借りてきた猫のように

――フィクションの中で生きる~映画・小説・音楽・マンガなどの日常――

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2015年11月23日

 デイヴィッド・マメットの戯曲『オレアナ』(1992)が小田島恒志による新訳(栗山民也演出)により再演中(東京PARCO劇場ほか)。大学の研修室を舞台に、男性である大学教授と女子学生を田中哲司・志田未来がそれぞれ演じる2人芝居。現代アメリカ演劇を代表する存在であり、難解さで知られるマメットにおいてももっとも議論を招いた作品の一つであり、PC(「政治的正しさ」)の風潮が過剰に蔓延しつつあった90年代初頭の時代思潮を先鋭的に描いている。授業についていけないと研究室に相談に来る女子学生と、大学での終身在職権(テニュア)を間近に控えている大学教授との間のパワーバランスが3幕ものを通して劇的に展開していく物語なのだが、初演から20年を超える歳月を経て極端な戯画ではなく、大学内で潜在的に起こりうる光景になってしまいつつある。
 日本でも94年9月に同じPARCO劇場(大阪公演は近鉄小劇場)で初演がなされており(キャストは長塚京三、若村麻由美、西川信廣演出、酒井洋子翻訳[劇書房、1994])、99年にも再演されている(長塚京三、永作博美、PARCO劇場ほか大阪・名古屋・福岡公演)。
 94年、99年の公演時も私は観に行っており、とりわけ94年の初演時は私自身が学部生であったことからもとても感慨深い思いがある。当時、履修していた「英米演劇」の授業で年間2本の劇評を書くという課題があり、そのうちの1本を『オレアナ』で書いた。演劇の授業であることからも教室外で舞台を観に行くことを前提とした課題は本来当然のものであるのだが、舞台のみならず、フィルムセンターであれ、ミニシアターであれ、教室外での課外研修はもっと導入されてしかるべきなのであろう。真似事ではあるものの劇評を書くという課題もやりがいを感じるものであった。当時の同級生にしても現在、演劇や文学に関連する仕事についているわけでなくとも、この課題を契機に舞台を観に行く習慣がついて今でも劇場に足を運んでいるという声を耳にする。こうしたことも大学で学ぶ重要な要素であるように思う。
 また、大学の研究室を舞台にした物語であることからも、女子学生に私自身が当時、感情移入することはなかったとしても身近な素材であったわけで、その後、私自身が教員としてアメリカ文学を教える立場になってから十年にわたって『オレアナ』を講読のテキストとして扱ってきた。過剰なことばの応酬で難解な作品でもあるのだが、2人芝居であり、3幕もので展開が見えやすく、電話の役割など基本的な演出の効果を学びやすいなど教育教材として有効な面も多かった。実際には大学内の物語ということよりも、パワーバランスの変化およびディスコミュニケーション(コミュニケーション不全)が主要テーマとなる。
授業時には講読後に、実際の脚本のことばをほぼ忠実に再現している94年のテレビドラマ版(William H. Macy、Debra Eisenstadtによるキャスト)を鑑賞することでまとめとしていたのだが、キャストによっても印象は大きく異なるものになる。Debra Eisenstadtが演じるキャロルは相当にエキセントリックに映るもので受講生も総じて大学教授のジョンに同情的であった。多様なアメリカの教室の光景からも、キャロル役をアフリカ系の女優が演じる舞台版もある。
 大学教員というと当事者でない人から見れば、単位の認定も教員のさじ加減次第であるかのように映るかもしれないが、実際にはそんなことがあるはずもなく、とりわけ今日ではシラバスなどで成績評価基準を明確に設定しており、不合格の認定を下す方が気をつかうぐらいである。場合によっては設定しているはずの成績評価基準を騙し騙し下方修正せざるをえないことも少なくない。とはいえ基準をしっかり保っておかなければ全体の士気も下がってしまうし、単位や卒業の価値自体も下がってしまう。世間で思われている以上に教員は気をつかっているはずである。

 『オレアナ』におけるジョンの立場は今まさに終身在職権の審査を受けつつあるところであり、アシスタント・プロフェッサーからアソシエート・プロフェッサー(准教授)への昇進となる時期に相当することが多い背景からも、このたびの公演では田中哲司演じる40代の大学教師として若い印象を強調している(実際には長塚京三による初演時も田中哲司氏と同じ49歳)。終身在職権の審査に不合格となった場合、パンフレットの解説では「権利を取得できなかった者は研究者として失格の烙印を押されたに等しく、研究者人生を断念せざるをえない」とあるが、いやいやさすがにそこまでのことはなく、単にその大学の基準に合致しなかったというだけで研究者生命を失うまでには至らない。しかし、新しい職場を求めて拠点を移さなければならなくなり、確かにシビアであり、審査の不公平さを訴える裁判が起こされることもある。こうした研究者の任期制は日本の大学でも導入が増えてきており、研究職を目指す大学院生の減少、ひいては国際研究力の弱体化などの事態も懸念されている。

 初演から20年の歳月を超え、当時センセーショナルであったPCの時代思潮が予見する極端な戯画としての『オレアナ』の光景は2015年の今現在、アメリカでも日本でもことさらに特別に映るものではなく「なぜ今この物語が求められているのか」という疑問を若干抱えながらPARCO劇場に向かった。結論から言えば、マメットの繊細な言葉遣いに新たな解釈を加えた新訳の趣向はとても味わい深いものであった。パンフレットにて翻訳者である小田島恒志氏により、「日本語にすると必要以上に意味が大きくなってしまう箇所がいくつかあった。読みながら栗山さんもひっかかったようで、稽古場で栗山さんの提案で他の表現に変えていった。二つだけ挙げておくと、動詞の『like』と呼びかけの『baby』である。舞台でどう言うか、どうぞお楽しみに」と示唆されているように、現場で丹念に舞台が練り上げられていったことがよくわかる。
 全体的にカジュアルで自然な雰囲気で演出がなされている点に特色があり、過剰な長台詞の連続でありながらも洗練されたことば遣いで、役名こそジョンとキャロルであるものの終始、日本を舞台にした物語のように映る。また、この芝居の有名かつ議論を招いたラストの台詞も新解釈となる訳語があてられており、そのことばの違いによるだけで舞台全体の印象が様変わりしてしまうのも新鮮であった。私の観劇した回ではアメリカ演劇研究者の黒田絵美子氏(パンフレットにも「Rashomonスタイルの『オレアナ』」を寄稿)と小田島恒志氏とのアフタートークがあり、細やかな訳出上の工夫について話をうかがうことができた。この芝居はまずは筋を追うのを楽しみ、次に、光と影の効果的な用い方など細かい演出や翻訳の工夫を楽しむというようにリピートして観ることでより一層楽しみが増すものであるだろう(リピート割引はないそうだが)。
 センセーショナルな物語としてだけでなく、コミュニケーション不全の物語として、2人とも終始、話し続けながらもかみあわない会話の様子などは、大学の舞台を超えて、今現在の時代においても切実に響くものであろう。
 公演は11月29日までPARCO劇場。その後、豊橋・北九州・広島・大阪公演が12月まで継続予定である。




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