借りてきた猫のように

――フィクションの中で生きる~映画・小説・音楽・マンガなどの日常――

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このアメリカがすごい(2016年7月8日)

宮本陽一郎『アトミック・メロドラマ――冷戦アメリカのドラマトゥルギー』

 宮本陽一郎『アトミック・メロドラマ――冷戦アメリカのドラマトゥルギー』(彩流社)は、ポストモダニズム文学研究者として知られる著者による、冷戦初期に力点を置いたアメリカ研究の成果であり、同時多発テロ/イラク戦争以後、「現在、目前で起こっている危機的状況」をアメリカ研究者としてどのように解明できるかという問いに対する返答にもなっている。同時多発テロをめぐる直接的な考察ではないものの、上岡伸雄『テロと文学――九・一一後のアメリカと世界』(集英社新書、2016)と問題意識を共有した「九・一一以後のアメリカ」を展望する試みでもあり、また、米国留学の成果を逸早く日本の大学の教育研究現場に導入することに腐心してきた著者のアメリカ論として、本書を亀井俊介『アメリカ文化と日本――「拝米」と「排米」を超えて』(岩波書店、2000)に連なる系譜に位置づけることもできるであろう。

 なぜ今、冷戦研究なのか。冷戦期は、民主主義に基づく「アメリカ」の概念を輸出/応用可能なものとして様々な物語(ナラティヴ)の形に託し、覇権国家としての「アメリカ」の原像が創出されていった時期に相当する。大統領選挙を間近に控えた今現在、保守派とリベラル派をめぐる対立・断絶が顕在化しており、「多文化主義的な共生」を志向しつつも、「多民族主義を肯定するがゆえに一層排他主義的になる」矛盾した傾向も浮かび上がっている。その源泉は冷戦期に探ることができるものであり、著者によれば、「今現在なおも冷戦のパラダイムは継続し続けている、あるいは新たな冷戦構造を迎えている」。

 前著『モダンの黄昏――帝国主義の改体とポストモダニズムの生成』(研究社、2002)』においても、大恐慌下の1930年代にキングコング映画が誕生した文化的背景を探ることを皮切りに文学、映画、ドキュメンタリー、写真、ミュージカル、優生学などジャンル、メディア、学問分野などを縦横無尽に展開しながら、ポストモダニズムの生成過程を辿る文化研究の実践例となっていたが、本書もまた、ネヴァダ州の砂漠の中で一九五五年に行われた核実験「オペレーション・キュー」をめぐるアメリカ生活の幻像をモチーフの軸として、「核」「家族」「メロドラマ」という主要なキーワードを媒介に「冷戦アメリカの原像」を探る文化研究である点に最大の特色がある。ジョン・フォードの西部劇映画、ショック療法/ロボトミー/精神病理学、ファミリー・メロドラマのハッピーエンディングの物語にまつわるそれぞれの考察から、黒沢明映画を起点にしたフィルム・ノワールの文化越境性、ジャンル混成体としてのSF恐怖映画『蠅男の恐怖』(1958)をめぐる分析に至るまで、一見、接点を見出しにくいほど独立した多彩かつ精緻な個々の章を読み進めていくと、やがてジグソーパズルを組み合わせるかのように冷戦期アメリカの原像が総体として立ち現れていく様はまさに円熟の境地と言える。マッカーサー主導による日本の戦争記録画収集計画を冷戦期前夜の文化政策の動向と絡めて実証的に跡づける第四章は、日米関係および日本の「戦後」史観をも問い直す本書のダイナミズムを象徴する章になっているのだが、著者の祖父である洋画家・宮本三郎(1905-74)が鍵となる人物として焦点化されているのも興味深い。

 気迫のこもった「私的な終章――教育のために」に示されているように、九・一一以後のアメリカを取り巻く情勢、日本の大学事情の激変、さらに2015年6月の文部科学省通知に端を発した「文系の学問の存亡の危機」論争に対して、アメリカ研究者として、大学教育研究者として応答責任をはたそうとする誠実な姿勢が胸を打つ。文系/理系、実学/虚学という「時代錯誤的な二分論」が加速度的に深刻なレベルで進行してしまいつつある現状に対して何をどのように考え、行動することができるのか。人文系のみならず、すべての大学関係者にとって多くの示唆をもたらしてくれるものであり、本書の射程は地球規模の課題を解決することを目指す大学教育をめぐる理念と実践の書という面をも併せ持つ。大学の公益性、社会的使命がかつてないほどに問い直されている今、この課題はあらゆる読者に開かれ、共有されている。(初出『週刊読書人』2016年7月8日付)













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