借りてきた猫のように

――フィクションの中で生きる~映画・小説・音楽・マンガなどの日常――

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2015年10月8日

 ついにこの日が来てしまったというか、中日ドラゴンズの山本昌(山本昌広)投手が32年の現役生活を引退。私自身の観戦ユニフォームは15年以上にわたってずっと山本昌投手の「34」だったこともあり(あとは落合博満監督時代の「66」)、さすがに寂しくなるなあ。野球選手やアイドル歌手がいつからか皆、自分よりも年下になっていることに気づいた時に子ども時代の終わりを実感するものでもあると思うのだが、私のこの年齢で自分よりもずっと年長の野球選手が現役で活躍し続けてくれていたこと自体、奇跡としか言いようがなく、これほどまでに長い歳月にわたって夢を見続けさせてもらってきたことに感謝。

 ふと思い出したのは、小学生の頃に朝礼で「プロ野球の全選手の名前を憶えているような生徒がいるようだが、そんなことに頭を使う余裕があるようだったら漢字の一つでも覚えなさい」というような校長の嫌味な話があって、へえ、そんな奴がいるのかと聞き流してたら、おまえのことだと担任教師に小突かれたことがあった。とすると小5か小6の頃だな。さらに、名古屋出身でもないのにドラゴンズファンであるのが珍しかったのか、校門を出たら2人の男の人に「この学校に中日ファンで有名な男の子がいるって聞いたんだけど君のこと?」と声をかけられて、サイン色紙(当時、評論家だった星野仙一氏のサイン)をもらったこともあった。ドラゴンズの野球帽をかぶって通学してたので、いかにも昭和の小学生というか牧歌的な時代。正確なところは覚えてないのだが、私設ファンクラブだったか応援団の人たちだったか、東京支部を名乗ってたように思うのだけど。
 今でも野球シーズンがはじまる時期には、新しい選手名鑑(昔は佐々木信也監修版、現在は宝島社版を愛用)と『ドラゴンズ・ファンブック(『月刊ドラゴンズ』増刊)』を寝る前に読むのを楽しみにしているのだが、申し訳ないことにそれでも山本昌広投手が入団した頃の印象がまったくない。何せ1984年の同期入団では地元の享栄高校から甲子園で活躍した藤王康晴内野手がドラフト1位で入団している年なので私も含めて皆の期待も完全に集中してしまっていたはず。当時のドラゴンズは野武士野球と言われていた打力中心のチームだったから投手に対する関心がそれほど高くなかったのも要因か。今でも私のドラゴンズの原風景は1982年の優勝時のメンバーで特に大島康徳選手のファンだった。何点取られようがそれ以上取り返せばいいという豪快さは当時は魅力だったけど、あんなに大味な野球を今やられたら、とてもじゃないが到底耐えられないだろうな。
 鮮明に覚えてるのは、1988年の優勝年に夏も終わりになってから山本昌広投手が当時、斬新な球種であったスクリューボールを引っさげてベロビーチ・ドジャースでの留学から帰ってきて活躍してくれたこと。ペナントレース終盤の投手事情は野戦病院さながらであって、失礼ながら誰も期待していなかった若手投手が後半戦になってから突如、厳しい優勝戦線に加わってくれたのは本当に頼もしかった。アメリカのマイナーリーグ(1A)でひそかに頭角をあらわしており、その時のドラゴンズが優勝争いをしていなければ急遽、呼び戻されることもなくメジャーリーグに進んでいたかもしれなかったという逸話は有名だが、ここから200勝投手への道のりもはじまることになる。私自身が中学生の頃の話だからあらためてやっぱりすごい。優勝回数がかつては少なかったこともあり、同年代で集まれば、82年と88年の優勝時の回想を通していつでも少年時代に戻ることができる。プロ野球選手が時代のアイコンとして機能していた時代でもある。
 1993年・94年と2連連続最多勝を受賞している時期が山本昌投手の全盛期となるのであろうが、今中慎二投手とあわせて屈指のWエースを擁しながら、88年から99年までの期間、優勝から遠ざかってしまったのがいかにも惜しい。残念ながら山本昌投手の悲願であった日本シリーズでの勝利は達成できないまま引退を迎えることになってしまった。
 投手であり、昔は予告先発の制度もなかったので、実際に球場で私がその雄姿を観戦できたことはきわめて少ないのだが、個人的に印象に残っている試合は、2004年の日本シリーズ第2戦(ナゴヤドーム)。残念ながら山本昌投手は勝利投手になれなかったものの、私自身にとって初めて日本シリーズでの勝利試合を見ることができた記念すべき試合でもあり、夜行列車で帰ってきて高揚感もそのままに1時間目から授業をしたのも懐かしい想い出。そういえば、その後、日本シリーズで負けてしまった後で廣淵升彦『スヌーピーたちのアメリカ』(1993)から、チャールズ・シュルツの『ピーナッツ』(1950-2000)を通して競争社会アメリカにおける「敗者への想像力」について授業で話をしたものだ。

 引退試合後のインタビューで「これでもう練習しなくていい」というコメントを残していることからも、練習の熱心さには定評があり、その姿だけでも2軍の若手選手には良い手本になっていただろう。近年では結果的に1軍ではわずか数試合の出場に留まってしまっていたものの、逆に言えば、そのわずか数試合のためだけに年間を通じてプロとしての身体を作り上げているわけである。引退試合となった10月7日の広島戦では、広島カープにとってクライマックス(CS)シリーズへの権利をかけた大事な一戦であったのだが、山本昌投手の後を託されたドラゴンズの若手投手2名も最高のピッチングでリレーを繋いだ。20歳の若松駿太投手は「10勝よりも、山本昌さんの引退試合で投げさせてもらったことの方が光栄」という談話を残しており、後輩投手にとっても特別で感慨深い試合となったにちがいない。
 引退試合であれば球場に駆けつけたいと思っていたファンは私も含めて多かっただろうが、引退発表も含めてあまりにもすべてが急に決まったことであり(10月7日は雨天順延による追加日程)、余力があればもう1年継続することもできたであろうから、限界まで挑戦するというのはつまりこういうことなのであろう。突き指とされていた故障は実は靭帯損傷であったとも聞く。その限界の中で打者1名に対して急速110キロとはいえ、先発投手として最後の試合に向けて調整してこられた精神力の強さにあらためて圧倒される思いである。「これでもう練習しなくていい」という言葉が重く響く。

 ありとあらゆることが「最年長記録」となることからも、著書や関連本も多く刊行されており、野球に挑む精神性をビジネスの自己啓発書と結びつける傾向による著書にも良いものはあるのだが、最初の著書となる自伝『133キロ快速球』(ベースボール・マガジン社新書、2009)が一番、素朴で実直な人柄がよく現れているように思う。アメリカ留学時代の恩師・アイク生原氏との出会いなど鉄板のエピソードは何度も語られているものではあるけれども、何度読んでも感動させられる。
 『スポーツマガジン11月増刊号 山本昌引退記念号』(ベースボール・マガジン社)ではなんと1954(昭和29)年のドラゴンズ優勝時のエース・杉下茂氏が「惜別の言葉」として談話を寄せていて、御年90歳の杉下氏が臨時投手コーチとして32年前に「新人投手山本昌広」の入団時に指導した逸話など、時間の感覚を超越していてとにかくすごい。しかも内容も読みごたえがあって、杉下氏の助言でオーバースロー投法に修正を試みるもなかなか自分のものにできなかったという逸話もいかにも「大器晩成型の山本昌」らしいし、杉下氏による技術論・人物への洞察など興味深い記事になっている。

 ちなみに添付の写真は、200勝達成時に発売された記念サインボールでバレーボールぐらいの大きさ。シリアルナンバー入りで私が所持しているのは200番中9番だが、たぶんさすがに高額すぎたんじゃないかな? 何個市場に出回ったのか不明(笑)。


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