借りてきた猫のように

――フィクションの中で生きる~映画・小説・音楽・マンガなどの日常――

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2015年6月13日

 湊かなえの『リバース』(講談社、2015)および大道珠貴『煩悩の子』(双葉社、2015)を併せて読了。資質の異なる作風で狙いとしているテーマも異なるのだが、両書を併せて読むことで気になったのは、「友達を作ることへの渇望とその困難」について。
 『リバース』の方は大学時代にゼミでの友人との旅行中に起こった事故をめぐる回想(「リバース」)が物語の中心を占めている。ミステリのジャンルから出発した湊かなえであるが、山歩きをめぐる人間模様を描いた佳品『山女日記』(2014)からは、ミステリの枠を超えた作品傾向が今後強くなっていくことを予感させるものであった。その点でも『リバース』は、少なくとも私には感情移入しにくい主人公に加えて、物語の根幹を占める「謎」に対してもほとんどまったく関心をもてないものでありながら、最後まで読ませるストーリーテリングはさすが。
 また、デビュー作『告白』(2008)が示すように、教師をも含めた学校空間での人間関係に対する強い執着はこの『リバース』においても現れており、主人公は小中高と学校空間の中で友達を作ることができなかった、現在は社会人の男性。大学に入ってようやく念願の「友人」を得ることができたか、はたして自分は本当に「友人」として扱ってもらえていたのかどうか自信をもてないでいる。友人の「謎」の事故死をめぐり、その友人の足跡を辿る物語。
 今日の学園もので注目される、いわゆる「スクールカースト」の視点を反映した人間関係に対する意識といえるものであるが、中学生ぐらいの男子ははたしてどこまで学校空間内での人間関係の階層化を意識しているものなのだろう? 女子は確かにグループに対する意識は強いのかもしれないが、自分を顧みると、友達を作るのがうまいわけではまったくなかったはずなのに、どの学年でも常にスポーツ好きで愛嬌があって人気のあった男子とかわるがわるよく一緒にいたことを思い出し、今であればむしろ友達になれていないだろうと不思議に思う。で、たぶんそういった階層意識に無頓着でいられるのが小中学生男子の良いところであるように思うのだが、時代が違うからなのか実のところよくわからない。
 一方、『煩悩の子』は小学5年生の女の子が主人公で、今はまだ男の子っぽい体つきをしているが、周囲や自分の身体や心が女性らしくなっていくことに対する不安を抱えている。私は「現代文化における思春期の表象」というクラスを担当していて、でははたしてこの「思春期」はいつの時期をさすものなのか? ティーン・カルチャーと言う言葉が示すように、十代に限定してもいいのだが、男女の成長の度合いに差はあるものの、十代直前の小学5・6年生あたりから辿り、中学生との差を見ていくことも有効なのだろう。著者の生育背景を思わせるように1970年代の福岡が舞台。エンターテインメントの作風ではないのでわかりやすい成長物語の体裁はとらず、主人公の複雑な感慨が丁寧に綴られており、ふとしたセンテンスに文章の強度がある。
 友情が物語の主軸を占めるわけではないこの作品においても、学校空間において誰と一緒に過ごすかはとても重要な問題であり、やはり友達をめぐる物語としても読むことが可能であろう。

「もう会えないのか。会えないと、忘れてしまうし、それって、いないことと同じではないのか。いないというのは。死んだことと同じではないか。
 ということは、自分も、ひとの想い出になっていなかったら、死んでいることと同じになるんだろう」(『煩悩の子』)

 小中学校の時代は、出会いがあって、別れがあって、でもまた新しい出会いがあってのくりかえしで、ある時期にとても仲良くしていた相手であっても、クラスが違ったり、学校が変わったりしていくうちにふと音信が途切れてしまってそれっきりになってしまうこともきっと多くあり、でもその事実にすらその時点では気づかないこともある。その点では『煩悩の子』から垣間見られるふとした感慨は、描かれている小学5年生の女の子によるものではなく、「かつて小学生だった女の子」の後の回想と言えるものであるようにも思う。
 フランクフルトの映画祭で観た映画『ソロモンの偽証』(2014-15)もまた、「窮地にあった友達を救えなかった物語」でもあり、中でも嘘の告発文を書き送る女子2人組の屈折した友情が痛々しい。また、突然クラスメートが死んでしまったとして、それまでに関係性を作ることができていなかったとしたら、その相手をはたして「友達の死」として悲しむことができるのか、という問いも学校空間をめぐる人間模様ならではであろう。
  「いかに友達を作るか」は近年では大学の教育現場でも切実な問題として取り上げられることが多くなってきており、そもそもそのようなことを大学で教えることができるのか(教える必要があるのか)という問いも含めて今後も課題となりそう。




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