借りてきた猫のように

――フィクションの中で生きる~映画・小説・音楽・マンガなどの日常――

2016年06月の記事

十四歳じゃなく十五歳(2016年6月30日)


 白河三兎『十五歳の課外授業』(集英社文庫、2016)はすでにミステリ、青春小説の分野で定評ある作家による文庫オリジナル新作。2009年に第42回メフィスト賞受賞作『プールの底に眠る』でデビュー後、ミステリ、青春小説の領域で実績を着実に積みあげてきている。一切の履歴を公表していないので年齢も性別も定かではないのだが、ひょっとしたら結構年長なのかもしれない。 
 出世作『私を知らないで』(2012)は、転勤族の親の影響で転校してばかりのために深い人間関係を作るのを経験的に避けようとする醒めた男子高校生を主人公に、ミステリアスな女の子「キヨコ」をめぐる物語。
 ほか、『ふたえ』(2015)は高校2年の修学旅行を舞台に、班決めであぶれてしまう「(ひとり)ぼっち」たちのそれぞれの視点による短編連作であり、教室にいる誰でも物語の主人公になりうることを示した、現代日本版『ブレックファスト・クラブ』(1985)のような作品。確かに群れずに「ぼっち」を貫くには「強さ」が求められるかもしれず、ぼっちたちはそれぞれ信念や自分の世界が確立されていて個性的な面々。
 『田嶋春にはなりたくない』(2016)は、まったく融通が利かず、空気を読めない天然さで周囲を困惑させる検事志望の法学部女子学生・田嶋春を軸に、彼女にふりまわされる周囲の大学生たちを通して人間関係をコミカルに描く短編連作。空気を読めない田嶋春のことを周囲は皆、疎ましく思うのだが、自分の価値観がしっかりしている彼女に周囲がふりまわされつつも感化されていく展開が意外なドラマを作っている。
 
 最新作『十五歳の課外授業』は、レギュラーでもないのにバスケ部の部長を任されるなど、育ちの良さもあいまって何でもソツなくこなす中学三年生・卓郎が主人公の物語。地元に根づいている歯科医院の息子で、早くから将来、その後継ぎになることを見込まれており、地元の人脈を築いておいた方がいいという判断により公立中学に通っている。近年、歯科の供給過剰が問題視されているが、仕事熱心な父親が地元で培ってきた信頼実績もあり、後を継ぐ分には将来も安泰であろう。父親の影響から主人公が歯に対するフェティシズムを持つという設定も絶妙で、物語の中で重要な役割をはたしている。
 彼は学校一人気者の女子、ユーカという彼女に惚れこまれていて、ユーカは男女を問わず人望があり、教師であっても彼女の発言力を無視できないほどの存在感がある。大の小説好きで将来は出版社に就職して編集者になりたいという彼女は恋愛に対しても積極的な「肉食系女子」で、恋愛の経験値も高く、気分屋の彼女のわがままにいつもふりまわされ、卓郎はへとへとになりながらも、「学校一人気者を彼女にしている」という魅力に抗えず、彼女のことを本当に好きなのだろうかもよくわからないまま関係を続けている。その一方で「キスや性的なスキンシップをする度に、胸がむかむかして吐き気を催す」一面があって、現実に悩んでいる人もいるかもしれないので笑ってしまうのもよくないのだが、肉食系女子との対照がおもしろい。
 卓郎が学校で一目置かれている理由に、すでに卒業して高校生になっている3歳上の姉・絢奈が「スパッツ番長」の異名をとり、本人の卒業後も恐れられているという背景がある。7歳の時にはじめた相撲が全国有数の強さで、中学在学中もスカートの下にショートスパッツを履いていて男子だろうと教師だろうと気にいらない相手がいると相撲での勝負を挑み、ぶん投げるというキャラも絶妙におかしい。いかにも図式的に設定されたキャラっぽく見えながら、それぞれの人物の奥行きが伝わってくるのも白河三兎作品の魅力。
 物語は教育実習生として大学生の辻薫子が学校にやってくるところから展開される。ほどなくして卓郎はかつて自分の家に定期的に遊びに来ていた「かおるお姉ちゃん」であることを認識する。地元の公立学校であれば、教育実習生も同じ地元出身であることが多いわけで、ややこしい人間関係が背後にあることも実際にあるだろう。

 キャラクター設定やあらすじではなかなかその魅力が伝わらないのだが、ふだん物語に深く親しんでいる読み手までもが予測できない、強引ながらも説得力のあるストーリー展開が白河作品の最大の醍醐味で、『十五歳の課外授業』もまさかと思う展開にページをついめくらされてしまう。ミステリを主戦場としてきただけに「意外な展開」と「巧みな構成」が共存しているのも見事。人間関係に意識的に距離をとる主人公たちの、傷つきたくないために関わりを避けようとする姿勢や疎外感などは十代を描く普遍的なテーマでもあると同時に、近年、顕著に見られる傾向でもあり、現代の若者群像としても興味深い視座をもたらしている。
 教師や親は主人公たちが抱える問題を解決する上でまったく機能していないことが多く、その一方で高校生の姉・絢奈や大学生の辻薫子がいかに「大人」であることか。保育士の理想と現実の挫折してしまった薫子の親友など、不況の時代、経済格差の中での大学生や若者を取り巻く問題にも焦点が当てられていて、今の時代に若い世代が夢を持つことの難しさについても考えさせられる。
 そして、そうであったとしても主人公が15歳という年齢であることは大きく、これからどのようにも変わることができるという点で、実は結構いたたまれない境遇に置かれる展開になるにもかかわらず、読後感が悪いものにならないのは青春小説の特権だろう。

 本当に相手のことが好きなのかどうかわからないまま関係を続けていたり、一つ一つのことについてそれなりに真剣でありながらつじつまの合わない細かい嘘や欺瞞をくりかえしていって時に自己嫌悪に陥ったり、時に開き直ったり、でも中学生の頃なんて自分のことで精いっぱいですべての言動に整合性なんてもてないし、自分の感情であっても言語化できるわけでもない。そうやって大人になっていく中学生男子の成長過程が巧く描けていて、なかなかの傑作。小説を読みなれてないはずの主人公が突然、流暢に読書論について語る箇所など違和感がないでもないが、ストーリーに勢いがあるのでそれも含めて読ませてしまう力技はさすが。
 青春小説というジャンルは本来そういうものであるのだが、よくあるベタな設定、テーマを用いながら想定をはるかに超えた展開で読者を魅了させてくれる。しかしこれもまた、「意外な展開」という陳腐な惹句では表現しきれないのがもどかしい。
















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夢なんてなんて言わずに(2016年6月29日)


 畑野智美による連作小説『南部芸能事務所』(講談社)シリーズの新刊『オーディション』の刊行にあわせて旧作が文庫化され、石川雅之(『もやしもん』[2004-14]ほか)による表紙イラストなど結構な力の入れ具合でプロモーション活動が展開されている。
このシリーズは芸人を目指す2人の大学生男子コンビ(新城と溝口)「メリーランド」を主人公に据え、短編毎に一人称視点を切り替えるという畑野智美がこれまでも得意としてきた手法(『運転、見合わせ中』[2014]など)による連作短編。主人公たちがコンビとして、芸人として、着実に成長していく様子が連作を通して丁寧に綴られており、新刊『オーディション』は連作シリーズ4冊目となる単行本。
 芸人の世界が舞台になってはいるけれども、若い世代が夢を持ち、その夢に向かって奮闘し、時に葛藤していくという点ではことさらに芸人の世界に特化されるものではなく、様々に置き換え可能であろう。夢を叶えることだけがすべてではなく、その過程で納得した上で世界を去っていく者もあり、夢を諦めることもまた人生のあり方の一つとしてそれぞれの人生に寄り添う視点もこの作品の魅力になっている。
 青春小説/恋愛小説を得意とする畑野作品らしく、大学生で「まだ何者でもない/何者にもなりうる」可能性を秘めた若い主人公たちが、恋愛模様や友人や家族、事務所やアルバイト先での人間関係などを通して大人/プロになろうとしていく過程が情感豊かに描かれている。

「今どきの大学生が夢なんて持てないですよ」(『国道沿いのファミレス』[2011])という言葉に表れているように、若い世代が夢を持ちにくいとされる時代の中で、芸人の世界は伝統もあり、古い縦社会の規律も残っていると同時に、競争過多で実力勝負の厳しい世界でもある。運やタイミングに左右される要素も大きく、本人たちがどれほど努力をしたとしても資格を取得することとも異なり、必ずプロになれるともかぎらない。そんな世界に飛び込んでプロを目指そうとする主人公たちの物語は今どきまっとうな成長物語の要素に満ちており、コンビでマンガ家を目指す『バクマン。』(2008-12)に近いが、それぞれの登場人物の胸中や情感を短編毎に切り替えながら長期シリーズ化していくことにより、じっくり描いていることでより一層の味わいが出てきた。
 現在のところまだ主人公たちは大学生とのかけもちによるものだが、学生ではなくプロ専業の立場になっていくことでそれぞれの関係性も変わっていくことになるであろうし、番組のレギュラー出演権をかけて挑む公開オーディションに参加し、勝ち上がっていく過程を通して、「有名になる」ことに対する覚悟と代償、期待と不安といった葛藤も描かれ、新たな段階に差しかかっている。

 実際の芸人自身による「芸人小説(映画)」の系譜もあり、コントにせよ漫才にせよ、構成の基本を踏まえた上でストーリー作り(セオリーをずらすことによる笑いの技法も含めて)を本職としていることからも、ビートたけし(北野武)以降、又吉直樹『火花』に至るまで創作の分野で芸人とされる人たちが活躍しているのも必然的な流れではあろう。
 芸人の世界を描いた作品であると同時に、夢に向かって頑張っていく若者を描いた青春物語であるところにこのシリーズの醍醐味があって、芸人もマンガ家もアイドルも現実的なキャリアの選択肢としてはリスクの高い、潰しが効かない世界ではあるのだが、であればこそ果敢に向かっていこうとする若い世代のひたむきさが眩しい。じっくり丁寧に描き続けていってほしいシリーズ。











じつは赤毛のアンが好きです(2016年6月28日)


 カナダ、プリンス・エドワード島大学にて第12回モンゴメリ学会開催。今回の大会テーマは「モンゴメリとジェンダー」で、日本からは私も含めて計4名の研究発表がありました。専門性の高い個人作家の研究学会に、初めての参会で研究発表するなど向こう見ずにもほどがあるのですが、「あのプリンス・エドワード島に行ける!」という魅力に抗いきれず、参加してきました。
 学期中という制約もあって最終日のエクスカーション・ツアーには残念ながら参加できず。とはいえゆかりの地をまったくまわることができないというのはあまりにも無念なので、現地に到着後、時間をやりくりして日本人向けツアーに申し込み、「グリーン・ゲイブルズ」、「モンゴメリの生家」、「赤毛のアン博物館/銀の森屋敷」などを訪問することができました。大学周辺だけでは島の雰囲気をつかむことなど到底できず(島の大きさは愛媛県ぐらいと言われてもぴんとこない)、ツアーを通してようやくプリンス・エドワード島に来たという実感が沸いてきました。はじめて訪問する地なのに、「赤土の道」や「輝く湖水」、「恋人たちの小径」などあちこちの光景がとても懐かしく感じられるのが不思議。

 久しぶりに原作を読み返してみて、すべてのエピソードが有名かつ名場面であることにあらためて感嘆させられる。シリーズ化を通して「その後の人生の物語」を辿ることができるのがアン・シリーズの醍醐味なのだけれど、一作目の完成度は本当にすごくて最初のアンの登場場面から文字通り目が離せずに一気に丸一冊分読まされてしまう。マーク・トウェイン(モンゴメリと同じ11月30日の誕生日!)が「『不思議の国のアリス』以来の愉快なキャラクターで、心に迫る存在である」と刊行早々に賛辞を送ったように、まさに時代や国を超えた不朽の文化的アイコンとしてあり続けていて、ギフトショップで様々に売られているストロー・ハット(麦藁帽子)からもそのことはよく見て取れる。
 マシューとマリラの老兄妹が孤児院から養子をもらうという決断がいかに意外に映るものであるかを説明する一節に、「『マシューはオーストラリアから来たカンガルーを迎えに行ったんですよ』と言っても、リンド夫人はこんなに驚かなかっただろう」とあって、カンガルーを馬車に乗せたマシューの姿が思わず浮かんでしまい、マリラのアンに対するツンデレぶりや、まわりの友人たちとの間での意地の張り方、とぼけたユーモアが新たなツボに。こちらが年齢を重ねてしまったことも作用してるのだろうが、「少女小説」という側面だけでなく、「年齢を重ねること」も作品の主要なテーマになっていることに気づかされる。大人になってからこそ再読したい物語。


 覚悟していたもののツアーはやっぱり私以外の参加者は全員女性。「お仕事でこちらにいらしたんですか?(旅行業の方ですか?)」とくりかえし尋ねられる。まあしょうがないんでしょうけど、確かに男性の一人旅でここには来ないか。
 モンゴメリの親戚が営んでいた農場をもとにしている「グリーン・ゲイブルズ」はアン、マシュー、マリラのそれぞれの部屋、アンが憧れていた客用寝室など細部に至るまで物語世界を再現していて、実際に遊びに来たかのような体験を楽しむことができる。外にはマシューの馬車や、アンのコスチュームを着た女の子もいて(ちょっとイメージ違うけど)気軽に写真撮影にも応じてくれる。
 7月1日のカナダ・デーにあわせて毎年、街のお祭りの一環として上演されるミュージカル『赤毛のアン』は残念ながら観ることができなかったものの、ミュージカル『アンとギルバード』は鑑賞することができた。途中の入退場は原則できないということだったが、出口のドアをうまく使った仕掛けで納得。

 日本での『赤毛のアン』受容史はやはりおもしろくて、村岡花子により日本で最初に翻訳が刊行された1952年は映画『風と共に去りぬ』の公開と同じ年で、冷戦イデオロギーとの関係も興味深いものであり、スカーレット・オハラと共に戦後復興期の女性のロール・モデルとしてはたした役割は大きい。1970年の大阪万博にて現在もカナダで続いているミュージカルが上演されているのも象徴的に映る。
 1979年の「世界名作劇場」におけるTVアニメ化作品は、演出の高畑勲のもと、宮崎駿、富野由悠季が部分的とはいえ関与しており、アニメ文化史において決定的/奇蹟的に重要な作品。没後十年以上経った今でも展覧会開催が続いている近藤喜文によるキャラクター・デザインに、押井守も絶賛した高畑勲演出など伝説には事欠かない。
「でも、アニメのアンってかわいくないでしょ」と複数の方に言われたが、えー、そこがいいんじゃないですかね? 
 1980年には劇団四季(浅利慶太演出)によるミュージカルもスタートしており、この時期に『赤毛のアン』が大衆文化の中でさらに大きな発展を遂げているのも時代の必然と言えそうだ。「アンは嫌いだ」と言い残して宮崎はアニメ映画『カリオストロの城』(79)に集中すべく第14話途中で企画から降りているが、後に自身で手がけることになる少女ヒロイン像との比較分析ももっとなされていいように思う。

 さて、現在もまた何度目かの『赤毛のアン』リバイバル・ブームの只中にあって、現代文化における受容のあり方に目を向けても、映画『アンを探して』(宮平貴子監督、09)、真保裕一『赤毛のアンナ』(16)など正面から作品のモチーフとして扱っている例が目立つ。
 このたびの学会にて赤松佳子先生(ノートルダム清心女子大学/カナダ文学研究)が分析された柚木麻子『本屋さんのダイアナ』(14)や、あるいは湊かなえ『白ゆき姫殺人事件』(12)など、女性同士の友情のあり方は現代文学における主要な関心の一つになっていて、その際に『赤毛のアン』における「腹心の友」が引き合いに出されることは数多い。
 「心の友」といえば、「おまえのものはおれのもの」という『ドラえもん』のジャイアンがつい思い浮かんでしまうが、「腹心の友」には特別な響きがあって、しかしながらいつまでもべったりと学生時代のように一緒に過ごせるわけでもないし、昔、マンガや音楽を貸し借りしては夢中にお喋りをしたような関係ではなくなってしまうものだ。「同性の友達を持ちたいのにもてない」「学生時代の友情が続かない」といった寂寞感は『赤毛のアン』の呪縛として今でも捉えることができるものかもしれない。
 真保裕一『赤毛のアンナ』は親を失ってから施設で育った女の子をめぐるド直球のタイトルに内容だが、現代を描く物語として『赤毛のアン』の原作のエッセンスが丁寧に再創造されている。時代や価値観が変容しているにもかかわらず旧来のモデルが残存している現代の社会構造の歪みや格差社会などについても考えさせられるものであり、さらに今の若い世代に『赤毛のアン』がどのようにロール・モデルになりうるのかという観点からも興味深い試みになっている。

 日本での絶大な人気の高さはよく知られているが、学会ではフィンランドやスロバキア、アイスランドなど様々な地域からの研究報告もあり、カナダのローカル色とグローバル性を併せ持った少女小説であること、また、20世紀初頭の時代性(とりわけ当時の女性の社会状況)を反映しながらも、現代においても古典の児童文学としてアクチュアルな力を持ち続けているという点においても比類ない作品であることをあらためて実感させられる。
 モンゴメリの日記、書簡の公刊をはじめとする基礎研究も近年進展しており、高い水準と打ち解けた雰囲気がこの学会の魅力で、さながら同窓会のように毎回参加する方々が多いというのも頷ける。2年毎の開催で次回も同じプリンス・エドワード島大学にて2018年6月21~24日の開催が予定されている。ぜひまた参加してみたい。










闇を震わす生歌ギター(2016年6月27日)

「大森靖子ハミングバード爆レス歌謡祭」が甲府・京都・東京の3都市で開催。今一つどのようなイベントであるのかわからないままに甲府に行ってきました。
 会場となった甲府・桜座は明治9(1876)年の三井座(後の櫻座)にその起源を遡ることができる由緒ある芝居小屋を継承するもので、明治期に歌舞伎芝居で活況をきわめていたという。昭和5(1930)年に閉鎖後、75年の歳月を経て2005年に甲府商店街の活性化と地域づくりを目指すNPO法人により復活し、現在は音楽家、アーティストの表現の場として活用されている。なるほど、二階の座敷が見やすくなっているのも芝居小屋の由来を聞くと合点がいく。140席収容の座敷仕様で、ゆったりと生音による音楽を鑑賞できるのが醍醐味。

 観客席との距離が近いどころか、冒頭からギター一本抱えながら客席に入ってきて隣で歌ってくれたり(客も歌わされる)、MCというよりも観客とのお喋りや曲のリクエストに応えてくれたりと、ライブハウスとも異なるリラックスした雰囲気は何ものにも代えがたいもので贅沢な限り。途中、ピアノによる弾き語りのパートではKiroro「未来へ」、花*花「さよなら大好きな人」など思いつくままにカヴァー曲の演奏なども加えられ、オリジナルともまた違った大森靖子のシンガー、表現者としての魅力、個性がより際立って伝わってくる。道重さゆみ/ハロー・プロジェクトの熱心なファンとして知られ、そのカヴァー曲の演奏はとりわけ評価が高いが、カヴァー曲だけのアルバムやライブを求める声も多い。「ひとり紅白歌合戦」の桑田佳祐の境地だが、松田聖子(松本隆の歌詞)と松任谷由実と中島みゆきを3で割るような感覚を意識して作ったという「呪いは水色」や「ノスタルジックJPop」「歌謡曲」といった楽曲が示しているように、90年代以降のJPopにどっぷり浸かった音楽体験から出発し、それ以前の歌謡曲を再解釈する志向は、性別も世代も異なる桑田佳祐とも必然的に違ったテイストになるわけで、世代や細分化した嗜好を繋ぐ様々な可能性に満ちている。

 なあんて、二階で他人事のように気を抜いていたら、終盤、ギターを持ったまま、二階にまで上がってきて、文字通り「高見の見物」であった二階席が一転して緊張感に包まれる。いじられるのを恐れて皆が目を合わせないように俯き、息を殺し、目立たないように身をすくめ、さながら猛獣の標的になるのを避けようとするその姿は、積極的に交流しようとする一階の層との違いが浮き彫りに。ファンの間では、「来場者全員を楽しませないと気がすまないO型気質」などとも言われているようだが、「机間巡視」(授業中に教師が生徒の机の間を巡回する指導)は小中学校の教師にとって、全員を参加させる意識をもたせるために基本となるもの。140人といえばそこそこの大教室での講義に相当するわけで、2時間を超えるステージのメリハリといい(リラックスして観客とお喋りしたり、ピアノを弾きはじめると観客そっちのけで一人の世界に深く入り込んだり、そうかと思うと演劇/歌劇のような雰囲気に一瞬で会場を一変させたり)、巧いもんだなあとすっかり感心してしまった。芝居小屋の雰囲気も似つかわしく、即興のような構成に見えながら「劇団・大森靖子」を見せる演劇のように趣向がよく凝らされている。
 授業であるとすればそこそこ大きな規模だが、旬のアーティストが行うライブとしては贅沢な小規模会場になるために、今後同様の試みがどれぐらい実現できるかどうか。実際に、東京会場でチケットがとれずに甲府に流れてきたケースも多かったようで、新宿ロフトでの定例トークイベントもここ最近、急激に取りにくくなった。

 土曜日の15時開演というのも新鮮で、2時間30分近くに及ぶ公演終了後でもまだ明るい時間。地元特産のワインを飲みながら(弱いので飲めないけど)ゆっくり食事もでき、久しぶりの休日を満喫できました(その後、修羅場の日々が待っているとも知らずに)。甲府桜座は雰囲気もよくぜひまた訪ねたい会場。




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