借りてきた猫のように

――フィクションの中で生きる~映画・小説・音楽・マンガなどの日常――

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2015年10月13日



「愛してるなんてつまらないラブレター マジやめてね 世界はもっと面白いはずでしょ」――大森靖子「絶対絶望絶好調」(2014)

 第54回日本アメリカ文学会全国大会におけるシンポジウム「逸脱する結婚――アメリカ文学と不倫とエロス」では立ち見が出るほどの盛況ぶり。司会・講師の高野泰志氏(九州大学)の概要にも示されているように、「ギリシャ神話や聖書を始め、これまでおびただしい数の文学作品が不倫のモチーフを活用」してきており、その中でも「アメリカ社会においてはそのピューリタニズム的出自のために『不倫』はとりわけ強い断罪の対象になってきた」わけであり、「その強い抑圧こそが逆に物語を駆動させる強い欲望を生み出してきたとも言える」。「不倫の系譜学」をたどることで、「結婚制度、セクシュアリティ、ピューリタニズムといったテーマを新たな角度から問題化する」という試みは確かにおもしろく、専門学会であることもあり、20世紀初頭に焦点を絞った研究報告をもとに討論が展開されたが、想像力の射程を広げさせてくれる刺激的なシンポジウムであった。
 というのも、全学共通(教養)科目で「愛について」というオムニバス講座を担当しており、「様々な愛のかたち」を比較文化的に考察する試みに携わっている。この場合の「愛」は必ずしも恋愛のみを指すものではないのだけれども、恋愛をめぐる最近の研究動向が活発になってきている。どう考えても私の領域になりうるとは思えないのだが、現代日本における恋愛観の変遷などについても授業で話をしていて、若者相手に自分が一体何を喋ってるのか我ながら不思議な気分になるし、学生も何をどこまで知ってるのか不明ながらも悟ったようなコメントを書いてくるのもおもしろい。
 今年は、「人はなぜ、どのように異性を好きになるのか?(強制的異性愛の概念も含めて)」、「片想いと両想いとは?(ストーカーや独占欲も含めて)」、「男女の友情は成立するのか?(恋愛の境界線とは?)」などの論点について映画作品を素材に一緒に考えるという試みを行っていて、もちろん私も答えなんてもっていない。私よりも上の世代に顕著に見られるような恋愛至上主義的な価値観とも異なり、牛窪恵『恋愛しない若者たち――コンビニ化する性とコスパ化する結婚』(ディスカヴァー携書、2015)などでも詳細に分析されているように、興味や関心も細分化し、ライフスタイルも多様になってきている中、恋愛が人生や生活に占める割合は必ずしも高いものにはならず、また、恋愛や結婚に対するモデルも確実に変容してきている。背景となる時代思潮の変遷を探ることで現代社会の諸相も見えてくる。
 深海菊絵『ポリアモリー――複数の愛を生きる』(平凡社新書、2015)は、若い世代の社会学者がアメリカの事例研究の成果をもとにしながら、「ポリアモリー(複数恋愛)」の概念の可能性を探り、1対1のカップルを基盤とする恋愛や結婚のモデル自体を問い直すもので急速に日本でも耳にする概念になってきた。「社会的構築物としての『嫉妬』」に一章分割かれていて、文学や哲学からも横断して検討できればなおおもしろいように思う。前述のシンポジウムでは舌津智之氏(立教大学)が「ポリアモリー」の概念に言及されながら20世紀初頭のアメリカ女性作家ウィラ・キャザーの作品分析を軸に、「反・異性愛制度の政治学」「反・対幻想の系譜学」を提唱されていて、文学研究ならではの方向性を示されてさすがでした。

 私自身が「愛について」の講座で毎年使用している素材に山田太一原作(1985)映画『飛ぶ夢をしばらく見ない』(1990)がある。妻子ある中年男性がある女性に魅せられていくのだが、その相手の女性がどんどん年齢が若くなっていってしまうファンタジー物語であり、不倫に加えて淫行から幼児性愛の問題も内包し、主人公は警察に追われすべてを失ってしまう。愛の究極の形を探る上で興味深い素材であるのだが、幼女になってしまった相手と一緒にお風呂に入っている場面などは視覚表現の提示をめぐる昨今の規制の問題もあり、そろそろ冗談でなくまずいかも。
 四方田犬彦氏が映画論の授業でパゾリーニ(『テオレマ』1968、『ソドムの市』1975)作品を問題なく提示できるところに大学のリベラルさの証があるとよく言及していたが、今から思えば巧みな牽制と言える。視覚表現はそれだけ影響力も強いし、高校までの国語教育では恋愛の要素がそぎ落とされてきてしまっている傾向があるので、そもそも文学の世界が固定概念を乗り超えるところにこそおもしろさがあるということを積極的に伝えていくべきなのだろう。大学は異文化との出会いの場として機能するべきであると心から思う。とはいえ大学教授でもある作家・高橋源一郎氏が自身のゼミで『大正生まれのAVギャル』を教材として用い、生/性の深淵を探るような討論を展開したという逸話には感銘を受けるもののそんな試みはやはり到底、源一郎氏しかできまい。
オムニバス講座「愛について」ではありがたいことに、科学哲学者・吉永良正氏(『複雑系とは何か?』1996)とご一緒させていただいていて、学期末に展開される教員同士のトーク・セッションでは、「近親相姦や幼児性愛はなぜいけないんですかね?」というようなバカみたいな問いを投げかけて、まじめに答えてもらえるのがとても楽しみ。学生よりも私自身が一番勉強になっているはず。

 坂爪真吾『はじめての「不倫学」――社会問題として考える』(光文社新書、2015)が現在ベストセラーとなっているが、その内容よりも気になったのは、文学どころか社会学に対しても変化の激しい現実社会にとってはすでにまったく無効化されていることを突きつけられていること。
 
「かつて、不倫を含めた恋愛の問題は文学の専門領域だった。(略)文学や作家の社会的影響力が弱まった後に登場したのは、社会学だった。(略)しかし、シャーマンとしての社会学者の力も時代と共に徐々に衰え、社会学者自体の供給過剰と小粒化が進んだ。大学院で社会学をかじった程度で、この複雑極まりない現代社会を語ること、あるいは語れると思っていること自体が痛々しくなったのだ」
(坂爪真吾『はじめての「不倫学」――社会問題として考える』』「あとがき」)
 
 なかなか手厳しいが実のところ世間一般の人文科学に対する見方はこのようなものなのかもしれず、的確な状況分析でもあるのだろう。さらに続けて坂爪氏は「文学の力も社会学の力も弱まった今、不倫をはじめとするセクシュアリティの問題に敢然と立ち向かえるのは、作家でもなく社会学者でもなく、NPOや社会企業家ではないだろうか」と続けている。実際に『恋愛しない若者たち』の著者、牛窪恵氏もマーケティング会社の代表取締役で評論家。深海菊絵『ポリアモリー』は一橋大学大学院(社会人類学/性愛論・家族研究)および南カリフォルニアでのフィールドワーク調査による研究成果をもとにしたものでありながら、現在はポリアモリー・ワークショップなどに関与しているそうで大学の「外側」にいる立場。

 さらにこの文脈の中で宮台真司『中学生からの愛の授業――学校が教えてくれない『愛と性』の話をしよう』(2010)が新書化(コア新書、2015)されたのを今、読むと、オリジナル版刊行当初よりも今の方が有効で力を持つように見える。「13歳のハローワーク」ではないが、恋愛の仕方やそもそも恋愛とは何かなんて、陳腐な表現になるが学校でも誰からも教えてもらうようなものではないもので、それでも皆なんとなく身につけていくような作法であるようにみなされてきたけれどもはたしてどうなのか? 恋愛「しなければいけない」というわけではまったくなくて、しなくていい自由ももちろんあるわけだが、何ごとも知らないよりは知っておいた上で選択できるに越したことはない。
 オリジナル版刊行当初は「ギャル系中学生女子」や「おっとり系少女」とやらに恋愛学を教授する対談形式の構成に、またこのパターンか、と辟易してしまったところはあったのだけれど、中学生の目線に寄り添い、そもそも「恋」「愛」「性」とは何かを社会学から文学、哲学の領域を横断しながら探っていく姿勢は誠実と言えるもので、私自身をかえりみてももう少し根源的なところからちゃんと提示しなければと学ぶべき姿勢が多いことにあらためて気づかされた。「物語の想像力」に何ができるのか、どのように活用できるのか。私の力量を超えた大きな課題ではあるけれどもそれぞれができることをやっていくしかないようにも思うので、その点でも「かつて文学の専門領域であった」とされる恋愛の問題に対して今、どのように向き合うことができるのかを示すシンポジウムはタイムリーな企画であったと思うし、個人的にも継続して考えてみたい。



















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