借りてきた猫のように

――フィクションの中で生きる~映画・小説・音楽・マンガなどの日常――

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2015年7月31日

「あの頃に戻りたいとかって思う?」
「まさか」
「だよねえ」
(映画『大人ドロップ』2014)

 マーク・トウェインが少年時代に過ごした町ハンニバルにある「ベッキー・サッチャーの家」には、トウェインが73歳の時に『トム・ソーヤーの冒険』(1876)のヒロイン、ベッキーのモデルになったローラ(2歳下)という女性と一緒に仲良く写っている写真が飾られている。最初の長編小説『金めっき時代』(1873)のヒロインの名前がそのまんまローラで、さらに『トム・ソーヤー』のヒロインのモデルとされており、70歳の時に書いた短編「我が夢の恋人」(1905)では、少年時代に好きだった15歳の女の子に夢の中で出会う話で、これもまた初恋の女の子ローラを思わせる。

 『マーク・トウェイン文学/文化事典』(彩流社、2010)の項目ではローラはどのように扱われていたっけと頁をめくってみたら、項目自体ないじゃないか。おいおい。項目立ては私が中心で進めたものなので万事私の責任なのですが、作家研究はやはり年季が必要ですね。いずれ事典全体をアップデートしたいです。

 てっきりローラとトウェインとは長年に渡って交友関係をもっていたのだろうと思い込んでいたら、十代で離れてしまって以来、47年ぶり(62歳の時)でようやく連絡がとれたらしい。うへえ。47年ぶりかあ。想像つかん(そんなに生きてないし、そりゃそうか)。ローラがトウェインに手紙を出したのがきっかけで交流が復活するんだけど、返信をもらったことに対して、「優しい性格だった友人(トウェインのこと)が、昔のまま変わらずにいてくれと願い、その願いが叶った」と喜んでいて、このやりとりが60歳すぎの話。実は経済的に困窮していたローラがお金の無心をして、という背景によるものだったので切ない話なのですが、結果的に交流が復活したのは何よりで、それも含めて神の思し召しということで。『トム・ソーヤーの冒険』もあれだけ有名な作品なのだから、もっと早く連絡できていただろうにと思うのは他人だから言える話なのかもしれず、実際はローラも自分がベッキーのモデルであることは半信半疑だったみたい。

 いくえみ綾のマンガ『あなたのことはそれほど』(2巻まで刊行中、2012- )は、一言で言うと、「29歳で既婚者の女性が小学生の頃から好きだった同級生と再会し、不倫関係に陥る物語」ということになるのだが、「そんな都合のよい展開あるか?」と思いながらも、そこはいくえみ作品らしく、この世界観でこのキャラクターならそうなるかもと思わせる説得力があるのはさすが。中島みゆきによる柏原芳恵への提供曲「最愛」(1984)からの一節「二番目に好きな人 三番目に好きな人 その人なりに愛せるでしょう」(古い!)を思い起こしながら、いやー、こんな大人の世界は正直よくわからん。

 飯塚健監督による映画『大人ドロップ』(2014)は、高校3年生の男女4人による高校最後の夏休みをめぐる物語。群像新人賞作家・樋口直哉による原作とはかなり味わいの違う仕上がりなので読みくらべてみてもおもしろい。結構、不思議な世界観で、「大人になってからあの頃をふりかえる」とした際に、「あの頃には絶対に戻れない」という「刹那」の感覚が作品全体の基調を成している。「セカイ系」に近い世界観というか、近年では珍しく学校の授業風景なども描かれながら(英語の授業は高校にしては易しすぎないか? それになんだ、この教師像?)、軸となる4人の人物以外まったく印象に残らない。

 回想のモノローグや、「大人になってから偶然出会ったらどうする?」という仮定の問いが物語中、随所に挟み込まれていて、その一方で主人公たち4人組は小学生時代に転校生同士だった境遇などが親しさの背景にあり、子ども時代に対するノスタルジアまでもが重ね合されていて、不思議な時間感覚にとらわれる。「おまえは『北の国から』の吉岡秀隆か?」と思うようなモノローグや、「なんなんだ、後半の絶叫芝居は?」など突っ込みどころ満載なのだが、実は結構、癖になるもので、そうした要素も含めて青春というか、自意識過剰で不安定で傷つきやすい思春期のあり様が凝縮されて表現されている。

 そもそもタイトル「大人ドロップ」自体が、懐かしさに満ちた「肝油ドロップ」に由来する。遡れば、栄養補助食品としてビタミンを補給するために学校給食制度などを通じて親しまれていたものらしく、過剰な摂取を避けるため1日2粒が原則であったことがまた子ども心をくすぐるもので、ある世代までは確かに懐かしいにちがいない(ところでどの世代まで肝油ドロップは共有されているのだろう?)。

 「早く大人になりたかったんだ。一刻も早く」と焦り、もがく感覚ってそもそも高校時代に抱くものだっけ? 進路も定まらないし、経済的にも様々に親や大人に依存せざるをえないし、地方を舞台にしているならなおさら閉塞感を感じるものではあるかもしれない。「何者でもない」不安定感は通り過ぎてしまえば魅力でもあり、その時点においては実存的な不安にもなるんだろうけど。というわけで高校時代が楽しかった人でさえも、「あの頃に戻りたいとかって思う?」と問われれば、確かに「うーん」と考え込んでしまわざるをえないのだろう。やっぱり「通過点」なんだろうな。これだけ毎日べったりと時間を過ごしている相手(同性・異性を問わず)であっても、「卒業以来一度も会っていない」という展開もリアル。

 親の事情で高校を中退して引っ越してしまった同級生女子にしばらくぶりではるばる会いに行く場面で、「つまりその、綺麗になったね」「そんなのはじめて言われた」「俺もはじめて言った」。「教室は監視社会だ」とされるほど男子と女子の距離が微妙に遠い(女子は男子に呼び捨てで、男子は女子に終始「さん」づけなのもおもしろい)教室の空間から離れて、同級生に「殺すよ」などの軽口ではなく「綺麗になった」とはじめて言える瞬間などがこの作品のハイライトの一つ。しかし、そこから「何かがはじまる」感じではなく、「何かが終わる」もの哀しい感じが絶妙で、女子の方が数歩先に大人になってしまったことによるすれ違いの感覚が切ない。
飯塚作品ならではの独特のテンポの良いセリフまわしが心地よく、その一方で「大人になったら変わるよ、すれ違ってもわからないぐらいに」など時々現れる、変に観念的で予言的な台詞が胸に刺さり、「怖い」。『大人ドロップ』の登場人物たちって高校生というか、どちらかというと中学生っぽい感じもするんだけど、『彩恋』(2007)も女子の高校3年生3人組の話だったし、中学生であればどう描くのかも観てみたい。















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