借りてきた猫のように

――フィクションの中で生きる~映画・小説・音楽・マンガなどの日常――

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この世界の片隅に(2016年12月31日)

 アニメ映画『この世界の片隅に』についてはすでにあまりにも多く語られているので、つけ加えることは何もないのだが、舞台となる呉市出身である私の母親を連れて映画館に行ってきた「雑感」を記念に書き留めておきたい。
 とはいえ結論から言うと、私の母親は終戦時にはまだ幼児だったために物語から新たな逸話を引き出すこともほぼできず、厳密には市街地から若干離れた街の出身なので何を尋ねてもあやふやな反応しか得られなかったのだが、よく考えてみれば、母親と一緒に映画館で映画を観ること自体が新鮮な体験である。

 私自身も呉で生まれているもののその地で育ったわけではないという立場から(里帰り出産による)あらためて思ったのは、原作者も監督も実際の出身ではない場所を舞台にしている事実はことのほか大きいのかもしれないなということ。呉は原作者のこうの史代にとって母方の家系の郷里であるようで、伯母にあたる方に対して謝辞が捧げられている。
 また、大阪出身の片淵須直監督は先行する作品『マイマイ新子と千年の魔法』(2009)において、広島の隣の県である山口の防府を舞台としてとりあげており、9歳の主人公「新子」のお母さんが昭和30年に29歳であるという設定が、遡って昭和20年に19歳となる『この世界の片隅に』の主人公と「重なる」偶然の必然性について述懐している。『マイマイ新子と千年の魔法』の原作は、高樹のぶ子による自伝的小説『マイマイ新子』(2004)であり、山口県防府市は原作者の郷里である。「日本版『赤毛のアン』を現代に」という狙いを込めた自伝的小説をアニメ化する際に、空想好きな主人公の想像力が千年の時を超え、平安時代の周防の国と結びつく様をファンタスティックに「視覚的」に表現している点に特色がある。
 結果的に『マイマイ新子と千年の魔法』は公開当時、興行的に低迷し、打ち切りの憂き目にあってしまうのだが、制作途上、資金面で行き詰まった『この世界の片隅に』を救うことになるクラウド・ファウンディングの大成功を主に支えたのは『マイマイ新子と千年の魔法』のファン層であり、広島・山口に代表されるローカルな地方の風景とことば(方言)を精緻に描く、この二つの物語は分かちがたく結びついている。『この世界の片隅に』の評判を得て、『マイマイ新子と千年の魔法』の再評価がもたらされてきており、2017年1月8日には公開時に初日舞台を行った新宿ピカデリー劇場にて監督の舞台挨拶付アンコール上映が行われる予定である。
 二作品共に風景とことば(方言)が丹念に描かれているのだが、『この世界の片隅に』の方が時代考証など様々な面でより一層発展している。航空史研究家(学研『太平洋戦史シリーズ』など)としての側面も併せ持つ片淵監督により、特に昭和18年から21年頃の呉の状況が一次史料を徹底的に踏まえることで、視覚文化であるアニメ表現を通して再構築されているのだが、単に史料の再現として正確なだけでなく、当時を知る人たちの話に耳を傾ける地道な活動の成果が細部の描写に人間味や真実味をもたらしている。例えば、広島から呉への物理的距離は物語中において汽車の移動によって示されているのだが、呉線で呉に向かう直前にトンネルを抜けると軍港・呉が現れる。戦艦「大和」建造を秘匿するために当時はトタン板で覆われていたそうで、そのトタン板が「銀色」に塗られていたために太陽光が反射して車内は大変な「暑さ」になっていたという。
 マンガの原作をアニメ化する際に大きな特色として「色」は大きな役割をはたしており、「緑」豊かな山・段々畑・坂の街と海・空の「青」のコントラストは『この世界の片隅に』の物語においても基調をなしている。しかしながら、文字史料において「色」は辿りにくい側面であるにちがいなく、もっとも再現に苦心した点の一つであろう。加えて、匂いや温度(暑さ)など五感に訴えるのも本作品の醍醐味となっている。ローカルな風景やことばを、五感を通して愛情深く実証的に再構築する姿勢は、地元の出身者が抱く愛憎交えた、時に屈折した感慨とも異なるものであるかもしれず、出身でない者の視点に立脚しているからこそ特定の地域を細密に描きながらも普遍的な力を持ち、郷愁に誘う効果をあげているのではないか。
 二作品共に主題歌をコトリンゴが担当しているように、「音楽」も物語において大きな役割をはたしているにちがいないが、映画館でもっとも体感されるであろう「音」の効果は絶大なもので、爆撃機が旋回する「音」、爆弾が投下される「音」がひときわ不穏で恐ろしく感じられる。ほか、画面の構図・アングルも趣向が凝らされており、アニメ・メディアならではの「動き」をどのように表現しているかも含めて、「視点」「視覚」の面からの作品分析も有効であろう。
 『この世界の片隅に』は原作とアニメそれぞれのメディアの特性を活かしながら相互に補完しあっている点も絶妙であり、原作を先に読んでいる者であれば、動画としてのアニメ表現の技巧を楽しむことができるであろうし、アニメを先に観た者であれば、後に原作に触れることによって原作マンガの叙情性やマンガという表現メディアならではの実験性を堪能することができるであろう。
 原作は月2回刊行による雑誌連載として実際の歳月の流れと併せて展開されていたものであり、初出媒体で触れていた読者は実際にはそれほど多くないとしても、計3巻に及ぶ原作マンガの分量による体感時間と、2時間程度のアニメ映画とでは時間の流れ方も異なるものにならざるをえない。丹念に時間をかけて成長を描いた原作と比べれば、アニメ版の主人公すずは子どもっぽく映るし、物語の繋がりがわかりにくい場面も少なからずある。その点でも、アニメと原作マンガは相互補完的な関係にあり、双方のメディアを通して物語が完結するような構成になっているのもおもしろい。

 母親と一緒に映画を鑑賞している最中に、主人公のすずと年齢はまったく異なるものの、私の祖母もそういえば広島から呉に「嫁いで」きたことに初めて思い至った。私の祖母は妹夫婦を原爆で亡くしている。『この世界の片隅に』は「夫婦/家族」になろうとする物語でもある。そもそも私にとって祖母は「おばあさん」の姿でしかなく、祖母にも娘時代があったというごく当たり前のことをこれまでまったく想像したこともなかった。
 大きなテーマについて語ることができる作品であると同時に、「私」の領域で様々に「感じ」させてくれるのもこの作品ならではの魅力であると思う。













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