借りてきた猫のように

――フィクションの中で生きる~映画・小説・音楽・マンガなどの日常――

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2015年7月15日

 社会人講座「『女性』映画の現在」の締めくくりとして最終回では荻上直子と西川美和という2人のまったくタイプの異なる日本の女性監督を対照させながら紹介したのだが、どちらの作品を特に力点を置いて導入しようか迷いながら、結局、西川美和の『夢売るふたり』(2012)をメインでとりあげることにした。この種の映画論講座に参加するような方は荻上直子監督の作品(『かもめ食堂』[2006]、『めがね』[2007]、『トイレット』[2010]など)にはよく親しんでいるという背景にもよる。が、荻上作品の方がはるかにおさまりがいいことはまちがいない。フィンランド、南の島、カナダを舞台に設定することで、日本での日常の世界が相対化される。同質性が高いとされる日本では、えてして、とりわけ女性のライフコースや価値観は、「こうでなければいけない」「こうしてはいけない」などと固定化されてしまいがちであるのだが、もちろん人生の選択肢や価値観はもっと多様であるべきであって、世界の映画に目を向けるとこんな生き方もあるのか/こんな生き方でも許されるのかと驚かされることがある。「許される」も何も自分の人生だ。

 荻上作品の魅力は通常の時間や価値観、流行などから束の間抜け出して、でもそれでいてファンタジーというわけではなく、どこか違う場所で地に足をつけて生きている女性たちの姿や可能性を見させてくれるところ。

 一方、映画監督・脚本家としての西川美和は、たとえば「嘘」と「真実」のモチーフを媒介に人間の業を掘り下げていく中で、女性の表現者ならではの一歩踏み込んだ演出に最大の特色がある。登場人物の女性/演じている女優を精神的・肉体的に追いつめるかのような演出は時にサディスティック/ハラスメントという言葉を使ってまで評されることすらある。

 『夢売るふたり』は松たか子と阿部サダヲ演じる結婚詐欺をくりかえしていく夫婦を主人公とした物語であり、結婚詐欺のターゲットにされる独身女性たちのそれぞれの孤独な姿が迫真性をもって描かれている。参考上映開始早々に「うわ、社会人講座向きではなかったか」と後悔させられたのも事実。一人で物語の中に入り込む時の感覚と、引いた目で受講生の方々の反応を確かめながら観るときの感覚の違いは結構大きな違いとなるもので、「引いた目」ではなく、受講生の方々が「引いて」いく反応が伝わってくるとこちらの血の気が「引いて」いく思い。性の問題、独身女性たちのやりきれない孤独、女の業など、しかしこうしたエグいとされる描写こそが西川作品の真骨頂ではある。

 ここ数年の間に「何かお薦めの映画ってないですか?」というとりわけ女性の受講者からの問いかけに対し、「西川美和なんかどう(ですか)?」「いや私はちょっと好きになれないので」というやりとりを思えば複数回交わしてきた。賛否両論というよりも、ある人たちにとっての断固とした拒絶がとても印象深いものであった。

 小説『永い言い訳』(2015)もまた導入の逸話からすでに好みが別れそうだ。性に関する踏み込んだ逸話でもって、リアルな世界に力づくで読者を引きずり込んでいく。突然、事故により妻を失うことになる男性作家を主人公にした物語であるのだが、小説というメディアの特性を活かし、視点が節によって目まぐるしく変わっていく趣向の中で、中年男性の主人公の内面描写が「ぼく」の一人称によって語られる。なるほどこれが西川作品から抱く本能的に嫌な感じなのだろうか、と思い至った。

 最近、個人的にすっかり中学生モードになっていて、そういえば中学生ぐらいの頃って一人称は「ぼく」を使ってたなと思い出し、つい懐かしく新鮮な気持ちになっていたのだが、現在くりかえし流れているある銀行のTVCMで女性アイドルに「ボク」を連呼されるとどこか居心地が悪くなってしまう。この居心地の悪さは一体なんなんだろう?

 なかなか一人称の使い方って難しくて、広島生まれの父親の一人称はずっと「わし」だったけど、この一人称はさすがに一生使える気がしない。ちなみに広島方面での二人称は「自分」なので、これは家族の中ではつい使ってしまうのだけど、外から見るとぞんざいな印象を与えてしまうのかも。

 高校時代に筒井康隆の真似事ではじめた創作ではそのまんま「おれ」の一人称で書いたものが当時多かったけれども、これは実際には私が「おれ」という一人称を使わないがゆえの創作モードによるもので、筒井康隆を経由してれば必ず通る通過儀礼のようなもの。

 一方、「僕」といえば何といっても初期の村上春樹作品で、いい年齢した男性がいつまでも「僕」を使うのは甘えではないかという批判は昔からよくあったけれども、男性作家による一人称視点の筆致で、私自身も男性の立場から読んでいると、頭では「甘えではないか」という指摘は理解できても、実感としてはそれほどわからないままであった。

 西川美和『永い言い訳』に出てくる主人公の「ぼく」の内面描写を読んで、ああ、こういうことだったのかと実感できるのは、中年男性の肥大した自意識などが「ぼく」の一人称に凝縮されていることがわかるから。そして女性の観客が西川作品で描かれる女性像に対して抱く本能的な嫌悪はおそらくこういう目を背けたいところをえぐり出すように描くところに由来するのかな、と思う。同傾向の女性作家として内田春菊を挙げることができると思うのだが、内田春菊の方が男も女も突き放した書き方であるけれども、様々な人たちをもひっくるめて人間のあり方の多様性が示されているように思う。

 西川美和作品の登場人物たちはたいていろくでもなかったりするのだが、人間が本質的にもっている「業」を掘り下げていく中で(読者や観客はその過程において自分の要素を見出して辛い気持ちになることもあるけれども)、地に足をつけて生きている人間の姿を描ききってやろうとする姿勢が魅力なのだろう。『永い言い訳』は小説の特性を活かして、中心人物の内面と外側からの視点などを重層的に織り交ぜながら「妻の喪失」を作家である中年男性が受けとめていく物語。「感動の物語」という売り方は確かに間違ってはいないのだが、人間の愚かさをもひっくるめた人間悲喜劇(ヒューマン・コメディ)で、人間ってこんなものだよね、と最後にすとんと腑に落ちる展開が巧い。







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