借りてきた猫のように

――フィクションの中で生きる~映画・小説・音楽・マンガなどの日常――

過去ログ

この世界の片隅に(2017年9月)



 とある家族行事と敬老の日にあわせて母親の3姉妹が「最後の旅行」のために来宅。
伯母二人が広島から上京し、従兄が車で富士山の見える河口湖の温泉宿まで連れて行ってくれることに。
あれ? 十年ほど前にも「最後の旅行」で日光に行ったはずでは、と思いつつ、一番上の伯母はすでに80歳を越えており、「最後の旅行」の延長もそれはそれでおめでたいかぎり。
敬老の日もすでに授業がはじまり休日ではなく、そもそも車の免許すらない私に何ができるかと言えば、何もないなあと思いながら、ちょうどタイミングよく、アニメ映画『この世界の片隅に』のブルーレイボックスが、細馬宏通さんによる待望の新著(比較メディア文化研究の名著!)『二つの「この世界の片隅に」――マンガ、アニメーションの声と動作』(青土社)と共に届いたので、本で得た知見をさらに盛り込んで、上映会+特別授業をしてみました。

 呉と東広島に住む伯母2人もそれぞれの映画館で鑑賞していたようで、さすが地元。
小学校の国語教師をしていた叔母は、忠実に広島弁が再現されていた分、数か所違いが気になるといえば気になった、と話していたので、「もしや」と思って確認してみると、「やはり」でした。それはですね、あなたたちが広島弁と思っている言葉が実は広島弁ではない(=呉弁)という。このアニメ映画では広島と呉との言語文化圏の差異が丁寧に描き込まれていることをあらためて実感できました。今後は世代の差異もますます大きくなるでしょうね。伯母の言葉はもう若い世代には継承できないだろうなあ。
ブルーレイ(DVD)の良さは、お喋りしながら何度でも鑑賞できることで(それはけっして映画にとってよいことではないことを承知しつつも、「もう一回」とリクエストに応じて十回以上くりかえし観た場面も・・・)、特定の風景やそれぞれの記憶を、ああでもない、こうでもない、と想い出すきっかけになってくれたようでした。
一番年長の伯母は終戦時、十一歳で、私の母親をおぶって大八車を引きながら疎開先(祖母の実家)から呉まで歩いて帰る途中に米兵に写真を撮ってもらったそうで、そんな写真がどこかで流布していたとしたらおもしろい。

 正直なところもう少し有益な話が聞けるかなという期待もあったのですが、これがまた本当にさっぱりで、こちらが掘り下げたい肝心なことは記憶がおぼろげだったり、子どもだったので認識できていなかったり、そもそもうまく説明できなかったりでまったく要領をえず。挙句にそれぞれの記憶の正しさを主張するあまり口論になりかけることもしばしば。

 でもまあ当人たちが楽しそうだからよいか、ということでおかげさまで楽しい時間を過ごしてもらうことができたのでした。







打ち上げ花火、新作から見るか旧作から見るか(2017年9月3日)


 昨年、九州に住む姪が夏休みに遊びに来てくれたのがとても新鮮だったので、今年はこちらから「高校生女子」「中学生男子」「小学生女子」の3きょうだい一家に「一週間レンタル移籍」のオファーを出してみました。その結果、去年と同じ「小学生女子」に来てもらえることに。中・高生はやっぱり何やかやで忙しいみたいで残念ながら相手にしてもらえず、そう思うと一緒に遊んでもらえる時間は貴重ですね。去年より十センチ背が伸びたとのことです。

 去年も行ったムーミンカフェでは今年はミーとムーミンママに来てもらいました。
 スヌーピーミュージアムには、ペパーミント・パティの誕生日(8月22日)に訪問できました。
 藤子・F・不二雄ミュージアムでは、「きれいなジャイアン」で有名な「きこりの泉」が再現されていました(これは開館当時にはなかったはず)。
 すみだ水族館の特別企画「クラゲとゲゲゲの初コラボ 水の妖怪トンネル」は、水木しげるの妖怪作品を背後に漂うクラゲの姿がなかなかの見もの。これは新しい流れを生むかも。

 とまあ要は、私自身が行きたいところにつきあわせてるだけなのですが、さらに映画を一緒に観てみようということで、『HiGH&LOW THE MOVIE 2/END OF SKY』を観たいという意見を却下して選んだのが『打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?』。
 私自身、小学生の頃、従兄に連れられて観に行った『ねらわれた学園』(1981)が映画の原体験になったので同じような体験になってくれればという壮大な期待もあったのですが、うーむ。公開早々に観に行ってしまったのは準備不足であったか。

 岩井俊二の出世作となったオリジナル版(1993)はもともとテレビのオムニバス・ドラマ『If もしも』の企画であったために物語上の制約も多い45分ほどの短編作品で、1995年に劇場公開用に再構成されたもの。90年代後半の映像表現に与えた影響には多大なものがあるとしても、毎年「思春期文化論」の授業で用いている中で、時代/世代の乖離も気になりつつあるところであった。
 アニメでのリメイクにより時代を越えた物語として新たに生まれ変わってくれればという期待と同時に、小学生から13歳への設定変更がはたしてうまくいくかどうかという不安もあったのだが、リメイクの難しさを痛感。途中、思い起こしていたのは『うる星やつら3 リメンバー・マイ・ラブ』(1985)で、おもしろくなりそうな要素が随所にありながら微妙にかみ合わない、もどかしい居心地の悪さがまさにこんな感じだったなと。
 主題曲を担当したDAOKO×米津玄師(傑作!)をはじめ表現者それぞれの仕事が発揮されていて、シャフト(新房昭之総監督、武内宜之監督)であればこうなるだろうし、大根仁に脚本を任せればこうなるだろう。声優をつとめたキャストも評判ほど悪くない。分業であればこその相乗効果が現れる作品もあれば、この作品に関してはそれがどうもうまくはまらなかったようだ。リメイク作品の役割の一つにオリジナル作品と見比べる楽しさもあるのだが、オリジナル作品を観る新鮮さまでもが損なわれてしまうのが何より気がかり。

 小学生を描いた物語も、13歳を描く物語も、傑作とされる作品は意外に少なくて特に中学生は一学年ごとに見える世界がまったく異なるもの。その中で、現在公開中の『スパイダーマン――ホームカミング』にしても15歳の少年の心情に寄り添って再構成している点が成功の鍵になっている。
 『打ち上げ花火』のオリジナル版にしても、小学生男子の視点で、主人公が言語化(認識)しえないことについては当然ながら表現できておらず、しかし、多くのすでに小学生ではない観客はその言語化しきれない点にこそ想いを馳せ、補完するところにこそこの作品の魅力があったのだが、リメイク版では主人公が過剰な言葉と行動で「もしあの時こうしていたら・・・」を満たしきってしまう。
 また、オリジナル版では奥菜恵、山崎裕太、反田孝幸をはじめ子役役者の演技力が卓越していた上に、灯台を目指す他の男子たち一行のキャラも描き込まれていたのだが、リメイク版ではその他の男の子たちの冒険物語や心情が印象に残りにくいのも難点。

 現在公開中の作品に対して否定的な反応は記さない方が良いのだが、良くも悪くも議論を招く作品であるので「観てから語る」ためにもぜひ劇場で観てほしい。オリジナル版も「豪華版Blu-ray BOX」として新たに発売中。
 ちなみに感想を姪に聞いてみると「内容はよくわからなかったけど、花火はすごく綺麗だった」とのこと。さすがに映像表現は申し分なくすばらしい。

 そんなこんなで、結局、あちこち連れまわしすぎてしまい、最後は疲労でダウンさせてしまい、食欲なくフラフラの状態のまま新幹線で九州へ見送ることに。来年はたして来てもらえるかどうか?


日本SF大会「ドンブラコンLL」(2017年8月29日)

 第56回日本SF大会「ドンブラコンLL」(於・静岡県コンベンションアーツセンター)終了。SFやファンカルチャーは高度に細分化してそれぞれの領域が発展しているもので、コンベンションの楽しみ方も各人各様で完全に多様。あくまで個人的な雑記ということで。

 私自身の関わった企画「視覚映像文化とSFの部屋」は今年で5年目。主にアメリカSF映画の最新の潮流から毎回テーマを設定し、研究発表/パネル・セッション形式で展開するもので、今年のテーマは「死/不死」。
 SF研究者である小畑拓也さんの報告は、『ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー』(2016)を軸に、『ウルトラマン』、『スター・トレック』から、永井豪『デビルマン』、聖悠紀『超人ロック』、ゆうきまさみ『鉄腕バーディー』まで多岐に渡り比較参照されながら、「共生」による「延命/不死」実現の世界のあり方を探る試み。
 特別ゲストのイリーナ・オリーガさんはロシア出身の比較文学研究者。「ディストピアと死」のモチーフを軸に、ペレストロイア以後のロシアにおける日本アニメの受容を探る研究として、『攻殻機動隊』(1995)、『Wolf’s Rain』(2003)にまつわる分析を披露された。
 中垣は、藤子・F・不二雄『21エモン』(1969)における「ゼロ次元」、高橋留美子『人魚の森』(1987)から、映画『未来惑星ザルドス』(イギリス、1974)、『ドウエル教授の首』(ロシア、1984)などを通して、「不老・不死」というユートピア的世界観を追求する背景とそこから顕在化する社会構造的問題、哲学的な問題について論点を提起したところで時間終了。
 SF大会は皆さん、お話がうまくて、しかも会場とのやりとりも巧みに導入されていて、文字通りの意味での「一方通行ではない」トーク・セッションが展開されていて運営面でも学ぶべき(反省すべき)ところが多い。
 このテーマはイリーナさんによる発題であったのですが、結構な手ごたえを感じるものでした。「不老・不死」が実現したSF的未来世界であるはずなのに、不思議とそこが退廃的なディストピアに転じてしまっているという。ちなみにイリーナさんの日本文化への関心の源泉は、「高橋留美子作品における神道の描かれ方」であったそうで、このテーマもまたいずれどこかで。
 SF大会は名だたる方々のお話を気楽に直にうかがえるプログラムが何よりの魅力であり、そんな中、私たちの企画に足をお運びいただけた方々どうもありがとうございました。
 と言いながら申し訳ないのですが、私は同時刻に開催されていた「秋本治『星雲賞』受賞特別企画」を見ることができなかったのが本当に無念。『こちら葛飾区亀有公園前派出所』が星雲賞(コミック部門)を受賞されていたのですよ。

 ふとプログラムを見ると、『この世界の片隅を』のキャンペーンで世界中を飛び回られているはずの片淵素直監督が「アニメーションの知覚心理学――『仮想運動』とは何か」の講師としてご登壇。知覚心理学者・吉村浩一法政大学教授とのトーク・セッションで、アニメーションにおける「動き」の技法、リアリズム表現について分析するという一般公開企画。
 専門性の高い内容ながらも、『この世界の片隅を』の場面に基づきながら解説いただき、とても参考になりました。その後、個人的にお話をさせていただいて、ワシントンD.C.(「OTAKON」)での上映+トークイベントに居合わせたご報告などもさせていただくことができました。SF大会翌日には「ひろしまポップカルチャー」イベントでトークショーをされており、作品を広く届けようとされる地道なご活動に敬服するばかりです。
 そもそも『この世界の片隅に』はSF/ファンタジーなのか?という疑問もあるでしょうが、間口の広さこそがSF/SF大会の良さでもあり、実際に栄えある「第16回センス・オブ・ジェンダー賞 時を超える賞」受賞作に!
 原作マンガのこうの史代作品との併せての受賞で、メディアと時間を越えた奇跡的なコラボレーションと、戦時下の生活を扱う物語にファンタジーの要素を織り交ぜた手法に対する功績によるもの。

 ほか、たまたま立ち寄るセッションのそれぞれで様々に触発されました。
「短編作家としてのバラードの魅力を語る」(増田まもる・巽孝之)では、現在、刊行中の『J・G・バラード短編全集』(東京創元社)を読みたい/読まなければと切に思うようになり、「荒巻義雄、最新作『もはや宇宙は迷宮の鑑にように語る』」(荒巻義雄・巽孝之・増田まもる・三浦祐嗣・高梨治・岡和田晃)では最新作のみならず『荒巻義雄メタSF全集』(彩流社)を、「映画評論家 鬼塚大輔の劇場未公開SF・ファンタジー映画トレーラー『こんなの知ってるかい?』」では、『新感染 ファイナル・エクスプレス』と『シンクロナイズド・モンスター』は劇場でやはり観ておくべきであろうと心に期し、「祝! 新井素子デビュー40周年」では、作品はもちろんのことやはりぬいぐるみとの「共生」は素晴らしいと再認識し、「レトロ星雲賞」の長澤唯史さんの解説をうかがい古典作品を現在の系譜と併せて読み直す意義を再確認し・・・と、例年にもまして収穫の多い大会でした。

 しかも私が目にしたのはそのごくごく一端にすぎないもので、観に行きたかったプログラムはほかにもたくさん。
 次年度は合宿型で、2017年7月21・22日に群馬県水上温泉にて開催。
「視覚映像文化とSFの部屋」は来年も予定してますので、よろしければぜひご一緒ください。







終わらないグラウンドホッグ・デイ(2017年8月20日)



 ブロードウェイ・ミュージカル『グラウンドホッグ・デイ/恋はデジャ・ブ』がオーガスト・ウィルソン・シアターにて公演中。

 もともとはビル・マーレー主演による1993年の映画作品を原作とするもので、知る人ぞ知る人気作。ビル・マーレー演じる天気予報士の主人公フィルがテレビ番組収録のためにペンシルバニア州に実在する人口6000人ほどの小さな町パンクサトーニーにいやいやながら出張するのだが、収録を終えるや帰ろうとするも大雪のために道路が封鎖されてしまい町から抜け出せなくなってしまう。そればかりか、同じ一日を永遠にくりかえす羽目に陥る。 
 「グラウンドホッグ・デイ(聖燭節)」とはグラウンドホッグ(ウッドチャック、リス科)に春の訪れを占ってもらうというアメリカ東海岸の一部地域で実際に行われている行事で、節分に相当する2月2日に開催されている。その起源は19世紀後半に遡る長い歴史を有するも、もともとは小規模な地方行事であった。ところが映画の公開以後、すっかり有名になり、現在では4万人近い訪問客で賑わうほどまでに。

 主人公フィルは、なぜ自分のようなスター・キャスターがこんな田舎町まではるばるやって来なければならないのかと尊大な態度でふるまい続け、周囲から顰蹙を買っている「嫌な奴」。一方、取材に同行するヒロインのリタは、番組プロデューサーとしてフィルのこともうまく扱いながら、お祭りを楽しむ町の人々の様子を魅力的にリポートできるように尽力しており、明るくて気づかいのできる「良い人」。
 日本のポピュラー・カルチャーを視野に入れれば、押井守監督のアニメ映画『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』(1984)や、『涼宮ハルヒの憂鬱』の「エンドレス・エイト」(2009)、ハリウッド映画化された『オール・ユー・ニード・イズ・キル』(2014)など、同じ時間をくりかえすモチーフ(ループもの)は何度も描かれてきた。
 その中で『グラウンドホッグ・デイ/恋はデジャ・ブ』が際立って映るのは、中年男性の恋愛(ロマンティック・)コメディを基調としている点。物語開始の時点ではフィルとリタの間に恋愛感情が芽生える兆しはまったく見られない。「自分にふさわしい相手にようやく出会えた」というエンディングはハリウッドのロマンティック・コメディでお決まりの筋書きだが、男性の「中年の危機(ミドル・エイジ・クライシス)」をめぐる物語でもあって、人生を折り返す年齢を超えて、これからどう生きるかを問い直すことも主題の一つ。
 「もし同じ一日をくりかえし続けるとしたら?」の仮想のもとにくりひろげられるフィルの試行錯誤は哲学的な意味をも帯びるもので、ティーンネイジャーの物語とも異なり、「もううんざり。死にたい」と思っても死ぬという選択すらできない苦悩が切実に映る。

 「なぜ今ブロードウェイ・ミュージカルに?」という疑問を抱きつつも、時代をこえて普遍的に響く物語であることはまちがいなく、中年男性の恋愛コメディというジャンルからも日本では「知る人ぞ知る」作品に留まりすっかり忘れ去られつつあるが、現代版としてリメイクできるなら絶好の機会。
 時間をくりかえす展開は映画であればこそ編集によって表現しやすいものであるが、舞台でははたしてどのように再現しうるのか? また、ビル・マーレーの主演作品ということもあり、傲慢で不愛想で嫌な奴という個性的なキャラクターをどのように演じるのかが焦点となる。フィルは歌って踊る感情表現豊かなキャラクターとは対極の存在である。
 また、「もし同じ一日をくりかえし続けなければならないとしたら?」という、いわば中二男子的な妄想を、大人になりきれない主人公が体現する設定からも、「男性のファンタジー」の典型例となるわけで、映画版から25年の時代思潮の変化を経て、セクハラとなる言動や性的願望をどのように扱うのか。つまり、役者/コメディアンとしてのビル・マーレーによって成立していた要素をどのように継承、あるいは変換しうるのか。ブロードウェイ・ミュージカルの観客層からも年齢は高めで、映画版を踏まえたミュージカル版であることを期待する観客が大半であると見込まれる。

 おそらくは百回を超えるほど同じ一日を何度も何度もくりかえし、そこから抜け出すことがどうしてもできないフィルの苦悩を観客に共有させつつも、苦行を強いるだけではエンターテインメント作品として成立しない。映画版でもこの工夫が随所に凝らされていて緩急の効いた物語展開がこの作品の生命線となる。
 舞台上のターンテーブル(移動式テーブル)を巧みに使い、時に鳥瞰図的な構図なども交えながら、視覚的にも単調にならないような構成が見所。驚くべきことに、映画版と同じ脚本家(ダニー・ルービン)が担当していることにより、映画版のエピソードの多くが2幕2時間30分の舞台でほぼ忠実に再現されている。
 主役を演じるアンディ・カールは、ビル・マーレー演じるフィルに寄せた役作りをしている。誰が見ても「嫌な奴」であることが重要であり、それでいて観客から心底嫌悪されてしまうようでは主人公になりえない。恋愛コメディとしても、哲学的な側面からも、共感もしにくいし、恋愛の憧れの対象となるような主人公ではない。ビル・マーレーならではであった難しい役どころをうまくこなしている。
 また、冬の終わりをめぐる物語であることからも、防寒による冬の装いと、同じ朝の到来を示す場面では部屋でくつろぐ下着姿との対比が重要であるわけで、要は「服を着ては脱ぎ」を何度もくりかえさなければならない。
 主演俳優賞をはじめトニー賞は7部門でノミネートされながらも残念ながら一つも得られなかったのだが、主演俳優、舞台美術、脚本が卓越している。マルチメディア化がより一層進む現在に物語を再創造することで、テレビをめぐるメディア表現や時間を意識させる「時」を現す舞台装置も目を引く。

 2016年英国ロンドンでの初演後、2017年4月にスタートしたブロードウェイ公演初日はターンテーブルが故障してしまったことにより舞台の続行を断念せざるをえなかったという。ほかにも、主演のカールがプレヴュー公演時に怪我をしてしまい代役をたてざるをえない事態などを乗り越えて、人気と評価を着実に高めてきている。けっして派手な物語ではないが作り込まれた舞台であることが随所に見受けられる。
 舞台化を経て、あらためて実感されるのは物語の筋立てはオーソドックスなものであり、ふと映画『素晴らしき哉、人生!』(1946)が思い起こされた。クリスマスを舞台にした物語であることから半世紀以上にわたって、クリスマス時期にテレビなどで放映される定番の物語として現在まで継承されてきた。「自分がもし存在していなかったら?」という仮想の世界を天使によって見せてもらうファンタジーを軸に、人生を見つめ直すという筋立ても実はとてもよく似ている。
 2月2日には『グラウンドホッグ・デイ/恋はデジャ・ブ』を鑑賞することを習慣にしているという声も実際に見聞きするのだが、ミュージカル版を経て、あらためて注目がなされることでこれまでに作品が届かなかった層に関心をもってもらう契機となればと思う。ひょっとしたらいずれ現代版のリメイク映画などの構想も出てくるかもしれない。キャラクター造形や時代思潮の変化を織り交ぜたアップデート版も有効だろう。













amazonブックス @ ニューヨーク(2017年8月18日)



 2015年にシアトルで営業を開始したamazonの店舗型書店「amazonブックス」が、いよいよニューヨークの中心地マンハッタン、セントラルパーク近くのモール(「コロンバスサークル」)でも2017年5月末に開店(アメリカで7店舗目に相当)。
 業界の一人勝ちとして既存の店舗型書店を軒並み廃業に追いやってきたばかりか、書店の域をはるかに逸脱し、およそありとあらゆる分野を扱い、消費・販売のあり方から、物流・税制に至るまで「革命」と「問題」を引き起こし続けてきた企業が満を持して再び店舗型書店を自前で創りだすという展開に・・・。

 ワシントン大学周辺に位置し、ゆったりとした郊外型店舗を構えるシアトル1号店と比して、ニューヨーク店はその立地からもモール内(3階)の一角にある小さなスペース。つまり、amazon書店がまさに21世紀に追いやってきた対象であったはずの小規模書店であるわけだが、オンライン店舗でのノウハウを駆使して、レビューや、「この本が好きな人はきっとこの本も好き」などのデータを効果的に導入している点に特色がある。
 しかもどうやら配架されている本は売上やレビューで高評価を得た本だけに限定されているらしく、ここに本が並ぶことが新たなステイタスになりうるかどうか。ポピュラー音楽のヒットチャートの如く、消費文化の最たるもので、自分が著者の立場であれば息苦しさを感じるのが正直なところであるが、出版をめぐる現在の状況を思えば売上は無視できない現実でもある。

 また、近年、amazonは人工知能を用いた家電デバイス「amazonエコー」などの独自のメディア開発に、より一層力を注いでいることからも、店舗は「実演」販売に適しているわけで、アップルストアの店舗のあり方に近いと言えそうだ。オンラインのamazon会員情報とも連携させており、現金による支払いは不可。顧客の反応をダイレクトに確認することもできる。宣伝やデータ収集などを考えれば採算も十二分に期待できるのだろう。
 さらに目を引くのは店員の多さで、さながらアパレル店員のように気さくに声をかけてきてはお客の嗜好を探り、お薦めの本を紹介してくれる。これはやはり、話しかける文化が根づくアメリカならではだろう。日本では、アパレルにせよ何にせよ、「とにかく店員に話しかけてこないでほしい」という最近の顧客の傾向にまつわる記事(「話しかけない接客サービス広まる」)を読んだばかりであったのでその対照性をより一層興味深く思った。
 日本ではやはり根づかないスタイルなのだろうが、書店員がそれぞれの得意分野を持ち、コンシェルジェや熟練のアパレル店員のようにそれぞれの顧客にあった本をコーディネートしてくれる試みもおもしろく、ある意味で理想の書店像。新刊ばかりに偏重がちな日本の文化傾向(出版にかぎらない)と比して、既刊本、あるいは古本までもが書棚で並列しうる海外書店の文化背景にもよるのだろう。

 配架する本の数を店舗型書店では絞り込んでいるわけで、本のジャケットが見やすい配架方法も特色になっている(日本での「平積み」に相当)。amazonといえば、取扱量の多さこそが最大の利点であるはずだが、逆に、書店員が掌握できる範囲に量を限定する方針というのも店舗型書店の一つのあり方を示すものでもある。
 開店してまだ間もないこともあって、店に入ってくる人たちが口々に「え? amazonが店を出してるの?」という言葉を交わしているのも一興。

 ニューヨークは1927年創業の老舗「ストランド書店」が品揃えで抜きん出ているし、配架の工夫も凝らされていて本を探しやすい。日本と異なり再版制度もなくディスカウント販売もできるため安いのも強み。
 テナント料が超絶高額な都市部ということもあり、どうしてもこのように大型店に限定されてしまっている状況であるが、amazonはすでにアメリカ国内での店舗創設事業計画を発表しており、西海岸・東海岸を中心に今後、出店数を拡張していくようである。そこからまた少しずつ多様な店舗型書店の復活に繋がっていってくれることを期待したい。

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