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借りてきた猫のように

――フィクションの中で生きる~映画・小説・音楽・マンガなどの日常――

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感染するSF(2016年7月17日)

「パンデミックSF映画における感染の文化・政治学」

 第55回日本SF大会「いせしまこん」(三重県鳥羽市)終了。合宿企画で午前4時までセッションが続く、まさに「大人の文化祭」。指定された合宿部屋に夜中行ったらどなたかが布団を敷いてくださっていて、目覚めたらすでに誰もいなかった。とにかく皆さん体力あるんですよね。

 自主企画「視覚映像文化とSFの部屋」も早4年目となり、なんとなく存在は知られつつあるものの実際には誰も見たことがないというツチノコのような存在に・・・。
 今年のテーマは「ポストアポカリプスの風景」(前年度は「人工知能とポストヒューマン」)。SF研究者の小畑拓也さんと毎年テーマを設定して、最新のSF映画を概観し、トレンドの傾向をつかむ定点観測の場として重宝させていただいている。
 私自身の報告は、「パンデミックSF映画における感染の文化・政治学」と題して、近年のパンデミックものSF映画の動向を探り、その歴史的変遷と多様性を概観することを目指した。
 アメリカ映画の『アウトブレイク』(95)や、日本映画の『感染列島』(09)などがこの領域の代表作ということになろうが、荒廃するロサンゼルスを舞台にした『パンデミック』(15)、飛行機内を舞台にした『パンデミック・フライト』(イギリス、14)をはじめ、『コンテイジョン』(アメリカ、11)、『FLU 運命の36時間』(韓国、13)、『感染島』(オーストラリア、11)、『パンデミック』(カナダ、07)、『フェーズ7』(フランス、07)、『フェーズ6』(アメリカ、09)、『ザ・ベイ』(アメリカ・12)など、とにかく次から次に「原因不明の謎のウィルス」感染に脅かされ、特効薬もなく、ある一定の時間内に感染をくいとめ、対処しなければ、世界が殲滅の危機にさらされてしまう。基本的な枠組みが類似していることもあり、タイトルもそっくりなものが多く(日本での宣伝の仕方にもよる)、どれがどれやら区別がつきにくいぐらい活況を呈している。
 厳密には「ポストアポカリプス」(終末論的世界観)ではなく、「世界の終わり」をいかにくいとめるか奮闘するところにパンデミックSFサスペンス映画の醍醐味があるわけだが、映像文化ではないものの、ポストアポカリプスの原風景としてまず想起されるのは、藤子・F・不二雄の短編SFマンガ「みどりの守り神」(76)であり、滅亡後の世界がジャングルと化した東京の光景として描かれている。偶然、生き残った主人公たちは細菌兵器が誤って漏れてしまったことから、感染後一週間以内に死に至る病が世界中に伝染してしまい、世界が殲滅されてしまったことを残された資料から知ることになる。
 背後には冷戦構造化の生物兵器開発競争があり、感染源が「どこ」から「どのように」もたらされたのかを探ることで時代状況の推移も見えてくる。同様に廃墟と化した都会の光景(ニューヨーク)を描いた作品に『アイ・アム・レジェンド』(07)があるが、こちらはリチャード・マシスンのSF小説『地球最後の男』(54)を原作にしたもので、1964年、1971年にも映画化されている。
 さらに古典に目を向けてみると、ジョージ・ロメロ監督『ザ・クレイジーズ/細菌兵器の恐怖』(73)があり、なんといっても『ゾンビ』ジャンルを作り上げた監督なので、ゾンビものとの連関は強い。ほか、『カサンドラ・クロス』(76)や、小松左京原作の『復活の日』(82)も生物化学兵器を背景としている。あるいは、マイケル・クライトン原作による『アンドロメダ・・・』(71)/『アンドロメダ・ストレイン』(11、リドリー・スコット監督によるリメイク版)では病原菌は宇宙からもたらされる。
 ジャンルも細分化され、多様化してきている中で、ゾンビものをどのように位置づけるかが大きな課題となる。「ゾンビ=感染」とする場合に避けて通れなくなるわけだが、ゾンビもの自体が巨大ジャンルであるために、ゾンビを包括的に扱っていたらきりがない。感染するとストリッパー・ゾンビになってしまう『ストリッパー・ゾンビランド』(アメリカ、11)、「ブリティッシュ・ゾンビ」という新傾向があらわれたり(『ロンドン・ゾンビ紀行』英、12)、文芸作品に突然、人類とゾンビの最終戦争が入り込んだり(『高慢と偏見とゾンビ』、16)、噛まれるとヤクザ化する三池崇史監督『極道大戦争』(15)などもあって、ゾンビ業界はより一層多様化して発展を遂げている。
 また、シリアスな都市論に重きを置く傾向が強い近年のパンデミックものに対して、感染すると北のある国の「ある方そっくり」の風貌になってしまう『細菌列島』(日本、09)や、エボラウィルスをまき散らす『エボラ・シンドローム』(香港、96)などのブラック・コメディは一際異彩を放つ存在である。
 さらに、デヴィッド・クローネンバーグの息子であるブランドン・クローネンバーグ(1980- )監督作品『アンチヴァイラル』(カナダ、12)では、有名人のウィルスを高値で売買するビジネスが描かれ、ウィルスを介して有名人と一体化するという風変わりな世界観が「感染SF」の新境地を示している。性感染と青春ホラーを繋ぐ『イット・フォローズ』(アメリカ、14)の設定もおもしろい。

 というわけで概観しようとしても、こぼれ落ちてしまう要素は多く生じてしまうわけであるが、ある程度、目配りしただけでも見えてくることは数多い。歴史を遡っていっても、疫病と外国恐怖は不可分の関係にあったわけで、グローバル化が進む中での無意識の「外国恐怖」の表れをこのパンデミックものの流行に見ることもできるだろうし、政治・行政による制御・管理・排除の構図、「保護される者」と「排除(切り捨てられる)者」の境界も浮かび上がってくる。「原因不明のウィルス」からは、「認識できないもの」への畏怖、高度化する医療/テクノロジーに対する信頼と限界を見ることもできる。制御できない身体変容(突然変異)と集団ヒステリーの要素は、ホラー・サスペンスのジャンルを伝統的でありながらさらに発展させていく可能性に満ちている。
 
 「視覚映像文化とSFの部屋」は今後も継続していく予定ですので、随時、ご登壇いただける方を募集しています(場合によってはゾンビもので独立して企画出してもいいかも)。次年度は静岡で8月26・27日開催。










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