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借りてきた猫のように

――フィクションの中で生きる~映画・小説・音楽・マンガなどの日常――

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2015年11月30日



 第2回ドキュメンタリードラマ研究会終了。理論・歴史的アプローチのみならず、資料のアーカイブ化、映像教育の側面にも目を向けており、実作者(制作現場のディレクター、カメラマンなども含む)を交えたネットワーク構築の場をも目指している。

 はじめに研究代表の杉田このみ氏により「これまでのドキュメンタリードラマの探索――データベース構築に向けて」として日本のドキュメンタリードラマのデータベース化をめぐる現状と課題にまつわる報告がなされた。「ドキュメンタリードラマ」自体、定義しにくい概念であるのだが、雑誌記事などに現れる言葉や概念から丹念に辿ることで言説史の整理を進めている。また、ドキュメンタリードラマの表現が現れていると見込まれるテレビドラマ作品をリストアップしている過程にあり、今後、実際にアクセス可能な作品をつぶさに検証・分析していくことで日本のドキュメンタリー表現の変遷史をまとめていくことを目指す。

 研究会と直接の関係はないのだが、杉田このみによる単著『アクション! 地域を変える8人の対話』(アトラス出版、2015)は、「映画を作る」という切り口から見えてくる「故郷」「地域」をテーマに、映像作家としてのこれまでの足跡を辿る第1部と、その創作・上映活動を通して知り合った8名との対談をまとめた第2部によって構成されている。南相馬市を故郷に持つ小説家・志賀泉氏、アートの社会的活用を目指すNPO法人「カコア」の主導者・徳永高志氏、エチオピアを拠点に映像人類学の理論と実践を展開する川瀬慈氏など、国内外を含めた「地域」に立脚した表現現場に携わる様々な声を拾いあげることで「今現在」の「表現」をめぐる状況が見えてくる。地道に着実に表現の場を広げようとしているそれぞれの方々の活動は活力に満ちていて頼もしい。

 昼間行雄氏からは「高校での映画教育から生まれる作品の可能性」として、芸術高校での映像制作コースにおける指導の実践例をもとに映像表現教育の現状と課題にまつわる報告がなされた。「表現や創作を教えるとはどのようなことか?(そもそも教えられるのか?)」、「映像制作の現場で職業に携わりたいとした場合に教育課程で何がどこまで有効なのか?」など創作表現の教育全般に関わる話から、「生徒同士で作品を作る際にどのようにしてリアリティを作り出すことができるのか?」といった具体的な方法論に関する話まで様々に議論が展開された。

 創作表現に関する領域は教えにくいものであるだろうから映像制作の技術自体を伝達することに意義があるのではと思っていたのだが、機器は飛躍的に発達していくために学校で学んだ技術はすぐに使い物にならなくなってしまうとのこと。まさに「今役に立つことはすぐに役に立たなくなる」実例。作品を制作し、発表する「場」を設けることに意義があり、作品を完成させることを通して経験的にそれぞれが学んでいくことが重要なのだろう。

 私自身の報告は「モキュメンタリー表現の現在」として、近年の「疑似ドキュメンタリー/モキュメンタリー」の手法による映像作品をいくつか提示し、「リアリティTV」以降の表現技法がどのような傾向に向かっているのかを展望することを目指した。アイドルの公開オーディション番組や、シェアハウスや集団で旅をする中での恋愛模様など1990年代後半以降に隆盛したリアリティTV番組は、演技や台本、演出を極力排し、出演者の行動を手持ちカメラ、隠しカメラなどを用いてドキュメンタリー番組風の撮影手法により「本物らしく」見せる趣向を追求したテレビ番組のフォーマットを基本とする。リアリティTVの手法は多様かつ過剰に発展してきたために現在ではさすがに食傷気味であるのだが、モキュメンタリーの手法はその後も先鋭化を続けており、アメリカ映画『容疑者ホアキン、フェニックス』(2010)は、実在の俳優ホアキン・フェニックスがプライベートを含めた2年間の時間を丸々費やして作り上げた壮大なプロジェクト。グラミー賞受賞など俳優としての評価が高まった2008年に俳優活動の停止とヒップホップ歌手への転向を突然宣言し、ヒップホップ歌手としての新たな歩みをドキュメンタリー映画として提示するというもので、麻薬中毒を想わせるような奇行や性格の悪さをカメラが克明に追う。しかしヒップホップ歌手への転向自体までもがモキュメンタリー映画企画の一環であったことが後に明らかとなり、酷評され、肝心の映画も興行的にふるわなかった。とはいえ、プライベートもさらけ出して費やした2年間がまったく無に帰してしまったかといえばそうでもなく、2012年に『ザ・マスター』で俳優に復帰以後、個性派俳優としての評価はますます高まっており、虚構と現実の境目に肉薄した2年間が役者としての幅を押し広げている。そもそもの着想自体がリアリティTV番組を真に受ける視聴者に対する関心に由来するものであったようで、メディア・リテラシーに対する批評性をも内在している。

 この作品を先行例として踏まえた『山田孝之の東京都北区赤羽』(2015)は、もともと清野とおるによるエッセイマンガをもとに、俳優・山田孝之が一個人として赤羽に住むことを選択した2014年夏をめぐる記録映像プロジェクト。赤羽に住む実在の人物を登場させているマンガと現実をめぐる層に加えてさらに「ドキュメンタリー」の要素が入り込み、そのうえ「自主映画」や「芝居」といったいわば、現実内虚構が導入されることで、虚構と現実の境目といった二層に留まらない複雑さを帯びる。プロジェクトの中で試行錯誤する監督(山下敦弘)の姿をもカメラの前で晒すことにより、被写体としての役者と作り手との間の境界線などもとっくに飛び越えている。この作品は山下敦弘・松江哲明による共同監督となっていることからも、本編と異なる別ヴァージョン「もうひとつの『山田孝之の東京都北区赤羽』」(4時間35分)までもが存在し、どこまでが素で、どこからが演出・演技で、など境界線も表裏ももはやよくわからなくなるクラインの壺を体現するような不可思議な怪作。放映開始時にはすでに撮影は終了していたにもかかわらず、実在の赤羽で展開される実在の人たちも登場する物語がテレビで毎週放映されることにより、放映時の「今現在」起こっている出来事を垣間見ているかのような錯覚に陥ってしまう。

 フィクションの設定としてドキュメンタリーの手法を用いることに力点を置いているのか(「ドキュ・フィクション」)、フィクションの中にドキュメンタリーの要素を導入することに力点を置くのか(「ドキュメンタリードラマ」)、ざっくりと2つの流派に大別されるとされるが、両者の概念区別も時に混在・曖昧となることもあり、『山田孝之の東京都北区赤羽』はその格好の例としてその先の地平を志向している。

 フェイク・ドキュメンタリーの手法が先鋭化された例としては、長江俊和監督(企画・構成・演出)による『放送禁止 劇場版 ニッポンの大家族 Saiko! The Large Family 』(2009)の作り込み方が秀逸。アメリカのコメディ映画『ボラット 栄光ナル国家――カザフスタンのためのアメリカ文化学習』(2006)を彷彿とさせるように、カナダ人ディレクターが日本の家族を取材するという設定で異文化を見る視点を導入し、外国人から見た日本文化理解をも笑いの素材にしている。全編ドキュメンタリータッチで展開するが、大家族が抱えている深い闇の部分が次第に明らかになってくる。ミステリー/サスペンスの要素が細かく散りばめられており、くりかえしの視聴とネットコミュニティなどの情報交換などを通して、視聴者は謎解きと伏線の妙を楽しむことができる。

 また、映像技法としての「POV(主観ショット)」の手法については、『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』(1999)以降、数多の類似作品がもたらされてきており、もはや陳腐にさえ映りかねないところ白石晃士監督はPOVの手法をさらに先鋭化させている。中でも『ある優しき殺人者の記録』(2014)は韓国を舞台に「全編86分ワンカット」の手法で撮影している。「86分の長回し」「作中の記録映像そのものが映画自体になる」など手法としてのPOVをひたすら突きつめようとする探求心がすごい。

 リアリティTVにしても、フェイク・ドキュメンタリーにしても、流行の現象としては旬を過ぎてしまっている感は強いのだが、手法もテーマも実はなおも深化している。『山田孝之の東京都北区赤羽』はドキュメンタリードラマの極北となる壮大な実験企画だが、幾重もの現実と虚構の境目の深いところを降りていくかのような試みはリスクも高くどんな役者にとっても応用可能な手法とは到底思われない。ホアキン・フェニックスの例にしても、役者としてさらに高次のステージに行ける可能性もあれば、すべてを失うリスクもありうるだろう。また、『放送禁止』にしても、『ある優しき殺人者の記録』にしても、手法や設定の枠組みを限定し、突きつめていく姿勢は苦しい挑戦だろうなとも思う。

 ドキュメンタリードラマ/モキュメンタリーの変遷を探ることで、そもそもテレビとは、ドキュメンタリーとは、メディア・リテラシーとは何か、といった根源的な問いに立ち戻らざるをえなくなるのも必然なのだろう。
















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