借りてきた猫のように

――フィクションの中で生きる~映画・小説・音楽・マンガなどの日常――

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2015年5月16日

 NHK「ラストデイズ」取材班による書籍『ラストデイズ忌野清志郎――太田光と巡るCOVERSの日々』(PARCO出版)、まさかの傑作ドキュメンタリー作品に変貌していてびっくり。昨年5月2日に放映された同名のTV放送(60分)を書籍化したもので、てっきりDVD化されたものと思ってとりあえず注文していたつもりが届いたら「あれ?本なの?」というぐらい把握していないものだったのですが、TV放送をもとにしているにもかかわらず、放映時の写真などもなく、爆笑問題の太田光をインタビュアーに据え、関係者の証言をそのまま収録し、じっくり読ませる構成に。
 私は今でも唯一聴いているラジオ番組が「爆笑問題カーボーイ」なので(田中裕二の明るいお喋りが好き)太田光が案内人となることにそれほどの違和感はなかったのですが、対象となる忌野清志郎と2回だけしか会ったことがないという微妙な距離感もうまく作用している。
 本放送も視聴したものの、ハイライトとなる盟友・仲井戸麗市と太田光の(初対面となる)対談も含めて60分の放送時間では消化不良の感が残ったのですが、まさかこうして書籍の形で帰結するとは。仲井戸麗市との対談は50頁近くにおよび、丁寧に慎重に言葉を選びながら訥々と話をするというもので、これは一部だけを編集して採用することも難しく、なるほど結果的に書籍の形としてまとめられたことも納得できるものでした。
 忌野清志郎の活動の大きな転換点となったRCサクセション『COVERS』(1988)前後の活動を辿っていく構成で、泉谷しげるや当時のレコード会社の宣伝担当者など蜜月とその後の訣別を経験することになる関係者の人選も絶妙で、でも人と人とが深く交わるということは(しかも表現の現場で)いろいろ起こりうるのも当たり前だし、そしていろいろあってもその時の思い出をそれぞれがとても大事にしていることがインタビューから深く伝わってきます。
 インタビュアーとしての太田光は、所属レコード会社から発売ができなくなり、話題となった『COVERS』における表現の有効性をめぐり、考えをめぐらせていく。『COVERS』における直接的な表現ははたしてどこまで有効であったのか、と。
ファンはいつでも身勝手なもので、今となれば様々な背景資料から、RCサクセションが当時、彼らの原点となる洋楽を「替え歌」を通して共に楽しく演奏することで原点回帰をはたそうとしていた必要な過程であったことがわかります。しかし、私にとっても、ソロアルバム『RAZOR SHARP』(1987)、RCのアルバム『MARVY』(1988)と続く好調な流れの中で、RC/忌野清志郎の真骨頂はオリジナルの作品世界にこそあると信じていたこともあり、なぜカヴァー・アルバムが必要であったのかは当時の私にはうまくつかめないものでした。
 太田光にとって『COVERS』における直接的な表現は「不器用」なものであったという位置づけは最後まで変わらないながらも、インタビューを軸にした探求を通じて、表現者としての姿勢に感化されていく過程が立ち現れてくるところに、この作品のドキュメンタリー作品としての醍醐味があると思います。
 「表現を研ぎ澄ませて行くんだったら、敏感なままで」いるべきであって、たとえそれが「苦しい」ものであったとしても。
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