスやジミー・ペイジらが、今年になってからもヴァン・モリソンらミュージシャンがふらりとこの博物館を訪れたりもしているようです。 
私のアメリカ滞在中の研究テーマは「大衆文化における放浪者像の変遷」なので、トウェイン、チャップリンからそれこそビート以降の放浪者像までをも繋ぎ、展望することが(無謀にも?)目標なのですが、早々に道に迷ってしまっている感はあるものの、少しずつでも進めていきたいものです。







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