借りてきた猫のように

――フィクションの中で生きる~映画・小説・音楽・マンガなどの日常――

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

2016年5月9日

 なんとフリースタイル社から「小林信彦コレクション」の刊行がはじまっており、その第一弾は『極東セレナーデ』(87)で、しかも江口寿史によるイラストが表紙。近年、電子書籍では入手困難な旧作が復刊されているとはいえ、待望の復刊であり、ありがたく喜ばしいのだが、当面、第二弾が『唐獅子株式会社』(78)であること以外はいつまで続く見込みであるのすら公表されていない。
『極東セレナーデ』は1980年代後半に流行した「ギョーカイもの」に位置づけられる作品で、大学卒業後、零細出版社で働いていた朝倉利奈を主人公とするシンデレラ・ストーリー。出版社の就職にこだわり、ポルノ雑誌のアルバイト編集者として働いていた彼女はわずか4ヵ月で表現規制による雑誌廃刊に伴い無職になってしまうのだが、文才とエンターテインメント好きを買われて、ニューヨークのショービジネスをレポートする特派員に抜擢される。これだけでも充分なシンデレラ・ストーリーとして成立するのだが、手の込んだ「知的アイドル」としての売り出しに本人の意思を超えて巻き込まれていく。広告代理店企画部長であり、タレント事務所経営者でもある氷川秋彦によるユニークなアイドル・プロモーション戦略は、雑誌『ヒッチコック・マガジン』編集長、テレビ・バラエティの発展期に構成作家として活躍していた著者ならではの芸能界/広告業界の光と影を反映したもので今読んでもおもしろい。
 若い女性の実際の語り口を小説に導入する「新・言文一致体」を目指した実験であったと述懐されているのだが、今となってはさして目新しいものではないものの、橋本治『桃尻娘』(78)をはじめとする同時代小説の主要な関心事であり、小林自身による『オヨヨ島の冒険』(70)における女の子の一人称口語文体にさらに遡ることもできる。

 2011年の東日本大震災に付随して起こった原子力発電所事故以来、この作品に対する再評価の兆しがあらわれるのだが、「知的アイドル」として売り出されていた主人公が原発を推進するキャンペーンに抜擢されてしまう展開はこの物語の中で確かに大きな意味を持つ。広告とメディアと原発をめぐる関係が想像以上に根深いものであることを私たちは2011年以後知ることになる。「放射能はいらねえ 牛乳を飲みてえ」(「LOVE ME TENDER」)と歌ったRCサクセションによる『COVERS』(1988)が発売禁止を言い渡される事件が起こるのもこの作品の発表後の話である。
 とはいえ、『極東セレナーデ』がそうした原発をめぐる観点からのみ再読されるとしたらつまらない/もったいないと思っていたところ、文芸評論家の斎藤美奈子による解説(「バブルとバブル後を先取りした物語」)を通して浮かび上がってくるのは、この作品が持つ同時代性であった。原発をめぐる観点からの再評価を牽引したのがそもそも斎藤氏であったわけだが、同氏による編著『1980年代』論を併せて読むと、この作品が1980年代を代表する作品たりうることがよくわかる。
 さらにいえば、解説の原稿が書かれた後になるであろう2016年上半期における芸能ニュースを経た私たちからすれば、「アイドル/芸能界とは何か」、「週刊誌ジャーナリズムとは何か」、「広告業界とアイドル/芸能界との関係性」の本質をもこの作品に読み込むことができるだろう。1980年代半ばは写真週刊誌の過熱ぶりが問題視され、マスコミ・ジャーナリズムとプライバシーの問題に注目がなされた時代であるが、現在、週刊誌ジャーナリズムのあり方が問い直される局面をまた迎えつつある。広告代理店や芸能事務所の旧来のモデルが移行期を迎えている今、業界のあり方、アイドルとは何かを再考する上で多くの示唆をもたらしてくれるにちがいない。

 私自身が小林信彦の小説を熱心に読んだのは、映画『紳士同盟』(86)公開後、中学から高校生にかけての時期で、中でも『夢の砦』(83)、『世間知らず(『背中合わせのハートブレイク』)』(88)と、この『極東セレナーデ』は勝手に三部作と命名して愛読した作品。著者自身が「B型ヒーローの系譜」とみなす傾向が共通しており、周囲になじめない孤独を抱えた主人公(『極東セレナーデ』では氷川秋彦)が自分の感性の赴くままに突っ走っていたら足元をすくわれたり、社会のしがらみに巻き込まれて失脚/敗北してしまったりする、いわば「破滅の美学」を描いた物語群であり、小林信彦の主人公はいつも傷つきやすく、センチメンタルであるのも十代の心性によく響くものだった。
「B型ヒーロー」の概念として著者が引き合いに出すのは夏目漱石の『坊ちゃん』であり、生卵をぶつけて溜飲を下げるのはフィクションの中では確かにクライマックスとして盛り上がるけれども、失脚/失職後も人生は続くわけで、『夢の砦』も『極東セレナーデ』も『世間知らず』も人生の儚さばかりが際立って映る。今日では血液型性格分類は疑似科学として旗色が悪いのだが、著者は漱石、大岡昇平に連なる主要なモチーフとして捉え、『坊ちゃん』の世界を裏側から描く『うらなり』(2006)において、より直接的に結実させている。

 斎藤美奈子・成田龍一編『1980年代』(河出書房新社、2016)は、政治・国際情勢・社会・フェミニズム・カルチャー・思想・プロレス・マンガ・映画など様々な観点から1980年代を立体的に捉えようとする試みであるのだが、中でも今現在との対比で見えてくるのは、文学と批評に大きな力があった時代であったということ。中でも「ニューアカデミズム」の隆盛は大学のレジャーランド化という現象と実は表裏一体であったのだろうが、文学や思想書が読まれた/売れた時代であったのはうらやましいかぎり。
「1980年代を代表する文学」について語る座談会では小林信彦の名前は残念ながら挙がってこないけれども、『1980年代論』で言及されている要素の多くは『極東セレナーデ』に盛り込まれていることがよくわかる(「1980年代を代表する文学」として確実に入ってくるのは田中康夫『なんとなくクリスタル』[80]、島田雅彦『優しいサヨクのための嬉遊曲』[83]ほか、村上龍、村上春樹、吉本ばななからそれぞれ一作品といったところ)。

 フリースタイル社が刊行する雑誌『フリースタイル30号 小林信彦さんに会いに行く』では、小林信彦の最新インタビューが掲載されていて(聞き手は亀和田武)、『極東セレナーデ』について今ふりかえる箇所など読みごたえがある。中でも「田中(爆笑問題の田中裕二)はいい結婚をしましたね」と80歳を超えてなおどうでもいいこと(というのも失礼ですがあまりにも脈絡がなかったもので)を変わらずに熱く語っている姿が微笑ましく、笑ってしまった。こういう大人になりたい(といいながら私自身もすでに充分すぎるほど大人の年齢なんですが)。
「小林信彦セレクション」が今後どのように続くかどうかはおそらく売れ行きにもよるのだろうと思うのでぜひとも成功してほしいし、『夢の砦』、『世間知らず』は確実に刊行してほしい。
















スポンサーサイト
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。