借りてきた猫のように

――フィクションの中で生きる~映画・小説・音楽・マンガなどの日常――

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2015年11月24日



もし「女性医師が終末期を迎えている患者の心を読むことができたら」(『If――サヨナラが言えない理由』2014)

もし「47歳の女性3人組が17歳の頃に戻って別の人生を歩むことができたら」(『リセット』2008)

もし「抽選見合結婚法が制定され、未婚の25歳から35歳までの男女は強制的に見合い結婚をしなければいけないとしたら」(『結婚相手は抽選で』2010)

もし「70歳以上の高齢者が生存権を剥奪されてしまうとしたら」(『70歳死亡法案、可決』2012)

もし「夫の不倫相手と心と体が入れ替わってしまったら」(『夫のカノジョ』2011)


 垣谷美雨(1959- )の小説は今どきこんなベタな「もしも」をめぐる仮定を、作中人物の心情に寄り添って丹念に描くことで読者を物語の世界に誘ってくれる。しかしながら、物語のプロットだけを伝えても作風の魅力が今一つ伝わりにくいところがあり、上記の「もしも」をめぐる物語にしたところで、正直なところ読書になじみのない人にとっては荒唐無稽な絵空事につきあってるヒマはないと敬遠されてもやむをえないし、読書好きな人にとってもベタな設定が陳腐に映り、敬遠されてしまうかもしれず実は届くべき層に行きわたっていないのではないか。TVドラマ化された『夫のカノジョ』(TBS系列、2013、川口春奈主演)にしたところで今世紀民放連続ドラマ最低視聴率(3.0%/平均3.8%)を叩き出してしまったことで逆に話題になるという不遇な作品となってしまった。

 第27回小説推理新人賞受賞(『竜巻ガール』2005)により46歳でデビューしている遅咲きのキャリアが示しているように、浮世離れした設定の一方で、地に足が着いた登場人物たちの心情をじっくりと描写することで安定感がある。SF物語の性質の根幹にかかわることであるが、「なぜ」そのような状況が生じてしまうのかというところにはほぼ力点が置かれておらず、そのような状況が生じてしまったとしたら人々は「どのように」ふるまうものであるかをめぐる「シミュレーション」小説となっている。『リセット』(2008)にしても、高校時代に遡るという展開はありがちな設定であるとしても、元の年齢に至るまでの30年間もう一回人生を送ることになり、途中で元に戻りたくとも戻れない。となれば様々な人生の可能性を享楽的に試してみるという軽やかさはなくなり、今置かれている状況の中で人生を着実に過ごすほかなくなってしまう。あの頃に戻ってみたいという気持ちはあったとしても「もう30年」の歳月は重い。

 一見なかったことにされたり、注目されない日常生活の背後でひそかに違和感を抱いていたり、鬱積している「どこにでもいる平凡な女性」の声や心情を描くのが巧い。東日本大震災直後の避難所を舞台にした、その名も『避難所』(2013)という物語は、「段ボールの仕切りを最後まで使わせなかった避難所」の存在について作者が耳にしたことを契機に、この状況を強いられていた被災者はどんな思いで過ごしていたのだろかという想像力が着想の原動力になったという(インタビュー「大震災で露わになったこと」より)。「家族同然で互いに親睦を深めるために連帯感を強めて乗り切ろう」とその避難所のリーダーが狙いとしていたように、避難所の方針に格別な落ち度があったわけでも、取り組みが誤っていたというわけでもない。非常時であればなおさら唯一の正解が存在するわけでもないだろう。しかしながらそこで声をあげられない人たち、とりわけ「どこにでもいる平凡な女性」の心情に想いを馳せることで、ふだん存在がなかったことにされていたり、ことさら声高に主張をしない人々たちの存在に留意することで、世界の見え方は格段に異なるものになりうることを気づかせてくれる。

 主張しない人たちは必ずしも現状に満足しているから黙っているわけではなく、時に我慢を重ね、それまでの経験則上、声をあげたところで事態は改善しないことに絶望して諦めてしまっているのかもしれない。そしてそもそも「どこにでもいる平凡な女性」など存在せず、誰しもが物語の主人公になりうることを示してくれている。

 物語のスタイルについても、SF的な「もしも」の物語でない場合でも、よくある設定を用いながら、垣谷美雨でしか表現しえない世界観を提示しえていることに感嘆させられる。震災の避難所をめぐる物語を私たちはたくさん見聞きしてきたような気になっているかもしれない。しかし、多様な人たちが存在し、視点を変えれば世界の見え方はまったく異なったものになる可能性がある。そして他者に対する想像力をそれぞれが養っていくことで私たちの世界をより寛容なものにしていくことができるはずだ。

 『結婚相手は抽選で』(2010)では強制的にお見合いをさせられる男性と女性の思惑がそれぞれ内面描写で示されており、恋愛初期であればそうした駆け引きも楽しいものになるかもしれないが、同じ場面を共有しているにもかかわらず、男女の捉え方の違い、中でも女性のシビアで冷徹な観察力と男性の能天気で独りよがりな視点とのギャップに慄然とさせられる。もちろん結婚しなければいけないわけでも、異性を好きにならなければいけないわけでもないわけで、恋愛とは何か、結婚とは何か、家族とは、親子とは、といった根源的な問題を考えさせてくれる。

 総じて男性に対しては厳しい傾向がある一方で、それまで我慢していた女性が立ち上がり、それぞれの境遇の違いを超えて女性たちが時に連帯し、人生の新たな一歩を踏み出していくという展開が多く、読後感は明るいものになっている。勝ち組、負け組というような描き方ではまったくなく、それぞれの人生にはそれぞれの課題や悩みがあり、どんな年齢になったとしても、今ある人生を精一杯生きるしかないという、言葉にすれば陳腐なことを様々な人生模様をめぐる物語を通して示してくれているように思う。

 垣谷美雨の作品における安定感はつまるところ「普通の人の普通の感覚」によるのだろう。文学や文芸は一部の熱心なファンのためだけに存在しているわけではないし、特別な変わった世界を垣間見ることだけが目的であるわけでもない。「普通」の概念も揺らぎつつある中で、垣谷作品の登場人物たちは皆、住宅ローンを抱えながら家計をやりくりし、子どもや家族の問題に悩み、「私はこのままでいいのだろうか」と自問自答しながら日々生きている。

 ありふれた設定、ありふれた登場人物によって紡ぎ出される物語なのになぜかそれが非常に斬新なものになりうるという、物語の想像力をめぐる不思議な力を垣谷美雨の作品は実感させてくれる。現代の社会や家族をめぐる状況を女性の視点から捉え直す契機をもたらしてくれる。
















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