借りてきた猫のように

――フィクションの中で生きる~映画・小説・音楽・マンガなどの日常――

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2015年5月27日

 東野圭吾作家デビュー30周年記念作品『ラプラスの魔女』(角川書店)読了。
書き下ろしによる新刊なので現時点で詳細に触れるのは避けますが、「これまでの私の小説をぶっ壊してみたかった」という帯の惹句にあるように、これまでの作風とまったく異なるテイストとリズム感に最初は戸惑いつつ、物語の中に入り込むのに最初は苦労しました。30周年記念であればファンサービスに徹してこれまでの集大成を打ち出すほうがウケはいいはずですが、あえて新しいことに挑戦するところが長年にわたって第一線でいられる秘訣なのでしょう。レビューでも賛否両論(むしろ否が多い)になっているように、手法としては未消化である面もあると思うのですが、ベテランであっても新しい領域に挑戦する姿勢は今後の展開に必ず活かされるはず。
 私はデビュー作からたまたま手にとって愛読している作家で、夏休みを毎年両親の郷里の広島で過ごしていた30年前に、その年の江戸川乱歩賞作品を2冊(同時受賞の森雅裕『モーツァルトは子守唄を歌わない』)併せて読んだ記憶があります(9月の奥付ですが8月中に出てたと思うけど)。お盆の時期は従兄弟も来てくれてにぎやかなのですが、彼らが帰ってしまうと毎日遊び相手もなく大人の中で一人過ごさなければならず、その代り、本だけは買ってもらえたのでそのうちの一冊でした。はっきりいってデビュー作『放課後』(1985)の犯行に至る動機を小学生男子が理解できるわけもなく、なんだかよくわからなかったにちがいないのですが、以後、ほぼ欠かさず買って読むことをこちらも30年続けてきたんだなあと思うと勝手に感慨深いものがあります(思うように評価されていない時期も長かったので)。
 個人的に一番好きな作品は『同級生』(1992)で高校を舞台にした学園もの。野球部の主人公の高校生男子が同じ野球部のマネージャーをしていた同級生の女の子の事故死をめぐり、教師の事故への関与を暴き出していくというミステリ仕立てで物語は展開していきます。
 しかし、犯罪をめぐるミステリには実は重きがなくて、また別の同級生女子をめぐる緊張感のある人間関係が露わになるところにこそむしろミステリとしての醍醐味があります。意外にレビューなどでは賛否両論になっているので私からすれば意外な感じなのですが、批判の論拠とされている主人公の独善的な正義感やひとりよがりなところこそが十代男子のまっすぐな面と共存する「あやうさ」を的確に反映していてむしろ似つかわしいと思うのですけどね。傷つけたり、傷ついたり、やけに繊細だったり、意外に鈍感だったり、という多感で迂闊でアンバランスな十代男子の様子が巧く表現されています。
 様々な体験を経て「同級生」としてお互いを受け入れるに至る緊張感のあるやりとりがとても繊細に描かれていて、折に触れて何度も読み返している作品です。




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