借りてきた猫のように

――フィクションの中で生きる~映画・小説・音楽・マンガなどの日常――

過去ログ

超歌手近況(2017年7月13日)


 大森靖子が現在、新バンド(シン・ガイアズ)を率いて6月より全国6カ所ツアー展開中。すでに後半にさしかかってようやくはじめてというのがなさけないですが、今回、すべて平日のスケジュールで学期中なのでさすがにどうにもならないのが残念。
 3月にリリースされたアルバムをテーマに据えた全国ツアーであるはずなのだが、その間も常にどこかでライブやフェスに出演し、さらにそれよりも新しいアルバムの予約受付が開始されるなど現在進行形であり続けているのがすばらしい。
 大阪公演では、代表曲「ミッドナイト清純異性交遊」でモチーフにしている道重さゆみの誕生日(7月13日)であったこともあり、この曲の演奏時のみ動画撮影、SNSでの配信が許可され、「道重さゆみ生誕祭」を盛り上げることに。いつにもまして気合のこもった「ミッドナイト」でした。

進撃の!(2017年7月2日)


 神聖かまってちゃんの三都市(大阪・名古屋・東京)ツアー「進撃のかまってちゃんツアー」が7月2日の東京キネマクラブ(鶯谷)にて終了。
 TVアニメ『進撃の巨人Season2』のエンディングテーマ曲に起用され、異例のレコード会社レンタル移籍の形で発表されたシングル「夕暮れの鳥/光の言葉」を受け、『進撃の巨人』バブル効果もあってか(?)、東京公演はまさかのソールドアウト。間際や当日でもふらりと観に行ける気軽さも魅力なのだが、たまにはいいかも。
 2008年に結成された(CDデビューは2010年)ことから現在、10周年プロモーション中であるようで、新曲2曲(「夕暮れの鳥」「光の言葉」)を含みつつも、セットリストは久しぶりとなる初期の曲から多く選ばれていたのが目立った。それでいて、新曲「夕暮れの鳥」から、デビューアルバム収録曲であり、小学生男子の心情を歌う「ちりとり」へと繋ぐセットリストが無理のない流れになっているのが見事。
 そうはいってもメンバー全員がすでに30歳を超えているわけで、初期の曲はやりにくくなる傾向にあり、ましてや小学生の掃除当番をめぐる淡い心情となればなおさらであろうに、衒いなくやり続けられるのが何気にすごい。

 MCでも「アップデートし続けていく」という言葉を用いていたが、原型的な要素をアップデートしながら実際に進化し続けているのだろう。ダブルアンコールも含めて、きっちり2時間、進行できるようになったところに「成長」を感じつつ、そうかと思えば、予定していたセットリストを途中で間違えていたらしく狼狽する場面もあって、良くも悪くも予定調和に陥らないあり方がいかにも似つかわしい。
 「永遠の若手」であるかのような印象を保ちながら、デビューから数えても中堅に位置づけられる存在であり、キャリアを重ねるごとに私も含めて観客層も多様になってきている。
 とはいえ、やっぱり代替わりで常に若い層が主流を占めるのだが、十代ぐらいの若い層からは一体どんなふうに映っているのだろう? ロール・モデルや若い世代のカリスマとも異なるように見えるのだが、意外に不思議な包容力というか、集う者がてんで勝手に楽しんでいてよい独特の居心地の良さがある。

 アンコールの際に、9月にニューアルバムをリリースすること、そしてそれに付随して10月より7カ所をめぐる全国ツアーの情報が発表された。裏情報では、未CD化となっている名曲「マイスリー全部ゆめ」がタイトルを変更して(?)収録されるのではという噂もあり、楽しみ。




医療のなかの「物語」(2017年6月30日)


 文化研究の学際的/国際研究学会、カルチュラル・スタディーズ学会の年次大会(Cultural Typhoon 2017、於・早稲田大学)が6月24・25日に終了。
 さながら「大人の文化祭」の趣で、個々の専門研究を外側に開く理念からも、海外からの参加者、ゲスト登壇者も多く交えた多彩なパネル・セッションのみならず、映画の上映会やパフォーマンスなどもプログラムに組み込まれ、にぎやかな祝祭的空間となっているのが最大の特色。今さら記念写真もなあと思って遠慮してたら、結構、あちこちでパネルの写真がアップされていて、ちゃんと写真撮ってもらえばよかった・・・(というわけで開始前の様子のみ)。

 昨年に引き続き、パネル・セッション「医療ナラティヴにおける『物語の共感力』と社会的機能――人文学研究の応用可能性」を企画しました。
 二部構成のうち第一部では「医療人文学研究序説」として、まず中垣が英語圏の「グラフィック・メディシン学会」の研究動向を参照しつつ、日本の医療マンガの多様性を素材に、「医療人文学(メディカル・ヒューマニティーズ)」の可能性について導入。
 各論として、小林翔さん(メディア研究/表象文化論)に、「医療ナラティヴとしての日本のポピュラー・カルチャー表象」にまつわる分析を報告いただきました。中でも焦点が当てられた、現在放映中の『仮面ライダー エグゼイド』は、実際の病院を舞台に展開される医療エンターテインメント物語の新機軸。
 さらに、落合隆志さん(医療系出版社SCICUS代表)に医療系出版の観点から、闘病体験記の物語構造分析や、実際にSCICUSにて刊行された書籍にまつわる逸話、現在の医療人文刊行物の動向についてなどをご披露いただきました。

 続く第二部は「トーク・セッション――医療人文学の応用の可能性」として、第一部の報告を踏まえ、大変贅沢なことに3人のディスカッサントにコメントをいただき、その後、フロアを交えた対話へと接続しました。
 「哲学」研究者であり、応用人文学の実践となる哲学カフェなどの豊富な経験をお持ちの上村崇さん、大学の医療系学部に所属し、医療系学会にて「医療倫理」研究・教育に携わられている大北全俊さん、複数の病棟勤務を経た後、現在は感染管理認定看護師として医療現場に従事されている徳屋しのぶさんから貴重な示唆をいただくことができました。
 事前に伺いたい/討論したいと思って用意していたトピックのほとんどを実際には扱いきれないまま残念ながら時間終了となってしまったのですが、ジェンダーの観点、メディア表現の特質などの論点をはじめ、医療を媒介に多分野が交錯するダイナミズムを存分に楽しむことができ、おかげさまで有意義な時間となりました。

 これは人文学ならではだなあとあらためて実感したのは、当たり前とされている通念を立ち止まって考えてみることで、より明確に問題が見えてくるということ。
 また、医療現場、医療教育の領域においてすでに「物語」があふれている一側面もあるという指摘はとても興味深いもので、さらに、感動を消費してしまうかのような物語の功罪も含めて、医療をめぐる物語のあり方について今後も吟味していきたいです。
 このプロジェクト(医療人文学/応用人文学/医療ナラティヴ研究)は今後も継続していく予定です。分野の領域をさらに拡張しつつ、医療を軸に様々な分野が交錯する対話の場を作っていきたいと願っておりますので、ご関心のある方、ぜひご一緒させてください。

2017年6月20日

 医療分野とコミックス研究とを繋ぐ「グラフィック・メディシン学会」(Comics and Medicine)は、2010年にロンドンでスタート以来、本年度で8回目。米国シアトル公立図書館で開催された年次大会(2017年6月15日~17日)にはじめて参会し、研究発表をしてきました。

「グラフィック・メディシン」は、医療人文学での教育経験を持つ英国在住のコミックス・アーティスト、イアン・ウィリアムズ氏によって提唱された概念であり、2007年にウェブサイトが開設されるところからスタートした(http://www.graphicmedicine.org/)。代表作となるグラフィック・ノベルとして『バッド・ドクター』(2014)がある。医療現場や医学教育の領域にコミックスを導入することによって、コミュニケーション、表現活動をも含めた新しい医療人文学のあり方を探る学際的/領域横断的なプロジェクトである。
ウィリアムズ氏の他には、大学院で医療人文学(生命倫理)を学び、現在も医学教育の現場で「コミックスを描く(“Drawing Medicine”)」セミナーを展開しているコミックス・アーティスト、MKサーウィック氏(「コミック・ナース」の別名もある)をはじめ、英国、米国、カナダ、オーストラリアの大学で医学教育に携わる研究者、医療や病にまつわるグラフィック・ノベルを製作するコミックス・アーティスト、医療系に特化したメディカル・イラストレーターなどがその中軸を担っている。2015年にはペンシルバニア州立大学出版局から『グラフィック・メディシン宣言』を刊行し、今日までウェブサイトおよび年次大会の発展を推進してきている。

英語圏が中心ではあるが、英国、米国、カナダ、オーストラリアでは医学教育/医療現場を取り巻く環境も大きく異なるようであり、実践的な意見・情報交換の場として学会が機能している。集う研究者の領域も、医学・看護学・公衆衛生学・文学・心理学・社会学・教育学・哲学・倫理学・芸術学・美術史・法学・ゾンビ研究など多岐に渡っていることから、医療分野に特化した高い専門性を持ちながら、同時に学際性を共存しうるユニークな学会として回を重ねるごとに拡張してきている。
今年の年次大会の基調講演は、コミックス/文学研究者であるヒラリー・シュート(ノースウェスタン)教授や、アフリカ系アメリカ人によるLGBTQ(性的マイノリティ表象)を打ち出したコミックス・アーティストの先駆的存在に位置づけられるルパート・キナード氏らがつとめた。このように、学術研究を基本としながらも、実作者による講演を交えているのもコミックスの専門学会ならではのことであり、学会の提唱者であるイアン・ウィリアムズ氏も、現在、進行中であるグラフィック・ノベル作品『レディ・ドクター』の構想を披露している。ほかにも、「グラフィック・メディシン」に位置づけられる医療コミックスの「マーケット・プレイス」や原画オークションが開催され、アーティストと対話できる場が多く設けられているのも特色となっている。
さらに、研究発表という形ではなく、フロアを交えた対話参加型セッションも多く、「子どもに対する医療教育のツールとしてのコミックスの役割」や、コミックス・アーティストを交えたトーク・セッションなども盛り込まれている。
コミックス・アーティストを招聘してのワークショップ「医療コミックスを描く」も展開されており(私は画才がまったくないので参加できなかったが)、参加者が医療にまつわる自身の体験をもとにしたコミックス(マンガ)をその場で1頁描き、それぞれが話をしあう試みもある。この場合の医療にまつわる体験とは、患者であれ、医療従事者であれ、どのような立場でもよく、参加者から様子を聞いてみたところでは、それぞれの視点からの物語がヴィジュアル表現と組み合わされることでより一層興味深いものとなることを実感できるという。しかもコミックス・アーティストの論評/助言ももらえる貴重な機会となるもので、毎回このワークショップを楽しみにしている学会参加者も多いとのこと。
同時間帯に4部屋でセッションが行われているために、私自身が参加できたのはごく一部でしかないのだが、傾向としては、精神的な問題/病をどのようにヴィジュアル表現を通して扱うことができるかをめぐる関心の高さが目立った。コミックスを描くことによるセラピー効果を探る「アート・セラピー」という概念、「戦争帰還兵のトラウマをコミックスでどのように表現することができるか」に特化したセッションなどもある。

個人的な収穫としては、やまだようこ先生(京都大学名誉教授/立命館大学教授)とお話させていただく機会を得られたこと。他分野の研究者との新たな出会いは海外学会での醍醐味の一つである。国内の学際的な学会に参加したとしてもたいていセッションは細分化されているために分野の異なる方と知り合う機会は実は意外に少ない。
やまだようこ先生は、新曜社から『喪失の語り――生成のライフストーリー』などをはじめとする『やまだようこ著作集』(全12巻、2007~ )を刊行中であり、ヴィジュアル・ナラティヴ/ナラティヴ心理学など新しい領域の拡張に先進的な研究者。なんとこの学会の第1回大会(と第7回大会)にも参加されていらっしゃるとのことで、いろいろとお話を伺わせていただくことができ、有意義な時間を過ごさせていただいた。
 私自身の研究発表は、闘病コミック・エッセイ『元気になるシカ――アラフォーひとり暮らし告知されました』(藤河るり、2016)を軸に、日本の医療マンガの多様性を示し、その技法と社会的機能について展望を示すもの。現在のところ、グラフィック・メディシン学会は英語圏中心となっているが(ウェブサイトでは『ブラックジャック』、『医龍』、『最上の命医』などいくつかの日本の医療マンガも紹介されている)、表現技法の発達と多様性からも日本の医療マンガの進展は目覚ましく、比較考察することでこの領域をさらに推進していくことができるものと見込まれる。

 来年の年次大会は、再び米国での開催で(2年連続米国での開催ははじめて)、ヴァーモント州のカートゥーン・スタディーズ・センター(The Center for Cartoon Studies)にて2018年8月16~18日の予定。













あなたも狭山市に住んでいますか(2017年5月5日)

「たくさんの金魚がプールで泳ぐ姿はキレイだろうなって思って」。
 2012年に埼玉県狭山市の中学校で実際に起こった事件は不思議なぐらい想像力をかきたてるものであったようで、小説やイラストなど、プロ、アマチュアを問わず様々な物語が生み出されてきた。
とはいえそうはいっても、「女子中学生たちが中学校のプールに夜、忍び込み、夏祭りの金魚すくいで余った金魚400匹を放った」というそれだけの顛末ではあるわけで、そんな郊外のちょっとした日常の逸脱が映画に結実されたばかりか、第33回サンダンス映画祭(ショートフィルム部門)グランプリを受賞とくれば、海外の観客にこの物語の想像力がどのように響いたのか、興味は尽きない。
 長久允監督(1984- )による短編映画『そうして私たちはプールに金魚を、』は渋谷ユーロスペースで公開が開始され、関西、長野と少しずつ公開規模を拡張しつつある。
カンヌ広告祭(2013年ヤングライオンズフィルム部門メダリスト)受賞など、CMプランナー/ディレクターとして活躍中の表現者らしく、テンポ良く切り替わるスピード感と小気味よいセリフが魅力。
 豊穣に言葉が紡がれるが、彼女たちの気持ちはよくわからないままであり、感情や感覚を巧く言語化できないもどかしさこそが十代ならではであるわけで、説明できるようになった頃にはすでに青春時代は終わりを告げているのだろう。
中学生の行き場のないどんづまり感が「どこにも繋がっていない国道」に象徴される郊外の閉塞に巧く重ね合わされていて、思春期ものと郊外の相性の良さをあらためて実感させてくれる。アメリカのオープン・ロード「ルート66」と、渋滞のイメージしか沸かない「国道16号線」とがいかに異なることか!
 「中2病」はよく扱われるモチーフであるけれども、中学生ものは実は意外に難しく、それもこれも中学生は行き場もなく、言動の背後にいちいち理由なんてなく、ドラマになりにくいからにほかならない。
この物語においても「なんでかわかんないけど」「結局」という言葉が連呼されるように、そもそも中学生でいること自体に意思や選択の余地などない。
 夏休みだからと言ってバイトができるわけでもなく、七夕祭に行っても劇的に人生が変わるわけでもない。部活が時々あって、あとは自転車で近くのイオンに行って何を買うわけでもなくぶらぶら過ごすぐらい。
 自転車ではとてもじゃないが、どんづまりの国道から先の世界には出られない。飛び交う自衛隊の飛行機もここから外に連れていってくれはしない。
 かくしてキャッチフレーズは「君はここから出られないのだ、夏」。

 思春期ものの舞台として、郊外や地方の光景は確かに相性が良いが、「ここから抜け出したい」という原動力と、「いずれ皆がバラバラになってしまう」刹那の感覚が十代の「いま」を特別なものにする土壌として有効に機能しているから。
 しかし、ベッドタウン型の郊外がおそろしいのは、結構、遠いのに通えなくもない中途半端なアクセスと人口急増期に作り上げられたインフラ整備などにより「そこそこ便利」で、抜け出したいが抜け出す説得力を得にくい点に尽きる。
この物語でも難易度の高いダンジョンになぞらえられているように、どこに行くにもアクセスはめっぽう悪いにもかかわらず、地元の高校に通う場合でも自転車で1時間以上程度なら平気で通う。大学や会社にだって、電車で片道2時間かけてつらいのに通いきれてしまう。物価もそこそこ安く、刺激はないが不満もなく、「そこそこ幸せ」な日常が茫漠と広がっている。
 1990年代以降の「失われた20年」とも称される不況と社会構造の変化すらなかったことになってしまっているような「退屈な日常」の世界に物語の主人公たちは今もなお住んでいる。本当はいつでもぽんと外に出られるはずの外側の世界に、気軽に日帰り/通勤・通学できてしまうがために、逆にいつまでも「ここ」から抜け出せる気がしない。そんなおそろしい郊外の閉塞感と呪縛がリアルに描かれている。
 パンフレットの制作日誌にて触れられているように、15歳の役者が演じる中学生を描いた物語でありながら、この場合の「リアル」は彼女たち現役の中学生たちのリアルを意味するものではない。「大人に向けて作った大人のための青春映画」であり、15歳の出演者たちから口々に「こんな言葉喋らないんですけど」と言われ、挙句に「どうして金魚をまくか結局あまりわからない」という散々な反応であったそうで、出演者たちがまったく共感できない物語と演出が、外国の観客をも巻き込んで幅広く共感されるという不思議。
 25分弱の短編映画で、CM制作をフィールドに活躍中の表現者ならではの目まぐるしくモンタージュが挟み込まれる構造であるために、実はどの映画にも似ていない。それでいて、実際に作り手からも言及がなされているように、ある種の系譜を意識しないではいられない。相米慎二『台風クラブ』(1985)、岩井俊二『打ち上げ花火、下から見るか、横から見るか』(1993)、庵野秀明『ラブ&ポップ』(1997)……。
 とりわけ『打ち上げ花火、下から見るか?、横から見るか?』は、プールをクライマックスの場面に据えていることからも誰しもが想起するところであるが、当然のことながら真夜中の学校のプールに照明なんてついてない。
きわめてローカルな場所を舞台にしたこの物語が、言葉の壁を越えて、サンダンス映画祭で受け入れられたというのは嬉しい驚き。
 十代および郊外の閉塞感は国境を越える。
 そもそもサンダンス映画祭自体、スキー・リゾート地であること以外に「何もない街」ユタ州パーク・シティに文化と若者を呼び込もうとしてスタートしたものであった。
「誰もが皆、狭山市に住んでいる」。
 佐藤雅彦の本当はどうかしてるはずのキャッチコピーが説得力を持つ。

 この物語にインスピレーションを与えた、実際のかつての少女たちが渋谷ユーロスペースの初日上映に招待されていたというのも現実世界との接点に彩りを添えてくれる。
 「何もない街」の「何も起こらない日常」からのちょっとした逸脱が思いがけず大きなニュースになり、そこから新たな物語がもたらされる想像力の源泉になってくれた。
 まだ実際の出来事から5年ほどしか経っていないけれど、これから年齢を重ねていくほどにこの「大人のための青春映画」は彼女たちにとってより特別な存在になっていくことだろう。
 そんな特別な物語を得られたことを羨ましく思うが、それはちょっとした逸脱ができた人たちだけの特権。










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