借りてきた猫のように

――フィクションの中で生きる~映画・小説・音楽・マンガなどの日常――

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あなたも狭山市に住んでいますか(2017年5月5日)

「たくさんの金魚がプールで泳ぐ姿はキレイだろうなって思って」。
 2012年に埼玉県狭山市の中学校で実際に起こった事件は不思議なぐらい想像力をかきたてるものであったようで、小説やイラストなど、プロ、アマチュアを問わず様々な物語が生み出されてきた。
とはいえそうはいっても、「女子中学生たちが中学校のプールに夜、忍び込み、夏祭りの金魚すくいで余った金魚400匹を放った」というそれだけの顛末ではあるわけで、そんな郊外のちょっとした日常の逸脱が映画に結実されたばかりか、第33回サンダンス映画祭(ショートフィルム部門)グランプリを受賞とくれば、海外の観客にこの物語の想像力がどのように響いたのか、興味は尽きない。
 長久允監督(1984- )による短編映画『そうして私たちはプールに金魚を、』は渋谷ユーロスペースで公開が開始され、関西、長野と少しずつ公開規模を拡張しつつある。
カンヌ広告祭(2013年ヤングライオンズフィルム部門メダリスト)受賞など、CMプランナー/ディレクターとして活躍中の表現者らしく、テンポ良く切り替わるスピード感と小気味よいセリフが魅力。
 豊穣に言葉が紡がれるが、彼女たちの気持ちはよくわからないままであり、感情や感覚を巧く言語化できないもどかしさこそが十代ならではであるわけで、説明できるようになった頃にはすでに青春時代は終わりを告げているのだろう。
中学生の行き場のないどんづまり感が「どこにも繋がっていない国道」に象徴される郊外の閉塞に巧く重ね合わされていて、思春期ものと郊外の相性の良さをあらためて実感させてくれる。アメリカのオープン・ロード「ルート66」と、渋滞のイメージしか沸かない「国道16号線」とがいかに異なることか!
 「中2病」はよく扱われるモチーフであるけれども、中学生ものは実は意外に難しく、それもこれも中学生は行き場もなく、言動の背後にいちいち理由なんてなく、ドラマになりにくいからにほかならない。
この物語においても「なんでかわかんないけど」「結局」という言葉が連呼されるように、そもそも中学生でいること自体に意思や選択の余地などない。
 夏休みだからと言ってバイトができるわけでもなく、七夕祭に行っても劇的に人生が変わるわけでもない。部活が時々あって、あとは自転車で近くのイオンに行って何を買うわけでもなくぶらぶら過ごすぐらい。
 自転車ではとてもじゃないが、どんづまりの国道から先の世界には出られない。飛び交う自衛隊の飛行機もここから外に連れていってくれはしない。
 かくしてキャッチフレーズは「君はここから出られないのだ、夏」。

 思春期ものの舞台として、郊外や地方の光景は確かに相性が良いが、「ここから抜け出したい」という原動力と、「いずれ皆がバラバラになってしまう」刹那の感覚が十代の「いま」を特別なものにする土壌として有効に機能しているから。
 しかし、ベッドタウン型の郊外がおそろしいのは、結構、遠いのに通えなくもない中途半端なアクセスと人口急増期に作り上げられたインフラ整備などにより「そこそこ便利」で、抜け出したいが抜け出す説得力を得にくい点に尽きる。
この物語でも難易度の高いダンジョンになぞらえられているように、どこに行くにもアクセスはめっぽう悪いにもかかわらず、地元の高校に通う場合でも自転車で1時間以上程度なら平気で通う。大学や会社にだって、電車で片道2時間かけてつらいのに通いきれてしまう。物価もそこそこ安く、刺激はないが不満もなく、「そこそこ幸せ」な日常が茫漠と広がっている。
 1990年代以降の「失われた20年」とも称される不況と社会構造の変化すらなかったことになってしまっているような「退屈な日常」の世界に物語の主人公たちは今もなお住んでいる。本当はいつでもぽんと外に出られるはずの外側の世界に、気軽に日帰り/通勤・通学できてしまうがために、逆にいつまでも「ここ」から抜け出せる気がしない。そんなおそろしい郊外の閉塞感と呪縛がリアルに描かれている。
 パンフレットの制作日誌にて触れられているように、15歳の役者が演じる中学生を描いた物語でありながら、この場合の「リアル」は彼女たち現役の中学生たちのリアルを意味するものではない。「大人に向けて作った大人のための青春映画」であり、15歳の出演者たちから口々に「こんな言葉喋らないんですけど」と言われ、挙句に「どうして金魚をまくか結局あまりわからない」という散々な反応であったそうで、出演者たちがまったく共感できない物語と演出が、外国の観客をも巻き込んで幅広く共感されるという不思議。
 25分弱の短編映画で、CM制作をフィールドに活躍中の表現者ならではの目まぐるしくモンタージュが挟み込まれる構造であるために、実はどの映画にも似ていない。それでいて、実際に作り手からも言及がなされているように、ある種の系譜を意識しないではいられない。相米慎二『台風クラブ』(1985)、岩井俊二『打ち上げ花火、下から見るか、横から見るか』(1993)、庵野秀明『ラブ&ポップ』(1997)……。
 とりわけ『打ち上げ花火、下から見るか?、横から見るか?』は、プールをクライマックスの場面に据えていることからも誰しもが想起するところであるが、当然のことながら真夜中の学校のプールに照明なんてついてない。
きわめてローカルな場所を舞台にしたこの物語が、言葉の壁を越えて、サンダンス映画祭で受け入れられたというのは嬉しい驚き。
 十代および郊外の閉塞感は国境を越える。
 そもそもサンダンス映画祭自体、スキー・リゾート地であること以外に「何もない街」ユタ州パーク・シティに文化と若者を呼び込もうとしてスタートしたものであった。
「誰もが皆、狭山市に住んでいる」。
 佐藤雅彦の本当はどうかしてるはずのキャッチコピーが説得力を持つ。

 この物語にインスピレーションを与えた、実際のかつての少女たちが渋谷ユーロスペースの初日上映に招待されていたというのも現実世界との接点に彩りを添えてくれる。
 「何もない街」の「何も起こらない日常」からのちょっとした逸脱が思いがけず大きなニュースになり、そこから新たな物語がもたらされる想像力の源泉になってくれた。
 まだ実際の出来事から5年ほどしか経っていないけれど、これから年齢を重ねていくほどにこの「大人のための青春映画」は彼女たちにとってより特別な存在になっていくことだろう。
 そんな特別な物語を得られたことを羨ましく思うが、それはちょっとした逸脱ができた人たちだけの特権。










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