借りてきた猫のように

――フィクションの中で生きる~映画・小説・音楽・マンガなどの日常――

2016年07月の記事

海も言葉もこえていく(2016年7月31日)

「海外マンガと翻訳」

 日本マンガ学会海外マンガ部会第9回公開研究会終了。本年度は「海外マンガと翻訳」をテーマに掲げ、研究者、翻訳者、出版コーディネーター、編集者、評論家・・・と多様な視点から海外マンガをめぐる現状とこれからを展望することを目指しました。
 最初の報告者となるCJ Suzukiさん(ニューヨーク市立大学)による「マンガと翻訳――メディアム特性と課題」では、ローレンス・ヴェヌティの理論概説書『翻訳者の不可視性』(1995)を参照し、「同化理論」・「異化理論」の概念に触れた後、具体的な作品分析を踏まえながら、マンガ(コミックス)という表現メディアにおける翻訳を取り巻く課題をどのように捉えることができるのか、問題提起をしていただきました。

 続くライアン・ホームバーグさん(日本マンガ研究[美術史]・翻訳者)による報告「活字声優としてのマンガ翻訳論」では、雑誌『ガロ』の研究者として知られ、林静一、つげ忠男など日本のオールタナティヴ・マンガに位置づけられる作品を英語圏に翻訳・紹介してこられたこれまでの翻訳実践例に基づきながら、日本マンガ翻訳をめぐる可能性と課題について報告いただきました。ライアンさんによる新しい翻訳書となる勝又進_Fukushima Devil Fish: Anti-Nuclear Manga_(『深海魚』、長大な渾身の序論付き)はブレイクダウン・プレスより秋に刊行予定です。

 第二部では、出版コーディネーターであり、翻訳者(アリソン・ベクダル『ファン・ホーム』など)として活躍されている椎名ゆかりさんにより「海外マンガ翻訳事情」をめぐる現状について概観いただいた後、『モーニング』編集部より加藤大さんをお招きして、日本のマンガ市場における海外アーティストの育成(OTOSAMA『西遊筋』)について、フロアとの質疑応答を交えたトーク・セッションを展開いただきました。

 最後に、マンガ評論家であり、当部会代表の小野耕世さんによる講演「私のマンガ翻訳体験――1970年代初めから現在まで」では、海外マンガの紹介・翻訳出版の草分けとして尽力してこられた足跡を様々なエピソードを交えながらお話しいただきました。回想録(メモワール)がそのまま日本における海外大衆文化受容史/日米関係史と重なるところに凄みがあり、今回は主にアメリカのコミックス文化を軸としたお話でしたが、ヨーロッパ、アジア、そしてマンガのみならず、アニメーション、映画、文学などメディアも横断し、しかも現在も現役第一線の紹介者でいらっしゃるわけで、ご本人がすでに一ジャンルそのもの。懇親会後の帰り道に、しきりと新作映画『ターザン:REBORN』を薦めていただき、ターザン文化論の特別講義が続いたのでした。

 席が足りなくなりかけるほどの盛況となり、そのうえ全体で一時間、予定よりも超過してしまいまして、ご参加いただいた方々には窮屈な環境でご不便をおかけしてしまいましたが、おかげさまで活気ある有意義な機会となりました。
 海外マンガ部会は、その性質からも言語、ジャンル、年代などそれぞれの関心領域が多岐にわたり、また、研究者、学生(院生)、評論家、文筆家、翻訳家、コレクター、ファン・・・と、そのあり方も多様な混成主体となっているのですが、その特性を活かすべく、また、2008年度発足の当部会の年次研究会も早いもので次回は10回目となりますので、より多くの方々に関与いただけるようなあり方を探っていきたいです。

 年次大会に加えて、院生(学生)の研究発表会や、あるいは情報共有の場も随時提供できればと思いますので、部会のあり方についてもぜひご意見やご提案をお寄せください。







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タイムリープはくりかえす(2016年7月25日)

ドラマ『時をかける少女』

 渋谷PARCOにて「時をかける少女カフェ」開催中(7月7日~8月7日)。夕食時より少し早目の時間を目指していったらもっとも混雑している時間帯の一つであったようで、丸々2時間待ち。整理番号と呼び出しのメールサービスがあるので、待ち時間中によそで時間をつぶせるのはありがたい工夫(と思ったらメール来なかった。あれ?)

 現代のアニメ界を牽引する細田守監督の制作拠点である「スタジオ地図」初のコラボカフェであり、細田監督のオリジナル劇場映画第一作『時をかける少女』(2006)公開十周年を記念する試みで、このほかにも旧作の劇場上映やDVD(ブルーレイ)のアニバーサリー版リリースなどが続く(細田監督の長編映画第一作はマンガ『ONE PIECE』の劇場アニメ第6作『オマツリ男爵と秘密の島』[2005]になるが、オリジナル脚本による監督作品としては『時をかける少女』が第一作)。
『時をかける少女』、『サマーウォーズ』(09)、『おおかみこどもの雨と雪』(12)、『バケモノの子』(15)の長編4作品をモチーフにしたオリジナルコラボレーションメニューは、期間限定ならではのユニークな創作料理になっていて、作品との連関を探るのも楽しみ。たとえば、『時をかける少女』にまつわるメニューでは、「(主人公の)真琴がとどけてくれた桃をふんだんに使った桃とトマトの冷製パスタ」や、「タイムリープ!? プリン・アラモード 食後に何かが起こる!?」など、作品をもう一度じっくり見返してみたいと思わせてくれる趣向が凝らされた丁寧な仕上がりが嬉しいかぎり。原画や背景美術などの展示に囲まれて、作品世界にどっぷりと浸ることができる雰囲気も魅力。「トートバッグ」や「マグカップ」、「携帯ミラー」などカフェ限定グッズも充実している。夕食時の時間帯で、長時間待たなければならない背景もあるのだろうが、家族連れは皆無で、20代以上の女性層(大学生より上)が目立つ。

 7月13日からは新メニュー「あの夏の青空と入道雲ソーダ」が加わり、あちらこちらで「7月13日=ナイス(713)の日推し」。
はて、「『ナイスの日』ってなんだっけ?」と思ってたら、そういえば、細田版『時をかける少女』にてタイムリープによりくりかえされる一日が7月13日で、真琴が鉄道の踏切にて事故に遭い、宙を舞いながら「今日はナイスな日なのに」と不運を嘆く場面が確かに思い起こされる。細田版『時をかける少女』は「青空と入道雲」の青と白のイメージが何よりも印象深く、夏休みを直前に控え、夏休みに対する期待がもっとも高まる夏の一日ということなのだろう。

 ところで私は教養科目「現代文化における思春期の表象(現代日本文化論)」にて、『時をかける少女』を素材に扱っており、筒井康隆による原作小説(1967)、NHK少年ドラマシリーズ『タイムトラベラー』(1972/一部しか残存せず)、大林宜彦監督映画版(1983)から、【TVドラマ】「南野陽子版」(1985)、内田有紀版(1994)、安倍なつみ版(2002)、【映画】角川春樹監督/中本奈奈版(1997)、谷口正晃監督/仲里依紗版(2010)までを比較検討する試みを導入していて、細田守版(2006)は当然その中で重要な分岐点に位置づけられるのだが、後期科目ということもあって、「『時をかける少女』=夏」という印象はこれまで特に抱いていなかった。大林版映画にしてもスキー教室の場面から物語がはじまり、設定は2月から新学期にかけての時期。内田有紀版(1994)も2~3月、安倍なつみ版(2000)はクリスマス・シーズン、仲里依紗版(2010)でもスキーが物語の中で重要な役割をはたしており、設定は冬。

 ここにきて現在、日本テレビ系列で7月9日より最新のTVドラマ版『時をかける少女』が放映されており、夏のイメージが強調されていることからも、細田守版を強く意識して継承されていることが伝わるものであるのだが、それだけ細田版の試みが革新的であったというわけだ。先行する「安倍なつみ」版(2000)が放映された「モーニング娘。新春! LOVEストーリーズ」の枠組みで、『はいからさんが通る』『伊豆の踊子』と併せてのオムニバスドラマであったことが体現しているように、この時点ですっかり『時をかける少女』も古典の定番作品に位置づけられていた。細田版ではすでに古風な物語と化していたこの作品を、「原作の出来事から約20年後を舞台に次世代の登場人物がくり広げる物語」として新しい生命を吹き込み、従来の作品群に対するオマージュを随所に散りばめながら、同時に新しい世代の新しい物語としてゆるやかな設定に翻案する可能性を切り拓いた。仲里依紗版(2010)もこの細田版の延長線上にあり、エッセンスを共有しながら独自の物語として成立している。
 さて最新のTVドラマ版(出演=黒島結菜・菊池風磨・竹内涼真)であるが、原作および従来の『時を守る少女』作品群に対するオマージュを示した細田守版に対し、さらにオマージュを捧げ、正統的に継承すべく、「7月13日=ナイスの日」の夏の印象を強調し、細田版では東京が舞台となっているところを、海の街、静岡県の沼津・伊豆・下田を主なロケ地とすることで、海の街、尾道を舞台にした大林版への連想をも呼び込みながらそれでいて新しい物語としての特色も出している。また、細田版では「今のままでいたい」という感覚を高校2年生の設定によって表していたが、高校3年生の設定に変更することで、高校卒業後は皆、バラバラになってしまう可能性が高いことを示唆し、十代特有の刹那が強調されている。
 現時点で全5回のうち、3回分の放映が終了しており、全5回は連続ドラマとしては中途半端に感じられる回数であるが、実は内田有紀版も全5回であり(南野陽子版、安倍なつみ版は単発)、原作も中編であったことからもちょうどいい分量なのだろう。通常、主題歌が流れるオープニング映像はシリーズで同一となることが多いのだが、その回のストーリーを盛り込み、細部に変化を加える趣向などきめ細かい演出が施されている。今日の二次創作文化も見越しているのか、ファンの間で画像や動画を駆使したサイドストーリーが様々に交わされているのも興味深い現象になっている。
 脚本を担当しているのは愛媛・松山出身の渡部亮平(1987- )で、女子高生2人の友情と狂気を描いた異色の自主映画『かしこい狗は、吠えずに笑う』(2013)や、TVドラマ『セーラーゾンビ』(2014)などで注目されている期待の20代。羽海野チカによる人気マンガ『3月のライオン』の映画版でも脚本を担当する(2017年公開予定)。真正面からストレートに青春や十代の瞬間を捉えようとする姿勢に好感がもてる。従来の作品群の伝統を踏まえた上で、現代の現役の世代の新しい物語に再生させてくれていて、ここから新たにこの物語に触れる世代を過去の作品に誘ってくれることだろう。










夏、インストール(2016年7月18日)

「神聖かまってちゃん全国ライブツアー」

『ハリー・ポッター』シンポジウム(これが一番キツかった)、国際モンゴメリ学会(『赤毛のアン』など)、「医療ナラティヴ」パネル、「パンデミック感染SF映画」と4週連続で発表が続き、一段落したので(といっても棚上げにしてしまっている仕事は数多いのですが・・・)、発表終わりの高揚感と開放感に駆り立てられて行ってきましたライブハウス「金沢AZ」!

 ミニアルバム『夏、インストール』を7月6日にリリースしたばかりの神聖かまってちゃんが現在、全国ライブツアーを展開中で、この日(7月10日)のゲストが大森靖子。両者の共演は2014年7月の仙台以来2年ぶりになるが、めったに遭遇できるものでもなく、前回の共演時は観られなかったので、SF大会の三重からついでに足を伸ばすつもりが片道4時間半もかかった・・・。
それにしても客層若い。そりゃそうか。でもまあ同世代(以上)と目される人もちらほら。神聖かまってちゃんは楽屋からライブまで「配信」(ツイキャスによる同時中継)していることが多いので、ライブ会場にいる方がかえって取り残されることさえあるのだが、会場でも皆、端末で配信を共有しあって観ていて(若い人たちに見せてもらえた)、ライブ前や休憩中の楽屋のオフステージの様子を垣間見ることができるのも楽しい。

 先攻の大森靖子を観るのは6月の甲府以来というか、何やかやで毎月何かしら観てるのだが、神聖かまってちゃんメインのライブということもあって、久々にアウェイの「弾語り」仕様。大森靖子にとって金沢でのライブははじめてであったらしく、とはいっても実際のファン層はおそらく半々ぐらいの割合。ライブハウス全体が静まりかえり、演奏をじっくり聞き入る雰囲気も久々で新鮮。ふにゃふにゃ喋るMCから一転して一瞬で曲に惹き込むメリハリも相変わらずすごい。冒頭のMCで神聖かまってちゃんのことを、「同時代の中で戦ってる、同世代のお互いにはみ出た者同士として親近感がある」という類の表現で評していて(正確な表現ではないのだが)、なれ合いというわけでもなく共に友好的な雰囲気に満ちているのも居心地良く、対バンというよりも共演ライブの醍醐味を実感できるのが嬉しい。かまってちゃんの「の子(ヴォーカル)」は大森靖子のことをなぜか「隊長」と呼び終始一貫レスペクトを示していて、一方、大森はの子のことを本名の「大島」と呼び合っていて(大森の方が年下)、それもなんだかおかしみがある。

 神聖かまってちゃんを観るのは4月初旬のZEPP Diver City以来で、その際はドラムのみさこが率いる別バンド、アイドルグループ「バンドじゃないもん!」とのジョイントライブ。アイドルとしての様式美を踏まえていることもあり、バンドじゃないもん!の完成されたステージングに比して、神聖かまってちゃんは相変わらず洗練さとまったく無縁な、不安定であやういところが目立ち、そこにこそ魅力があるといえばあるのだが、コアなファン以外に裾野が広がりにくい大きな要因にもなっている。別に必要以上に売れなくとも必要とする層にだけ届けばそれでまったくかまわないのだが、ニューアルバムにしても「オリコン・ウィークリー1位を目指す」などと宣言していて、ショービジネスの世界である以上、売り上げも意識せざるをえず、売れないと次作のリリースが困難になるのがシビアで厳しいところ(実際は28位で、ちなみにバンドじゃないもん!のシングル「キメマスター」は5位)。実際に次作のアルバムのリリース予定が遠のいてしまったようだ。

 神聖かまってちゃんのライブにもわりと定期的に足を運んでいるのだが、地方参戦ははじめて。の子は意外なぐらい(?)サービス精神旺盛で気を遣う人でもあるので、地方でしかもゲストを招く立場である方がライブの完成度が高い(お行儀が良い)傾向にあり、その法則通り、4年ぶりという金沢では終始、楽しそうにふるまっていたのが印象的。リリースしたばかりのアルバムがデイリー・チャートで11位から30位に落ちたばかりだったこともあり、楽曲に対する不屈の自信と売れないことに対する自虐もほどよい感じで、近年の歌詞に特徴として見られる「弱さをさらけ出せる強さ」も成熟を示しているように思う。
「レコ発ツアーで新曲を演奏するという当たり前のことが(ようやく)できるようになりました」とベースのちばぎんが言うように、日替わりで気まぐれなセットリストで、これまでは必ずしもアルバムをリリースしたばかりのツアーであっても新曲が演奏されるとは限らなかったのだが、ミニアルバムということもあって8曲中6曲もとりあげられ、しかも「リッケンバンカー」ではサビのパートを観客と合唱するという初の試みまで。にもかかわらず、一番好きな「天文学的なその数から」がその前の岡山公演で演奏されていたのになぜかとりあげられず残念。

『夏、インストール』はポップでメロディアスな曲調が多いところに最大の特色があり、古くからのファンには「売れ線狙い」とされて評判が悪かったりもするのだが、もともとビートルズとB’zが音楽の原体験というだけあって、これも重要な一側面。初めてのCM(「Right-on」)タイアップ曲「僕ブレード」に、初めてメンバーによるコーラスを導入した「きっと良くなるさ」など新しい試みも多く、15歳の時に作った曲から30歳を超えて作られた新曲に至るまでを並べてみると、若さと成熟のテーマが立ち現れてくるように思われる。神聖かまってちゃんのライブは不器用で不安定で、でもそれでいて以前よりもちゃんと進行できるようになっていたりもして、時々ものすごく素晴らしいパフォーマンスの日もあれば、来るんじゃなかったと思う時もあって、その不安定な感じが何にも代えがたい魅力になっている。純粋に音楽を楽しんでいる様子、真剣に自分の音楽のスタイルを追求しようとしている様子からは、若さと成熟とが共存しうることを実感させてくれる。30歳を超え、いつまでも学校空間の世界だけを描くままでもいられない。かといって懸命に社会人の胸中を描こうとしても地に足が着いていない浮遊感は拭いきれない。模索期にさしかかっていることは間違いないのだが、その模索している様こそが似つかわしい。

 ラストは大森靖子とのジョイントで、オリジナル・ヴァージョンでは川本真琴がゲストヴォーカルをとった「フロントメモリー」。2年前のジョイント時の大森靖子はほぼ奇声をあげるだけのスタイルに徹していたこともあり、まったく別人のようなパフォーマンスだが、何をどうやってもかまってちゃんにしかならない彼らとは対照的に、相手と状況に応じていかようにも変容しうる大森靖子の柔軟性が際立つ。最後はやっぱり2人とも客席にダイブの大団円で、新しいコラボレーションが生まれる余韻を残しつつ終了。実際にまた共演してほしい。




感染するSF(2016年7月17日)

「パンデミックSF映画における感染の文化・政治学」

 第55回日本SF大会「いせしまこん」(三重県鳥羽市)終了。合宿企画で午前4時までセッションが続く、まさに「大人の文化祭」。指定された合宿部屋に夜中行ったらどなたかが布団を敷いてくださっていて、目覚めたらすでに誰もいなかった。とにかく皆さん体力あるんですよね。

 自主企画「視覚映像文化とSFの部屋」も早4年目となり、なんとなく存在は知られつつあるものの実際には誰も見たことがないというツチノコのような存在に・・・。
 今年のテーマは「ポストアポカリプスの風景」(前年度は「人工知能とポストヒューマン」)。SF研究者の小畑拓也さんと毎年テーマを設定して、最新のSF映画を概観し、トレンドの傾向をつかむ定点観測の場として重宝させていただいている。
 私自身の報告は、「パンデミックSF映画における感染の文化・政治学」と題して、近年のパンデミックものSF映画の動向を探り、その歴史的変遷と多様性を概観することを目指した。
 アメリカ映画の『アウトブレイク』(95)や、日本映画の『感染列島』(09)などがこの領域の代表作ということになろうが、荒廃するロサンゼルスを舞台にした『パンデミック』(15)、飛行機内を舞台にした『パンデミック・フライト』(イギリス、14)をはじめ、『コンテイジョン』(アメリカ、11)、『FLU 運命の36時間』(韓国、13)、『感染島』(オーストラリア、11)、『パンデミック』(カナダ、07)、『フェーズ7』(フランス、07)、『フェーズ6』(アメリカ、09)、『ザ・ベイ』(アメリカ・12)など、とにかく次から次に「原因不明の謎のウィルス」感染に脅かされ、特効薬もなく、ある一定の時間内に感染をくいとめ、対処しなければ、世界が殲滅の危機にさらされてしまう。基本的な枠組みが類似していることもあり、タイトルもそっくりなものが多く(日本での宣伝の仕方にもよる)、どれがどれやら区別がつきにくいぐらい活況を呈している。
 厳密には「ポストアポカリプス」(終末論的世界観)ではなく、「世界の終わり」をいかにくいとめるか奮闘するところにパンデミックSFサスペンス映画の醍醐味があるわけだが、映像文化ではないものの、ポストアポカリプスの原風景としてまず想起されるのは、藤子・F・不二雄の短編SFマンガ「みどりの守り神」(76)であり、滅亡後の世界がジャングルと化した東京の光景として描かれている。偶然、生き残った主人公たちは細菌兵器が誤って漏れてしまったことから、感染後一週間以内に死に至る病が世界中に伝染してしまい、世界が殲滅されてしまったことを残された資料から知ることになる。
 背後には冷戦構造化の生物兵器開発競争があり、感染源が「どこ」から「どのように」もたらされたのかを探ることで時代状況の推移も見えてくる。同様に廃墟と化した都会の光景(ニューヨーク)を描いた作品に『アイ・アム・レジェンド』(07)があるが、こちらはリチャード・マシスンのSF小説『地球最後の男』(54)を原作にしたもので、1964年、1971年にも映画化されている。
 さらに古典に目を向けてみると、ジョージ・ロメロ監督『ザ・クレイジーズ/細菌兵器の恐怖』(73)があり、なんといっても『ゾンビ』ジャンルを作り上げた監督なので、ゾンビものとの連関は強い。ほか、『カサンドラ・クロス』(76)や、小松左京原作の『復活の日』(82)も生物化学兵器を背景としている。あるいは、マイケル・クライトン原作による『アンドロメダ・・・』(71)/『アンドロメダ・ストレイン』(11、リドリー・スコット監督によるリメイク版)では病原菌は宇宙からもたらされる。
 ジャンルも細分化され、多様化してきている中で、ゾンビものをどのように位置づけるかが大きな課題となる。「ゾンビ=感染」とする場合に避けて通れなくなるわけだが、ゾンビもの自体が巨大ジャンルであるために、ゾンビを包括的に扱っていたらきりがない。感染するとストリッパー・ゾンビになってしまう『ストリッパー・ゾンビランド』(アメリカ、11)、「ブリティッシュ・ゾンビ」という新傾向があらわれたり(『ロンドン・ゾンビ紀行』英、12)、文芸作品に突然、人類とゾンビの最終戦争が入り込んだり(『高慢と偏見とゾンビ』、16)、噛まれるとヤクザ化する三池崇史監督『極道大戦争』(15)などもあって、ゾンビ業界はより一層多様化して発展を遂げている。
 また、シリアスな都市論に重きを置く傾向が強い近年のパンデミックものに対して、感染すると北のある国の「ある方そっくり」の風貌になってしまう『細菌列島』(日本、09)や、エボラウィルスをまき散らす『エボラ・シンドローム』(香港、96)などのブラック・コメディは一際異彩を放つ存在である。
 さらに、デヴィッド・クローネンバーグの息子であるブランドン・クローネンバーグ(1980- )監督作品『アンチヴァイラル』(カナダ、12)では、有名人のウィルスを高値で売買するビジネスが描かれ、ウィルスを介して有名人と一体化するという風変わりな世界観が「感染SF」の新境地を示している。性感染と青春ホラーを繋ぐ『イット・フォローズ』(アメリカ、14)の設定もおもしろい。

 というわけで概観しようとしても、こぼれ落ちてしまう要素は多く生じてしまうわけであるが、ある程度、目配りしただけでも見えてくることは数多い。歴史を遡っていっても、疫病と外国恐怖は不可分の関係にあったわけで、グローバル化が進む中での無意識の「外国恐怖」の表れをこのパンデミックものの流行に見ることもできるだろうし、政治・行政による制御・管理・排除の構図、「保護される者」と「排除(切り捨てられる)者」の境界も浮かび上がってくる。「原因不明のウィルス」からは、「認識できないもの」への畏怖、高度化する医療/テクノロジーに対する信頼と限界を見ることもできる。制御できない身体変容(突然変異)と集団ヒステリーの要素は、ホラー・サスペンスのジャンルを伝統的でありながらさらに発展させていく可能性に満ちている。
 
 「視覚映像文化とSFの部屋」は今後も継続していく予定ですので、随時、ご登壇いただける方を募集しています(場合によってはゾンビもので独立して企画出してもいいかも)。次年度は静岡で8月26・27日開催。










このアメリカがすごい(2016年7月8日)

宮本陽一郎『アトミック・メロドラマ――冷戦アメリカのドラマトゥルギー』

 宮本陽一郎『アトミック・メロドラマ――冷戦アメリカのドラマトゥルギー』(彩流社)は、ポストモダニズム文学研究者として知られる著者による、冷戦初期に力点を置いたアメリカ研究の成果であり、同時多発テロ/イラク戦争以後、「現在、目前で起こっている危機的状況」をアメリカ研究者としてどのように解明できるかという問いに対する返答にもなっている。同時多発テロをめぐる直接的な考察ではないものの、上岡伸雄『テロと文学――九・一一後のアメリカと世界』(集英社新書、2016)と問題意識を共有した「九・一一以後のアメリカ」を展望する試みでもあり、また、米国留学の成果を逸早く日本の大学の教育研究現場に導入することに腐心してきた著者のアメリカ論として、本書を亀井俊介『アメリカ文化と日本――「拝米」と「排米」を超えて』(岩波書店、2000)に連なる系譜に位置づけることもできるであろう。

 なぜ今、冷戦研究なのか。冷戦期は、民主主義に基づく「アメリカ」の概念を輸出/応用可能なものとして様々な物語(ナラティヴ)の形に託し、覇権国家としての「アメリカ」の原像が創出されていった時期に相当する。大統領選挙を間近に控えた今現在、保守派とリベラル派をめぐる対立・断絶が顕在化しており、「多文化主義的な共生」を志向しつつも、「多民族主義を肯定するがゆえに一層排他主義的になる」矛盾した傾向も浮かび上がっている。その源泉は冷戦期に探ることができるものであり、著者によれば、「今現在なおも冷戦のパラダイムは継続し続けている、あるいは新たな冷戦構造を迎えている」。

 前著『モダンの黄昏――帝国主義の改体とポストモダニズムの生成』(研究社、2002)』においても、大恐慌下の1930年代にキングコング映画が誕生した文化的背景を探ることを皮切りに文学、映画、ドキュメンタリー、写真、ミュージカル、優生学などジャンル、メディア、学問分野などを縦横無尽に展開しながら、ポストモダニズムの生成過程を辿る文化研究の実践例となっていたが、本書もまた、ネヴァダ州の砂漠の中で一九五五年に行われた核実験「オペレーション・キュー」をめぐるアメリカ生活の幻像をモチーフの軸として、「核」「家族」「メロドラマ」という主要なキーワードを媒介に「冷戦アメリカの原像」を探る文化研究である点に最大の特色がある。ジョン・フォードの西部劇映画、ショック療法/ロボトミー/精神病理学、ファミリー・メロドラマのハッピーエンディングの物語にまつわるそれぞれの考察から、黒沢明映画を起点にしたフィルム・ノワールの文化越境性、ジャンル混成体としてのSF恐怖映画『蠅男の恐怖』(1958)をめぐる分析に至るまで、一見、接点を見出しにくいほど独立した多彩かつ精緻な個々の章を読み進めていくと、やがてジグソーパズルを組み合わせるかのように冷戦期アメリカの原像が総体として立ち現れていく様はまさに円熟の境地と言える。マッカーサー主導による日本の戦争記録画収集計画を冷戦期前夜の文化政策の動向と絡めて実証的に跡づける第四章は、日米関係および日本の「戦後」史観をも問い直す本書のダイナミズムを象徴する章になっているのだが、著者の祖父である洋画家・宮本三郎(1905-74)が鍵となる人物として焦点化されているのも興味深い。

 気迫のこもった「私的な終章――教育のために」に示されているように、九・一一以後のアメリカを取り巻く情勢、日本の大学事情の激変、さらに2015年6月の文部科学省通知に端を発した「文系の学問の存亡の危機」論争に対して、アメリカ研究者として、大学教育研究者として応答責任をはたそうとする誠実な姿勢が胸を打つ。文系/理系、実学/虚学という「時代錯誤的な二分論」が加速度的に深刻なレベルで進行してしまいつつある現状に対して何をどのように考え、行動することができるのか。人文系のみならず、すべての大学関係者にとって多くの示唆をもたらしてくれるものであり、本書の射程は地球規模の課題を解決することを目指す大学教育をめぐる理念と実践の書という面をも併せ持つ。大学の公益性、社会的使命がかつてないほどに問い直されている今、この課題はあらゆる読者に開かれ、共有されている。(初出『週刊読書人』2016年7月8日付)













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