借りてきた猫のように

――フィクションの中で生きる~映画・小説・音楽・マンガなどの日常――

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2015年9月9日

『ある十代少女の日記』(_The Diary of A Teenage Girl_)というタイトルではうまく伝わらないので邦題はカタカナ表記になりそうだが、フィービ・グロエックナー(1960- )によるグラフィック・ノヴェル作品(2002)が映画化(日本未公開)。「日記的」とも「半自伝的」ともされるスタイルで、実際にはグラフィック・ノヴェルというよりは、日記体小説に一部、イラストやコミックスを差し挟んだ形式。主人公の女の子がアーティストを目指していることからも日記にちょっとスケッチを描いてみましたというものではなく本格的なアート志向で、しっかりしたコミックスも挟み込まれており、主人公の大人びた側面の現れでもあるのだろう。映画版では手書き風アニメーションを挟み込むことで、原作における小説とイラスト、コミックスの融合を再現するとともに思春期女子の心象風景を描いている。

 物語は1976年のサンフランシスコが舞台で、15歳のヒロイン、ミニーは母親の彼氏とこっそり性交渉を続けており、日々の気持ちや出来事をテープに日記として吹き込み続けている。自分の容姿を醜いと思っており、セックスに興味はあるが、一方で自分のルックスに対するコンプレックスもあって同級生男子とまともに話すこともできないなど、様々な点で心と体のアンバランスさをもてあましている。
 サンダンス映画祭などですでに高い評価を得ている映画版は女性監督マリエル・ヘラー(1979- )のデビュー作であり、ヘラー自身によるオフ・ブロードウェイの舞台化企画を経ての映画化。「ティーンネイジャーの女の子の性を表現したい」、「女の子版ホールデン・コールフィールド(J.D.サリンジャー『ライ麦畑でつかまえて』の主人公)を創出したい」とヘラーも述べているように、従来のティーン・フィルムとは大分異なる味わいに。アメリカのティーン・フィルムにはコメディ映画としてのジャンルのパターン(約束事)が確立していて、その中での細かい差異化によりサブジャンルも多様に発展を遂げてきているのだが、群像劇が多かったり、コメディ要素が強かったりなど、恋愛や性に対してテーマの深まりに欠ける傾向があり、その点でもこの女性監督による姿勢は際立って映る。

 アメリカ人の友人にこれからこの映画を観に行くということを話したら、「ああ、あのフランス映画みたいなやつか」と言われたのだが、インディペンデント系(非メジャー)の作品ということもあり、また、主演女優がアメリカ人でないこともあるのか、アメリカ映画「らしくない」ところが新鮮。
 ヒロイン役をつとめたイギリス出身の若手女優ベル・ポウリー(1992- )はイギリスでは舞台やテレビですでに演技派女優として定評を得ているが、本作ははじめてのアメリカ映画作品となる。23歳となる実年齢から考えても、15歳の女の子の不安定な様子を違和感なく表現しているのが凄い。母親の彼氏を挑発するかのような大胆な側面と、自分の容姿に対するコンプレックスから同級生男子に話しかけられないような内気で脆い側面などを同時に表現する難しい役どころ。アルコール依存症の母親とその彼氏との性交渉など暗く重い話になりがちなところを、笑いも交えて成長物語に仕上げられており、映画版の方が原作よりも明るい印象になっているのは主演女優のポウリーによるところも大きいはず。
 原作の書評においては、ウィリアム・バロウズやチャールズ・ブコウスキーの「思春期の女の子版」という言及もあるほど頽廃的な雰囲気も魅力の一つであり、70年代サンフランシスコに特有の開放的かつボヘミアン的な文化風土が当時のファッションや音楽、オルタナティヴ・コミックスなどの状況もあわせてどのように再現されているか、また、ティーンネイジャーの女の子が性の要素も含めてどのような感情を抱きながら日常を送っているのか、という観点が映画版の大いなる見どころ。映画監督自身、1979年生まれであり、70年代を実体験としては有していないわけで、憧れや幻想も含め、若い世代にとっての70年代西海岸文化の表象も注目したいポイントの一つ。
 映画版にあわせた原作の新装版に寄せられた原作者グロエックナーによる序文では、この作品に描かれている逸話が彼女の本当の体験であるのかどうかを何度も聞かれた経緯に触れながら、確かに自分はヒロインであるミニーの素材にはなっているけれども、あくまでこの作品は「私の物語ではなく、私たちの物語であること」をくりかえし強調している。母親の彼氏と性交渉を持つ展開が普遍的に起こりうるものではないだろうが、10代の女の子に関するセクシュアリティの表現の可能性を拡げたいという監督ヘラーの意欲的な試みは新たな潮流になりうるのでは。

 1960年生まれのグロエックナーによる15歳の女の子の物語が、79年生まれの女性監督マニエル・ヘラーの手により現代映画として映像化され、さらにそのヒロイン像が92年生のポウリーにより演じられることで、1976年のサンフランシスコを舞台にした局地的/個人的な物語が3世代の女性の表現者のいわばコラボレーションを通して、より幅広い層に届きうる新たな息吹を注ぎ込まれている。もともと過去を舞台設定にしていることからも今後も古びることがないだろう。
 女性脚本家(でもあり役者でもある)ティナ・フェイによる『ミーン・ガールズ』(2004)など女の子の世界に焦点を当てた物語ももちろんあるが、とりわけ性に力点を置いた「女の子版『ライ麦畑』」のような成長物語は意外に少ないのが現状。アメリカ映画ではまだまだ女性監督が少ない中、期待の新鋭であり、アメリカのティーン・フィルムにも大きな影響を及ぼすのではないか。







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