借りてきた猫のように

――フィクションの中で生きる~映画・小説・音楽・マンガなどの日常――

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2015年12月28日

『僕とアールと死にゆく少女』(Me and Earl and the Dying Girl, 2015、日本未公開)は、ジェシー・アンドリューズ(1982- )によるデビュー小説(2012)をもとにしたティーン・フィルム(監督はTVドラマ『glee/グリー』などを手がけるアルフォンソ・ゴメス=レホン)で、「幼なじみの女の子が白血病を患って・・・」という設定だけ聞くといかにもありがちな恋愛の感動物語になりそうなところを想定されるパターンをずらしていくところがおもしろい。

主人公の男子高校生グレッグは映画オタクで幼なじみの友人であるアールと一緒にパロディ映画を製作し続けている。『靴下じかけのオレンジ』(オリジナルは『時計じかけのオレンジ』)などしょうもないと言えばしょうもないパロディなのだけど、映画好きとして少年時代を送った者にとっては、ああこんな夢想もあったなという微笑ましいような、ほろ苦いような不思議な感慨にとらわれるはず。40本を超えるパロディ映画作りを何年も共有してきた親友であるはずのアールは「友達」というよりも「(仕事の)同僚」の関係性という説明がなされていて、グレッグはアメリカの高校におけるジャングルのような厳しい人間関係の中で一つのカテゴリーに属することなく、誰とも深い関係にならないようにつとめながら、表面上、誰とでもうまく交流しようとふるまっている。深く関わることによって傷ついてしまうことを過度に恐れていることの裏返しであるのだが、そういった自意識過剰や傷つきやすさもまた十代特有の性質であって、それなりにルックスも良く、快活でユーモアもあり社交的に見えるのだが、ネズミみたいに見える自分のルックスを気にするなど本人の自己評価は必要以上に低く、親友と呼ぶことがふさわしい関係性であるはずのアールや幼なじみの女の子に対してすら微妙に踏み込めないでいる。

アフリカ系のマイノリティで家庭環境も複雑なアールの方は、子どもの頃からグレッグとは家族ぐるみの友達づきあいを続けてきており、彼のことを「親友」と思っているはずで、主人公の自意識がもたらすこうしたすれ違いももどかしいところ。グレッグのお父さんは社会学を専攻する大学教授で「ヒマだったから」アールも交えて子ども時代のグレッグとよく遊んでくれたことにより、お父さんの外国映画好きの影響がアールに継承されていったという。人文系の大学教員が今もヒマであるかどうかはともかく、アメリカでマイノリティとして生きるアールのことを自分の子どもと分け隔てなく接し、アールが外国映画の中にロール・モデルを見出していく過程などは説得力がある。

幼なじみの女の子レイチェルは、幼稚園が一緒で母親同士はその後も長年にわたってつき合いが続いているものの本人同士は疎遠という実はどこでもよくある話で、学校が一緒でもクラスが違えばそんなものだし、アメリカの場合、つるむグループが異なればまず接点はないものだろう。そんな中、「幼なじみのレイチェルちゃんが病気で大変だからお見舞いに行ってあげなさい」と母親に強く言われ、「いやあレイチェルとは話したことないし、何話していいかわかんないし」などとぶつぶつ言いながら渋々連絡をとるところから物語は展開する。この展開もいかにもありそうな話で、しかもアメリカは高校までが義務教育だから、地元の公立学校に通う場合、そんな「何となく顔見知り」の関係性が高校まで続くことが多い。

レイチェルは白血病にかかっており、死を意識した状況で当然シリアスな展開になるはずであるのだが、最初はぎこちなかった2人が次第にうちとけてきて「友達」になっていく過程がユーモアを交えながら丁寧に描かれていく。「恋愛」関係ではなく「友達」というところが幼なじみの関係性特有でもあり、また、この主人公のダメさかげんをよく表しているのだけど、傷つくことを過度に恐れるあまり人間関係の深まりを避けてきた主人公が「友達とは何か」を同級生の女の子に教えてもらう話でもあり、かといって人間はそんなに簡単に変わるものでも、劇的に成長できるものでもなく、そのウダウダとした感じにリアルさを見るか、つきあいきれないとするか、好みの別れるところになるのだろう。

「大学に入ったら高校よりも人間関係が複雑になって、他人とルームシェアをしなければいけなくなるから大学になんて行きたくない」と駄々をこねて進学を拒否するグレッグを諫め、「地元の州立大学なら実家から通えるでしょ」と進学を勧め続けるレイチェルの方は余命も意識せざるをえず将来のヴィジョンも持てないわけで、観ているこちらの方が申し訳なさにいたたまれない気持ちになるぐらい、2人の成熟の度合いがかけ離れている。女の子にはかなわないなあという実感。

この物語の印象を決定づけるのは何といってもレイチェル役によるもので、恋愛映画ではないからものすごく綺麗でかわいいというよりも、むしろ「隣の女の子」っぽい身近な感じが必要で、病気の影響で髪の毛も抜けてしまうわけだけど感動ものを強調する作品ではないから痛々しい感じになってもよくなくて、コメディを基調とした物語だからキュートで明るい雰囲気が求められる。「そんな無茶な要求に一体誰が応えられるんだよ?」というところをイングランド生まれのオリヴィア・クック(1993- )が好演している。女の子が丸坊主になる姿なんて大変な役どころにちがいなく、感動ものをずらすことが大事なこの物語において「悲壮感を与えない」ということはとても重要で、しかしとても難しい。レイチェル役を演じる女の子次第で物語の印象は大分異なるものになるはずだ。

男の子の成長物語のためになぜ少女が死に瀕する必要があるのかという問いは相も変わらず残るのだが、あらすじだけ聞いてしまえばよくあるベタな感動ものや成長物語に回収されてしまいそうなところを、さすがサンダンス映画祭受賞作(審査員大賞・観客賞)だけあってなかなかの佳品。映画好きの主人公による物語だけあって、小説よりも映画版の方がこの物語の魅力が良く伝わると思う。ティーン・フィルム『ウォールフラワー』(2014)は友だちを求めながらその関係性をうまく築けないことに悩む男子高校生の物語であったが、必要以上に人間(友達・恋愛)関係に気をつかう傾向が強くなっているとされる日本の若い世代でも強く共感を得られるのではと見込まれる。とはいえ感動ものに仕立ててしまったらこの作品の魅力は半減してしまうので売り方が難しいかも。










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