借りてきた猫のように

――フィクションの中で生きる~映画・小説・音楽・マンガなどの日常――

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2015年12月11日

「胎児はエタノールにはいると 鮮やかな朱色になって光り輝く」

――『透明なゆりかご』

「輝く命と透明な命」が行きかう場所。出産だけが産婦人科の扱う領域ではないけれども、こうしている今もきっと様々なドラマが日々くりひろげられているのだろう。

沖田×華(おきたばっか)によるマンガ『透明なゆりかご――産婦人科医院看護師見習い日記』(2014- 、2巻まで刊行中)は淡々とした筆致であればこそ、生とは何か、命とは何か、といった根源的な問題について考えさせられる。幸せな出産が感動的であるのはもちろんとしても、出産がうまくいった場合であっても夫婦や家族が抱える、ふだん表に見えてこない問題や関係性が露わになる。その一方で出産を取り巻く様々な試練の過程で、人は時に急激に成長を遂げ、優しくなれたり、強くなれたりできることもある。赤ちゃんを待ち望みながら得られないでいる人たちがいる一方で、人工妊娠中絶によりひっそりと消えていく命もある。

高校の看護学科在学中の17歳の夏休みにアルバイトとして産婦人科に勤務していた体験に基づく自伝的物語で、TVドラマ放映中の原作マンガ『コウノドリ』と類似の話題(ローティーンの妊娠や「野良妊婦」、新生児遺棄、家庭内暴力、性虐待など)を扱っていることも多いのだが、産婦人科医を主人公にした『コウノドリ』と比しても、看護師、それも准看護師資格取得以前という、いわば「看護師の卵の卵」からの視点により、『コウノドリ』とも異なる新鮮な印象をもたらしてくれる。

『透明なゆりかご』の舞台となっている「1997年夏」頃の、日本における死亡要因の一位は実は人工妊娠中絶であったと言及されているのだが、私が担当している「現代文化における思春期の表象」というクラスでちょうど今週扱った、村上龍原作・庵野秀明監督『ラブ&ポップ』(1998)の時代で価値観の激変期にあたる。現在は廃止されたというナースキャップが存在していた時代でもあったために、資格取得前の主人公は戴帽を認められず三角巾を頭に巻いて勤務しており、高校生の女の子が様々な臨床の経験を経て看護師見習いとして成長していく側面もこの物語の魅力。注射などの医療行為はできず、介助や補助的な仕事しか任せてもらえない見習い看護師としての彼女の最初の主な仕事は、中絶された胎児の「生命のかけら」をケースに入れて業者に引き渡す準備であったようだ。

見習い看護師の主人公の視点を通して映る先輩看護師たちのプロフェッショナルな仕事ぶりが凄い。非常事態が起こっても沈着冷静に現場を取り仕切り、様々な「ワケアリ」の問題を抱える妊婦に対しても、たとえわがままにふるまったり、心を閉ざしたりしている相手であったとしても、常に患者の心が平穏になる環境を整えようと尽力する。中でも、性虐待の疑いのある小学5年生の女の子に対し、決して大ごとにせず、しかし、「もし(将来)裁判になった時、このカルテが重要な証拠になる。これが病院にできる精一杯のこと」として黙々とカルテに記録をとり続けていく看護師長の姿がかっこいい。

決して楽な仕事ではなく、実際に主人公と一緒にアルバイトしていた看護学生は、妊婦の死亡事故の現場にかかわったことで大きな衝撃を受け、アルバイトを辞めるどころか、自信を失って看護学校までも退学するに至っている。作者も看護師資格を取得後、3年勤務した後に退職している。

産婦人科を通して様々な人生模様や社会の問題が見えてくるのだが、社会問題や感動的な人間ドラマを描こうとするものではなく、あくまで作者の半自伝的な「看護師見習日記」の体裁で、淡々と綴られた日誌のような筆致ゆえの凄みがある。

「自分が親になるのが想像できない」という作者の今の関心は「母性とは何か」というところにあるようでまさに文学的/哲学的なテーマ。2巻まで密度の濃い逸話が続いてきているだけに今後どのように展開していくのかわからないが、さらに深く掘り下げられていきそう。

発達障害を抱える作者は他人とのコミュニケーションがうまくとれないことに悩み、自殺未遂を起こしたり、家族や友人の風変わりな側面を赤裸々に描いて周囲から絶縁されたりするなど、今どき珍しいぐらい実存を賭した表現者として知る人ぞ知るカルト作家
(『こんなアホでも幸せになりたい』[2008]、『蜃気楼家族』[2010- ]など)であったわけだが、『透明なゆりかご』刊行後はインタビューなどの取材も相次いでいる。

TVドラマ『コウノドリ』(TBS系列放映中)の方も相変わらず好調で、新生児の赤ちゃんをドラマに実際に登場させたり、公式HPで「撮影日誌」を掲載し、作り手の狙いや熱意を示したりなど丁寧なドラマ作りが際立っているが、『透明なゆりかご』と併せて読む/観ることでさらに両作品の味わいが増すことだろう。一般にはあまり存在を知られていない病理医を主人公にしたマンガ『フラジャイル』も2016年1月よりフジテレビ系列でドラマ化(長瀬智也・武井咲主演)が発表されており、医療ドラマも新しい局面を迎えている。

医療現場をめぐる様々な立場の視点を「物語(想像力)」を通して疑似体験させてくれることは「医療ナラティヴ(医療をめぐる物語)」の重要な役割であろう。小説家もジャーナリストも突然、病院や医療問題をとりあげることがあって(東野圭吾『使命と魂のリミット』[2006]や、堤未果『沈みゆく大国アメリカ――逃げ切れ日本の医療』集英社新書[2014]など)、その背景として家族の入院や死別が転機になることが多いようだ。病院は一般的には「非日常」の世界。一方で当然のことながら医療従事者にとっては病院を平常運転することが職務であり「日常」業務。このギャップは想像以上に大きいように思う。

医療ナラティヴの可能性を感じるのは、それぞれの医療従事者や患者、家族の視点から「想像力」によって状況を展望することができること。保険や制度上の不備、不合理も見えてくるし、それぞれの立場のギャップを「超え」て問題があれば共に対応しようとする現実的な効用も示されている。

さらに、医療を取り巻く啓蒙活動や、場合によっては行政を動かして問題改善に繋げていくことができるかもしれないのも「物語の力」ならでは。妊娠中にかかると危険とされる風疹の予防接種に対する啓蒙活動をTVドラマ『コウノドリ』の番組出演者が行ったという展開も、マンガ原作の物語が映像化によって注目されたことによる効用の一つ。一方、『透明なゆりかご』では「母性とは何か」をさらに掘り下げる方向に向かっており、看護師見習いの視点を通して、時に妊婦が「母になる瞬間」を捉え、あるいは母性を見出せない葛藤の様子を探っている。「物語の力」を通してこそ見えてくる側面が示されている。





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