借りてきた猫のように

――フィクションの中で生きる~映画・小説・音楽・マンガなどの日常――

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ゆるーく、しなやかなる越境(2016年8月26日)

 夏の遠征として各種会合・イベントに参加してきました。
 まず広島・尾道での哲学カフェ(於・antenna Coffee House、8月21日)。夏の盛りの日曜日、坂の多い路地をぐるぐるまわりながら到着するのも街歩きとして楽しい(単に迷っていただけとも言う)。海の町・山の町・坂の町・路地の町としての尾道は少し角度が変わるだけで見える光景がまったく変わってくるのがおもしろい。「行動する哲学者」(と勝手に呼ばせていただいている)上村崇さんにご紹介していただいて、私にとって初めての「哲学カフェ」参加となりました。哲学カフェの起源は1992年のフランスに遡ることができるらしく、日本でも2001年ぐらいから大阪をはじめ様々な形で発展を遂げて定着してきているようだ。
 「哲学カフェ尾道」は今回が第2回でテーマは「私たちは、なぜ争うのか?」。終戦記念日とオリンピックの時期にあわせて、必ずしも戦争についてだけではなく、ゲームやスポーツ競技なども含めて争いや競争心、闘争本能などを広く、かつ根源的に捉えようとする試み。とはいえ、話し方や進め方に決まったルールや法則があるわけでもなく、なんらかの結論をつける必要もなく、2時間の流れを「進行役」がゆるやかに制御しながら対話を続けていく。原則12人が定員とのことで、当日の顔ぶれによっても、あるいは同じ顔触れで同じテーマであっても、その日の流れによってまったく異なる展開になるのではないかと思わせるライブ感覚も魅力。
 進行役の松川絵里さんは哲学者として研究・教育に関与しながら、「哲学ワークショップ」などの活動を支援する団体「カフェフィロ」の代表者の一人として、哲学の領域を多くの人々に幅広く開いていく実践活動を展開されている。松川さんも含めて、この回の参加者の多くは尾道以外(岡山の倉敷など)から集まっているようで参加者の背景も多様。参加してみて特に新鮮だったのは「自己紹介をしない」こと。回を追うごとに顔なじみになっていくのは自然の流れとしても、お互いの背景にとらわれずフラットに意見を交わすことがある種の理想としてあるわけで、とはいえそういった局面は実はめったにない。
 また、「結論を出す必要がなく、時間がきたら終わる」というのもおもしろい試みで、暫定的なものであったとしても何らかの結論を出すとしたらどうしても戦略的に話を進めていく意識が生じてしまい、議論のための議論になってしまいがちである。今回の「私たちは、なぜ争うのか?」というテーマはあまりにも大きなもので、さらにスポーツ競技やゲームに戦争など位相が異なる話題が混在してしまうために議論としては雑駁で未消化になってしまう面もあるのだが、だからこそよいようにも思う。ありきたりの結論で満足してしまうよりも、未消化になってしまった点については各自が持ち帰ってさらに考えを深めていく下地とすることができる。
 人は年齢や経験を重ねていく上で哲学を求めていくものであり、その一方で大学はますます20歳前後の層だけの教育機関という傾向が強くなっており(私の世代はまだ社会人入試や夜間学部による多様性があった)、高校卒業後すぐに哲学という学問分野を求める層はどうしても限られたものにならざるをえない。誰でも参加可能でそれぞれが求める要素も多様であるために運営は大変にちがいないが、様々な分野でそれぞれ生きている人たちに届く言葉で、人文系の可能性と有効性を示すとてもおもしろく意義深い取り組みが哲学カフェでは実践されていると思う。
 ところ変わって「世界のマンガについてゆるーく考える会」第一回会合が四谷にて開催(8月24日)。フランスのコミックス文化BD(バンド・デシネ)研究・翻訳者として日本のBD受容のみならず現在の海外マンガ受容を牽引してこられている原正人さんの呼びかけで30名ほどが集い、会議室が満員電車のようにぎっしり。翻訳者、研究者、コレクター、編集者、出版者、愛好家、アーティストなど多彩な人たちが集い、アメリカ、フランス、ロシア、香港、韓国、フィンランドなど言語、文化、ジャンルなど関心領域も多様。自己紹介だけでも1時間を超えたのだが、それだけでも充分おもしろく、加えて各自が持ち寄った世界のマンガ(原典、翻訳書)や紹介研究本などの閲覧と談話を楽しむことができました。
 ここ数年、海外マンガの翻訳出版はかつてないほど活況を呈しており、しかしながら海外マンガと一口に言っても多様でありすぎて、出版流通もまたさらに多岐にわたっているために概観しにくい状況にある。海外マンガ翻訳の祭典「ガイマン賞」や「海外マンガフェスタ」(2016年度は10月23日に東京ビッグフェスタにて開催予定)などもすでに5年ほど実績を重ね、盛り上がってきている。
 ファン・カルチャーの領域はどうしてもその道に入門する覚悟が求められるところがあり、「こんなことも知らないのか!」という厳しい修業時代を経てこそ見えてくる地平はあるのだろうが、「ゆるーく」間口を横断的に広げることで見えてくる面もまた確実にあるわけでそれぞれがそれぞれの知見や情報を持ち寄って対話ができる場所がこのようにしてできるのは本当にありがたい。究極的にはその言語をまったく解さずともその場で実際に作品に触れ、楽しむことができるのはマンガという視覚文化ならでは。「世界のマンガについてゆるーく考える会」は今後、月例会の勢いで継続される予定であるらしく今後の展開に期待。
 
 さらにもう一件。関西芸術座による演劇『ハツカネズミと人間』(8月18日~21日、於・シアトリカル應典院[大阪]、全7公演)は、アメリカの作家ジョン・スタインベックの小説・戯曲(1937)を原作にしたもので、日本でも特に人気がある舞台作品。翻訳・演出の亀井賢二氏によれば、40年ほど前から舞台化の構想を育んでいたらしく、舞台装置や台詞の端々に至るまで作品に対する情熱が伝わる丁寧な仕上がりになっている。「関西俳優協議会主催新人研修事業参加作品」ということで入団してから数年のキャストにより成立している作品らしいが、古典文学作品に真正面から本格的に取り組んでいる姿勢が清々しい。
 私が観劇したのは夜の部で終演は21時半近くという遅い時間であったにもかかわらず、観客層は多様で年配の方も多く、このような形で文学や演劇が街の光景に溶け込んでいるのはいいなと嬉しく思う。日程が合わず参加できないのが残念だが、8月27日(土)には稽古場にて「DO会」と銘打たれた親睦会が予定されており、出演者と観客による公演を踏まえた対話の場が設けられている。

 偶然重なったというのが正直なところなのだが(もともとは毎年恒例の名古屋・中京大学での読書会を起点に、途中で大阪に立ち寄り、その後、広島への墓参りを兼ねた帰省という旅程)、わずか一週間ほどの間に文学・演劇・哲学・マンガ・アニメなどのそれぞれの分野で、その境界を幅広く拡げようとする試みの実践に立ち会うことができたのはおもしろい経験だった。現在は人文系の危機ということを意識せざるをえない状況にあるが、こうした実践例を通してみるとまだまだできることは様々にあるのではないかという思いをあらためて実感する。










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